文校は楽しい。旅先では孤独で情けなかったのに文校では楽しい。不思議だ。女なんか嫌いでも一向に構わない。松方は両刀らしい。不思議ではない。人をコントロールできる。自分をコントロールできる。文学は素晴らしい。 私は嫌味なところがある。攻撃的ということ、意地悪と言うことだ。素直になろう。自信があれば素直になれる。それは文学によって得られるとわかった。しかも書くことによって。今回書いた小説を応募してみよう。ポケベルは応募したので二重投稿になる。 体本位で行こう。女が嫌いでもいいのだ。寂しいなどと思ったことはない。嫌いなんだから一緒にいるのは嫌だろう。性欲は全くない。 勘違いキチガイババア。何か私に欲情しているみたいでぞっとする。死んだらいいのに。自分が権力を得たので男を得られるという発想らしい。本当にぞっとする。そんなことに応じる必要はない。母親とあのキチガイババアが重なる。悲しいことだ。私はあの家に戻るべきではなかった。辛くても留まるべきだった。今となっては遅いが。私は体本位を取り戻した。もう大丈夫だ。これだけの時間がかかったと言うことだ。男は一人前になるには時間がかかると言うことだ。 体本位でいくと怒りを感じることはほとんどない。焦ったり、パニックに陥ることもない。平常心で事に当たることができる。大変素晴らしい。体本位であれば自信を持つことができる。誰と対しても動じない。他人に思いやりを示すことができる。 やっぱりどうしても嫌味な感じになってしまう。女が嫌いでもいいということだ。嫌いと言うことは変えられない。それを外に出す必要はないということだ。わざわざそんなことを教えてやる必要はないということだ。 自分以外に世界があってそこには自ずから秩序や権力が存在すると言うことがどうも私は理解できないらしい。でも最近少しわかるようになった。小説のお蔭だ。小説は外にある存在であり、人に見られるものだ。内面とはまったく別のものだ。そういうもの、人工物を私もやっと認められるようになった。人が作ったものを認めること。それは文化的ということだ。野蛮人から文明人、文化人になると言うことだ。それに入っていくことは良いことだ。野蛮人のまま生きていくことはできない。 衣食足りて云々というのがある。食欲とか性欲とか満たされて初めて文化とかそういうものに夢中になる。私は結局そういう不安があって、仕事とか趣味とかに夢中になれないんだ。でも最近体本位の考えになってから外界にあるものに目を向けることができるようになった。良い傾向だ。 楽しい。人を憎む気持ちが不思議にも消えていった。人の心が手に取るようにわかるからだ。小説をやり始めてから大きなものを得た。egと比較してもより大きな成果だ。偶然入った学校だがとても良い結果が得られた。 真面目にやろうと思うようになった。人のことが憎くなくなった。自分は自分で素晴らしいと思うようになった。女が嫌いなら嫌いでいいと思うようになった。 地球には自分ひとりしかいないと思って生きてきた。統合失調症患者の考えだ。それは誤りだと小説を書き始めて思った。多くの人が同じひとつの確固たるものに向かって進み、命を賭ける。それを私は信じられなかったが、今は信じられる。大変な成長だ。他人の言葉にも耳を傾けられるのは自分の外に何かがあると信じるからだ。 小説を書くことはただ日記を書くことや作文とは違う行為だ。私にはまだ全体像はわからない。でも理屈っぽくやっても私の場合はうまく行かないだろう。本能で書くしかない。小説は野心的な試みだ。世界を手に入れたいという。一握りの才能ある人しかだめだ。作家になろうとしたら相当な努力が必要だ。 私は絵や音楽の才能はもともとそんなにない。でも皆無ではない。絵が得意じゃなくても偉大な小説家はいる。小説を書くなら天下を取ろうと言う気概が必要だ。
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