希望の日記

2006年04月12日(水) 今日

今日は京都から帰ってきた。昨日は京都でサークルの飲み会。日本人女性が三人も来て盛り上がった。おばさんだとテンション下がるが、可愛い子だったのですごく嬉しかった。メルアドも交換して初めて女性からメールをもらって嬉しかった。人間になったという気がした。それからいつものホテルがいっぱいだったので四条西洞院の三井ガーデンホテルに泊まった。高かった、といっても7千円でとてもきれいないいホテルだった。さすが京都だ。
今朝帰ってきて、吉田氏となかもずで会い、いつものファミレスで面接。宗教宗教といったらすごく拒否反応だった。当然かもしれない。誰に言ってもそうなるだろう。人の嫌がることを言う悪い癖がある。それが宗教的でないことの証だ。人の喜ぶことをするのは当たり前じゃないか。子供を育てるのが宗教的といったので驚いたようだ。それほど私は宗教的でないということだ。約束も守れない。仕事もできない。人と付き合えない。社会のルールに従えない。宗教的になって、最も穏やかな優しい、平和的な行為に努めよう。自分にも優しくしよう。その第一歩として節約に努めよう。
それから帰って休む。加藤さんから電話。日程変更。仕事みたいだ。でも人のためというのは楽しい。仕事の基本だ。私利私欲のための仕事なんかこの世に存在しない。泥棒くらいだろう。私にやっていることは泥棒であり、犯罪である。そのことに気付いただけでもえらい。
色んな選択肢の中で最も穏やかで平和的な手段だけが意味があり、価値がある。宗教的とはそういうことで私以外の人間はそうしている。乱暴でわがままな行為は全く価値がない。人から金を奪うとか、殺すとか、全く価値のない行為だ。お金が欲しければ商売をして稼げばよい。人を殺したければ立ち去るか、言葉の力で変えればよい。人間の行為は全て宗教的であってそうでない行為は認められていない。食、性、生、出産、子育て、労働、死。いずれをとっても崇高で宗教的な行為だ。そう考えると安心して働ける。誰か不当に利得を得ているのではないかと。そんなやつは絶対に一人もいない。oさんはあれできっと多くの人の役に立っているのだ。
宗教的に生きることの一番いい点は苦境にあっても、不当な扱いを受けても、自分を疑わずにすむことだ。ナチスの収容所を生き延びたフランクルみたいなものだ。私が宗教法人を作りたいなどといっているのは気が狂ったわけではなく、自分が苦しみの果てにつかんだことを皆に教えてあげて役に立ちたいからだ。これを邪魔する奴はいないだろう。
私はいつも乱暴な手段だけをとる。ババアが私に逆らうならば、権力を使って無理やり言うことを聞かせようとする。そんなことは絶対に無理だ。掌の上で転がしてやればいいのだ。女なんか。
昔の青春ものが臭いのは宗教的だからだ。金八先生もそうだ。でも人の心を打ち、人気があるのも同じ理由だ。人は決して宗教的な感情を否定することはできないし、その必要などさらさらないのだ。呼吸法をやると宗教的な感情が自然によみがえる。
自然な感情は素晴らしいものだ。そこに宗教性がある。女を好きになり、いつも一緒にいたいと思う。それは宗教的な感情だ。そして結婚して子供を生み、育てることは自然で宗教的な行為だ。崇高で利他的で奉仕的で、高貴で穏やかで平和的で優しく美しい行為だ。どうしてそれを損なう必要があるだろう。自然な感情を抑圧したり、傷つけたり、否定することは宗教に反する行為だ。悪を良いものとみなすわけのわからない感情だ。今から死ぬ瞬間まで穏やかで平和的で優しく、最も優しく、宗教的でありたい。


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