今日は休んだ。疲れている。脳が疲れている。このまま一ヶ月くらい休みたい。それくらい疲れている。ネバならないというのはibだ。ネバならないというのはないのだから、あんなババアは殺してもいいのだ。 ネバならないことはない。ネバならないと思うからぐれなければならないと思うのだ。真面目な人間がぐれると恐いのはぐれなければと思うからだ。ぐれなければならないことはないのだ。ネバならないということはない。 もう疲れた。休みたい。休みたい。もう五年以上戦ってきた。いつ終わるんだ。あのババアはどんどん元気になる。私がいくらおとなしくしていても関係ない。俺を殺そうとしている。しゃべると攻撃してくる。キチガイだ。 電車男面白い。ネバナラナイと思っているからいじめられる。ネバならないことなどこの世にない。ibだ。小さい頃からネバならないの塊だった。でももう今は何もかもどうでも良い。良い人でなければならないとか、優しくなければならないとか。じゃああのババアはなんだ。キチガイの人殺しじゃないか。ネバならないなんてないんだ。 ネバならないなんてないんだ。縛られすぎなんだ。いくらなんでも。もっと自由にならないと。いや、なったほうが良いが、ならなくてもどうということはない。 休んでも退屈しない。あと一週間休んでも退屈しないだろう。本を読みたい。小説を書きたい。下手でもいいじゃないかと思うようになった。ほめられたいとか思う必要はない。それはibだ。自分がハッピーで相手もハッピーであればいいのだ。 疲れる。休みたい。マンションを買おうと思ったときには疲れていた。母親を温泉に連れて行ったときにはもう疲れていた。女、おばさん、本当に困る。我慢しないといけないんだろうか。ネバならないということはないのだ。 エリスの本を読んでいるがわかりにくい。目からうろことはいかない。休みたい。私は道徳的におかしい。間違ったことと平気でする。やっぱりおかしい。でも疲れているのも確かだから休みたい。休めば何をして何をしてはいけないかわかるだろう。 エリスの本で不適切にポジティブな感情というのは思い当たる。今年に入ってからの私がそうだ。今もそうだ。もっと前からそうだ。偉大な人間でなければならない。それはibだ。偉大な人間であればよいが絶対にそうでなければならないということはない。 疲れている。休みたい。起きていると消耗する。蕩尽する。 私は本当に多くのibに囚われている。邪悪でなければならない。人の善意を裏切らねばならない。残忍でなければならない。法を破らなければならない。ヤンキーと一致しやすいのは私の考えが一致するからだ。人気の観光地に行かなければならない。人気の店に行かなければならない。紅葉を見に京都に行かなければならない。意地悪でなければならない。不真面目でなければならない。全部ibだ。 私は母親に好かれようとした。兄弟と母親の愛情を争う関係にあった。でもそれを得てしまうと結局疎ましくなって拒絶してしまった。私の女に対する関係、あるいは感情はそのパターンの繰り返しじゃないのか。愛されようとして愛されると拒絶して激しく嫌う。愛されなくてもいいじゃないか。でも愛されないことでこんないじめを受けなければいけないのか。嫌いだから嫌いで何が悪いのだ。何で攻撃されなければいけないのか。 私は女性と男性の両方がある。性と権力をめぐって難問がある。女の権力と男の権力の両方と相容れないということだ。女は集団の中で権力を得ようとすると権力者の妻の座を狙う。女にも当然権力欲がある。女は出世が早いというやつだ。ババアが嫌いな理由は人の嫁というだけで一定の権力を得るからだ。私のできないことをやるからだ。アサーティブが有効なのは自分が男でも女でも人権という権力を行使できるからだ。男でも女でも中性でも一番権力を最大化できる位置を得ればいいのだ。男になるのが嫌なら女になれば良い。でも女と仲良くしなければいけない。それが嫌なら男になって男と仲良くすることだ。私はどちらもできないので困っている。両親と私の間で起こったことは私の問題をよく表している。私は性的に女であれば父親に惹かれ、母親とライバル関係になる。逆であればエディプス関係だ。私はどちらもあるがどちらにも落ち着かない。女は妻の座を得ると構成員が自分の言うことを聞かないと男の、夫の権力に頼る。そのために妻の座を得たのだ。娘が弱いのは妻の座を得ていないためだ。女は男の権力を間接的に行使する。私は私を男とみなし、権力への挑戦者とみなす父親と対決せねばならない。私は女でもあるのに父親に愛されず、母親の攻撃を受ける。私の座はこうして神経症的な不安定さと弱さに悩まされる。私は女として男の権力を行使する権利がある。女とライバル関係にあるからだ。嫁姑の関係にあるからだ。この争いに終わりはない。死ぬまで続くだろう。kは最近北原の好意を得つつある。一所懸命働くことによって認められることで一定の認知を得たと思うと、それを元に私を攻撃しにかかる。全く油断することはできない。女のように権力者と安定的な関係を持つことはできるだろうか。絶対に無理だ。中学生以来、すなわち思春期を迎えて父親との対立を強いられる頃に父親ではなく教師と激しく対立した。家庭と社会があまりに違うので、とまどったのだ。許せなかった。父権というものが許せなかった。そこからマルクス主義、人権思想に行った。人権に性別や差別はない。ルソーもおそらく父権への反発があったに違いない。生涯独身で男か女か判らない顔をしている。楽な立場を取るしかないだろう。中高大学と対立し続けたのは父権だったのだ。女なのに父権と対立して居場所を失い、狂気に追いやられる。父権とも対立するが、女とは連帯しない。女と仲良くしたこともあったが、気持ち悪くなって仲違いした。今でも気持ち悪い。文校で起こったことはその繰り返しだ。父権と対立し、女が父権を利用して私を男として、挑戦者として攻撃した。私は女として仲良くしたいのに全然だめだった。女と同性として仲良くするのはごめんだ。私の居場所はどこだ。女との間は嫁姑、男との間ではライバル、挑戦者とみなされる。何でそんな過酷なことに耐えられるのか。私は耐えられない。男として振舞おう。会社では男として振舞ったほうが有利だ。女であっても。女に対しては権力者への密告という形を取らざるを得ない。女は私が女だと見抜いている。でも仲良くしないといけないのか。面倒だ。男として振舞ったほうがいいのじゃないか。どれだけしつこく攻撃してくるのだ。それは分裂病にもなるだろう。休みたい。一切から休みたい。
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