希望の日記

2006年02月03日(金)

 新しい朝が来た。希望の朝だ。一人はみんなのために、皆は一人のために。理想の実現のために頑張るのだ。車を買おう。しけた話はなしにして夢の実現にまい進するのだ。世の中は私のためにある。皆私に奉仕したがっている。私も皆に役立ちたがっている。それが私の生存につながるからだ。こんな当たり前のことに気付かないなんて。やっと気付いた。体で気付いた。もう不可能はない。私は有頂天だ。それはそうだろう。今まで生きてきてこんな嬉しかったことはない。積年の悩みが解決した。世の中の快楽という快楽をむしゃぶりつくすのだ。あのくそ坊主に弟子入りしてもいいくらいだ。うつも治るんじゃないかな。これはうつなんかじゃなくて反応に過ぎないのだ。ババアと接しなければならないという苦痛から来た心因反応なのだ。
 どれだけ多くの人にどれだけ好かれてもいいじゃないか。いくらでも好かれればいいじゃないか。何が不満なんだ。世界中の人は私が好きでたまらないのだ。私が困っていたらいくらでも助けてやりたがっているのだ。私が好きで好きでたまらないのだ。全ての人が例外なく私のことが好きなのだ。私もこの世の全ての人が好きだ。愛おしくてたまらない。助けてあげたい。奉仕してあげたい。そうやって世の中は成り立っているのだ。子供を生み育てるなんて奉仕の心無くしては不可能だ。
 私に会社に来るなというなんて何て優しいんだ。何て私のわがままを聞いてくれるんだ。皆私に親切にしたがっているとしか思えないじゃないか。これだけ優しくされたら私も優しくするしかないじゃないか。いくらでも優しくしてやるよ。ほんとだよ。
 有頂天ホテルを観て来た。面白かった。大爆笑というのではないが、引きつり笑い、静かな笑いが溢れていた。あまり関西にはない笑いだが、結局笑いはべたなんだと思った。ひねったり知的であろうとしても結局はベタなねたが一番受ける。しかし脚本はとても凝っていた。いくつものエピソードが同時進行し、時に絡み合う絶妙な話。特に感動とか、すごいとか言う話ではなくコネタの積み重ねだ。そこは好感がもてた。結局感動とは自分のために必死でサービスしてくれる姿に感動するのである。人は必死に自分の職分に忠実であろうとし、それが時に笑いを呼ぶ。人の善良さをどこまでも信じる姿に感動を覚えた。
 人は争って私に奉仕したがる。心から喜んで私にサービスしたがる。私は可愛そうなのかなと思う。でもいい。私がすごい目を持っていると恐れているのだと思うようにしよう。この世の全ての人間は私に必死でサービスしようとしている。もちろん全ての人に対してだが。そして私もこの世の全ての人に奉仕する用意がある。いくらでも奉仕してあげよう。私は全ての人はそういう風にできているのだ。
 サドの本を買った。サドの研究書だ。大変魅力的だ。サドが非常にナイーブで純真な人間だったと気付いた。私に比べると非常にナイーブだ。妄想に取りつかれる人間はナイーブであることが多い。
 神だったらどう考えるだろうと思う。人は神の考えを一部であるが知ることができる。それくらい賢い。神が考えるとおりに行動しよう。普通に私は自分のことを神だと思う。神だから人類を幸せにするために全力を尽くす。自分が神であることを確信する。全てが美しく調和し、私に奉仕していることを感じる。今が人生最高の日であると確信する。神になった日だ。私が神になった日だ。
 体に委ねよう。体本位で行こう。サドの本は読まない方がよいだろう。少し頭がおかしくなってきた。神になった私。体本位になれば問題ない。体に委ねよう。考えるのは無駄だから止めよう。休むことが大事だ。働くこと、遊ぶこと、休むこと。この三つが大事だ。
 サドの本を読んだら少しおかしくなってきた。もちろん良くなるだろう。でももう読まない方がよいだろう。気が確かになってきた。流れが生じてくる。体に委ねれば大丈夫だ。少し頭がしっかりしただけだ。サドの本を読むどころか書いた女がいるのだ。読んで悪いことはない。自分が神とか言ってたのとどっちがおかしいのだ。体に委ねよう。体本位で行こう。明日には回復しているだろう。今日のほうがおかしかったじゃないか。


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