希望の日記

2006年04月08日(土) 今日

私は本当にいい人間だとつくづく思う。大体人間というのはいいのじゃないかと思う。恐怖心と猜疑心に駆られるとき訳もなく人を傷つけることはある。しかしそれはその人間が全て悪いということにはならない。宅間のやった行為は悪いが、宅間が全て悪く、従ってその存在を消してしまわねばならないとするのはやや感情的で行き過ぎだ。日本人は生真面目が災いして、感情的になっていることに気付かないことがある。特に最近は不況とか政治面でもうまく行かないせいか苛立っていて、すぐ感情的になる。寛容さが足りない。少年がホームレスを襲ったりするのは大人の感情を先読みしているのだ。
宗教的に生きるのだ。そうすれば商売、人付き合い、うまく行くようになる。文学も宗教的行為だ。最も崇高で穏やかな方法で自分の願望を100%かなえることができる。貪ってはならない。自分の姿がすごくクリアーに見えてくる。悪いことを考えても決してうまくは行かない。女とうまく行かないのはつい悪いことを考えてしまうからだ。
プラトンでも読んでみようかな。若い頃はよく読んだ。今自分の姿はとてもよく見える。人の姿も気持ちも手に取るようにわかる。老若男女掌の上で転がすことができる。女は男を恐がっていることを知った。確かに男は乱暴だし、色々女の知らないことを知っているから、恐がるのは当然だ。そこで優しくしてやればなびいてくる。あのお坊さんが取っている作戦だ。というより普遍的な真実だ。
宗教的で最も穏やかで最も優しく、繊細な態度で生きるならば全てがうまく行き始める。中断していた人生が再開するだろう。世界が広がり、夢がかなうだろう。丁寧によく味わって人生を生きる気になるだろう。投げやりで乱暴で自暴自棄的な気持ちは消え去るだろう。
女が嫌いということは人間が嫌いということだ。自分が嫌いということで、生きることがいやだといっているのに等しい。嫌なものを無理やりやらせることはできない。どんな暴力的な手段を使っても。恐怖を与えても。恐怖をコントロールするのだ。それはいとも簡単なことなのだ。私は小学校六年の時には既に人生に疲れていた。途方に暮れていた。うつ状態だった。それを反抗と捉えて、いじめた教師がいた。何もかも嫌になった。大人を社会を人間を憎んだ。この世を呪った。それもそうなるべくしてそうなったのだ。悔いてはいない。その代わりに人が見られない真実を見た。それが幸せかどうかは別にしても。ダンテのような地獄も煉獄も天国も見た。そして今は漸く荒れ狂った心は中年を迎えて静まろうとしている。今漸く人生の鳥羽口に立った気がする。静かにしかし熱く人生を丁寧に味わいつつ生きられるような気がする。もう今それが可能になったのだと思う。
私はこの世が愛しい。別れつつあるこの世が愛しい。小さな幼子が愛しい。昨日いい天気の三宮を歩いていたとき、とてもいい気分だった。呼吸が楽にできるようになったからだ。自分が安らかに解放されるのを感じた。都会の真ん中であってもそういう気持ちになれる。自分を大事にしよう。自分を虐待しない。丁寧に生きていこう。熱心に情熱を持って宗教的に生きていこう。


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