今日は疲れた。よく眠れたが熟睡感がない。体を動かした方がよい。今日はあいにくスポーツクラブは休みだ。やる気がなくなってきた。修了集会は嫌な後味が残った。あの嫌味なババア本当に腹が立つ。最初の瞬間からそうだった。恐怖条件付けが成り立っているという。顔を見るのも嫌だ。女の。嫌なことをされたらしたらいいのだ。女なんかみんなキチガイじゃないか。キチガイが。絶対に一緒にいるのは嫌だ。 中途半端がいけないんじゃないか。女なんかひっぱたいてやればいいのだ。弱い生き物だ。有名中学に受かった男の子にメールするように促す母親。それに従う娘。何て弱い生き物なんだ。そんなものを恐れるなんて馬鹿じゃないのか。 私の恐怖条件付けにしろ共依存にしろ、境界例にしろ、理由がある。説明可能な理由がある。それにほとんど気付いてきた。それを耐えやすいように改善する方法もある。 今考えているのは私の反応振りを見て恐怖から攻撃する女には反撃する用意がなければならない。そういう心を持つと全く恐くない。女なんか。そうしたうえで友好的な態度の場合だけ受け入れるという当然の態度を取るべきだ。 長崎堂という喫茶店で開かれた催し物に行って来た。嫌がらせを受けた。大体どこに行ってもそうだ。断固立ち上がらないといけない。中学時代から自分が守れなくなった。まず教師が私をいじめてきた。最初のモラハラは教師だった。小六のとき。暴力なんか恐くない。日本は法治国家だ。暴力なんか恐くない。暴力を受け入れる理由なんかない。断固立ち上がらないといけない。小六のとき、いじめにあったが抵抗する術がなかった。大体いつも居心地が悪かった。家庭であれ、学校であれ、居心地がよかったことはない。今回のb校でも余り楽しくはなかった。何であんなのに付き合わなくてはいけないのだ。私は今まで集団の中で楽しかったことはない。小中高大学、企業を通じて一度も居心地がよかったことはない。だから居心地が悪くても気付かないのだ。でも今回だけはおかしいと気付いた。立ち上がらなければいけない。 大体小三くらいから嫌だった。学校行くのが。いじめに遭って。嫌になった。それが小六の頃、うつになって現れて、中学になって不登校、遅刻になって現れたのだ。それから境界例の道をまっしぐらだ。 多分たいていの人間は何かを引きずって生きているのだろう。引きずりすぎる人間は芸術家になるか、病気になる。私は自分が何かを引きずって大きくなったことにやっと気付いた。それに苦しめられてきたのであって、私は何も悪くないということ。迫害されたり、暴力を受けたりすることはない。あんな催し物には行かない方が良かったのだ。 暴力は良くないが、暴力的な方法はokだ。体を使うことは暴力とはいわない。体本位であることはいじめの犠牲者にならないことを意味する。会社を休むことはある意味暴力的だが、最も効果がある。好き勝手にしていい。本当に自由だ。恐怖条件付け。これを解除できるだろうか。smは本当にそれと関係ないだろうか。私はあると思っている。でも全て良い方向に向かっている。どんどんいい方向に進んでいる。もう一息だ。 嫌なことは嫌という意思表示をすることが大事だ。自分がそれをできないと人がそれをすることが許せないというおかしなことになる。意思表示をすることは大事だ。
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