希望の日記

2006年03月18日(土) 今日

 風邪がどうしても治らない。休養が取れない。どうしても自分を酷使してしまう。そういうプログラムになっているかのようだ。自分は良い方向に変わりつつある。どんどん毎日成長している。今日の自分は昨日の自分とは全く違う。目が毎日開かれていく。どんどん良くなっていくので心配することなく邁進せよ。
 昨日、宮崎の精神鑑定書を読んだときに感じたこと。人は清らかで美しく、信じ、愛するに値すると。私は緊張しすぎる。小さい頃変な奴と付き合ったこと。でもそんなことを言っても仕方がない。アシュリーを見ろ。神が宿っている。あんな小さい女の子に。私はこの世に恨みを抱きがちなので、悪事を働く可能性がある。それが人に不快感を抱かせる。h君に抱く嫌悪感と同じだ。
 体本位で行こう。スポーツと芸術を愛そう。自分に意地悪するのは止めよう。体本位で行けばそうならないはずだ。この世が敵意に満ちていると決して思わないようにしよう。どんどん良くなっている。立ち止まることや後戻りすることはない。安心して一歩一歩味わいながら人生を楽しみ生きていこう。あざみのように。
 緊張しすぎないようにしよう。緊張しすぎると人間はとんでもないことを考えたり、したりするものだ。私は人間を信頼する。体で行けば緊張せずに恐がったりせずに、自然に適切に振舞えるものだ。女はそういうのを敏感に感じとって意地悪してくる。意地悪されたら怒ればいい。我慢する理由など全くない。
 日本は相当おかしくなってきている。国を挙げておかしくなっている。少年を死刑にしようと躍起になったり、精神障害者を死刑にしようとしたり。宮崎は完全な狂人である。犯行当時も現在も。n鑑定人は幼時からの宮崎の精神状態を仔細に検討して、おかしいことがわかっていながら、正常という結論を下している。理解しがたい。初めに結論ありきじゃないのかと疑いたくなる。国民からの強いプレッシャーは理解できるが、専門家は自分の意見を曲げないでもらいたい。日本は一般人も専門家もおかしくなっている。専門家が専門馬鹿と馬鹿にされる国だ。裁判官の判決を支持するものは少なく、世間の常識とかけ離れたエリートのたわけた判決のように言われることが多いが、だからといって裁判員制度なんか始めてもうまく行くとは到底思われない。素人は素人で馬鹿なのだ。同じ馬鹿なら専門家の方がいいんじゃないのかと思う。少なくとも安定性にはつながる。つまり専門家の常識に従った判決をするから、誰がやっても大差はない。今回の最高裁で少年に死刑判決を下そうとしている裁判官は、ちょっと変わっている。そういう変わった裁判官は避けるのは弁護士として当然の戦略だ。それを素人でありながら居丈高に罵る頭に血が上りやすいアナウンサー。やっぱりおかしくなっている。
 疲れた。五木寛之と沖浦という学者の対談を聞いてきた。被差別民とか遊芸民とか言うキーワードだ。面白かった。差別の問題ははっきり言って面白い。当事者にとっては深刻だろうが、民俗学的視点から見ると、きわめて興味深い。日本史の教科書には書かれていない。日本人の実像が浮かび上がってくるからだ。日本の芸能文化芸術は賎民が担ってきたという紛れもない事実。世阿弥も出雲阿国も皆卑しい身分の出身という。娘の芸能界入りに反対する親という構図にはこういう事情が働いている。
 ところで価値破壊的なことより価値創造的なことをやろう。当たり前のことだ。私はそういう能力に富んでいることもわかった。頑張ろう。


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