昨日はM氏のグルメ会に参加してきた。楽しかった。私の周りに女は来なかった。年だし、貧乏臭いし、病的な感じがする。それは近寄らないだろう。でも近くに女がいないことは、私は落ち着いていられるからOKだった。私のテーブルは石油の卸、運送会社の社長、なぜか奇遇にもタンクローリーの運転手、若き歯医者さんだった。愛すべき奴らだった。向こうがそう思ってくれたかどうかは疑わしい。私は境界例でうつ状態を脱し切れていないから、一目でおかしいとわかったようだ。この間宮崎の精神鑑定書を読んだとき感じた、安心感。宮崎は明らかに精神を病んでいるが、了解可能な哀れな人間だと直感されたこと。人は決して怪物ではない。そう感じて安心したのだと思う。 私もよくおしゃべりできた。不思議なくらい口が動いた。私は不必要に緊張しやすい。だから必要以上に疲れる。大げさだとか両極端だといわれる。遊びの世界がなぜいいかというと誰も傷つける心配がないからだ。もちろん節度を守った上でのことだが。何事もやりすぎはよくない。社長の話はとても面白かったし、タンクローリーの運ちゃんのやさぐれた感じは実に愛すべきであったし、歯医者先生のノーブルでシャイで謙虚な態度は学ぶべきものが多かった。ただ女とはやっぱり一言もしゃべれなかった。今の状態では無理だと思う。無意味に女を傷つけ、結果女を怒らせ自分も傷つけられるだろう。だから近づかないのが一番だ。 最近疲れ気味だ。ちょっとペースダウンして体調をコントロールしよう。どうしてもやりすぎてしまう。コントロールが利かなくなって、結局自分を台無しにしてしまう。 体が大事だということでカウンセラーのk氏と意見が一致した。恐怖条件付けというパブロフの犬みたいなものが私に起こっているそうだ。そういえばz氏にも同じことを言われた気がする。でもそのときは自分のことじゃないような気がしてピンと来なかった。だからどうしろというのだという気持ちになった。彼はフォーカシングを勧めてくれた。多分同じ体へのアプローチという点で最善の方法だったと思う。でも私はフォーカシングにどうもなじめなかった。というか飽きっぽく集中力の持続しない私はそれさえも満足にできなかったのだ。今、ヨガとかスポーツとかに凝っている。多分こちらの方がファッショナブルなので、続ける動因が強い気がする。手軽だ。内面を凝視するという辛い作業を強いられないことが何より良い。 私はモラルが欠けている。どうしてそうなったかははっきりしないが、職業モラルなんか全くない。社会に出たときからというより、大学に入ったときから全くモラルもモチベーションもなかった。それは私が精神的に重大な問題を抱えていたからであって、私を責めるのは値しない。今でも事情は変わらない。 私は自分の罪の大きさを十分認めるべきである。私は少なくとも今まで善悪の区別が付かず、悪いことばかりやってきた。その罪の大きさを十分に反省し、二度としないと誓うならば、やり直しは利くと思う。それは倫理的な問題であろう。精神医学的な問題というよりは。ほとんどの人間はそれくらいの危うさを抱えている。人間は生きているだけで既に窮している。君子もとより窮すと孔子は言ったが、全ての人は生きるために常に窮している。走り続ける自転車のように止まれば倒れる。だから精神障害を理由に遊んでいる暇はない。体に戻ることだ。m氏のことが漸く理解でき、なぜ人がひきつけられるか、わかった。彼はネオテニー的風貌だった。直感的にそう感じた。頭が良いのは人類の中でも進化の進んだタイプだからだろう。頭が大きくて幼児体型のかわいらしい風貌。でもサディスティックなお坊ちゃま君タイプ。スポーツと芸術に生きよう。そうする資格がある。 私は良い人でいいんじゃないのか。と思った。良い人以外何があるのか。宮崎でさえ犯行当時良い人だった。美化しているといっても美化できるということは良い人なのだ。良い人だったら何か困ることがあるか。ほとんど全ての社会人は良い人である。そうでなかったら排除される。日本人は残忍な一面があることは戦国時代の歴史とか、第二次大戦にしでかした行為とか見ていると簡単に見て取れる。でも日本人には縄文人の和を尊ぶ優しい心性が消えずに脈々と残っている。武士道の担い手は渡来系の貴族ではなく縄文系の侍である。日本文化は両者の微妙なバランスの上に成り立っているようだ。
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