希望の日記

2006年04月16日(日) 今日

昨日は楽しかった。赤瀬川にしろ植島にしろ内田にしろはっきり言って役に立たない。やくざだ。アカデミズムの中でもまた芸術の中でも、とりわけ役に立たないことをやっている。
日本人は境界例だ。女は境界例だ。だから大嫌いだ。当たり前のことだ。境界例の人間は宗教が必要だ。だから日本人には宗教が必要だ。文学をやる人間は疑いもなく境界例だ。本当にひどい目に遭った。宗教は自分を守ることを許す。人間は境界例である。だから何をするかわからないので堅く自分を守らなければならない。中学の頃から成長が止まっている。しかしegから成長が再開した。成長は痛みを伴う。でもその方が自然で幸せだ。もっともっと幸せになりたい。このままではいけない。快楽を追求するのではない。幸せになりたい。
中学の頃どうして何もかも嫌になったのだろうか。個別には変なやつと付き合ったからだが、その前から少しおかしかった。そうなることは自然なコースだったのだ。やる気がなくなり、教師に反抗した。境界例のお決まりだ。尾崎豊だ。
自分に酷なことをするのは止めよう。人とのつながりを自ら断ち切るとか、人の助けを求めないとか。過酷な義務を自らに課すとか。女が大嫌いなのに。一緒にいようとするとか。自分を守るべきなのに守らないとか。
宗教的であろう。それが最高の知恵だ。政治経済を越えている。女とか境界例のやつが平気になる。自分の体の状態をコントロールできる。呼吸法だ。それから恐くなくなった境界例のやつを自由にコントロールできる。宗教的人間になることで自分をコントロールし、自分を守り、他者をコントロールできるようになる。そうなって初めてこの世の果実を得ることができる。また他人を助けることに喜びを感じることができるようになる。喜びと同時に実益も付いてくるだろう。日野原さんはこのような生き方をしている。宗教と芸術を医の道で実践している。私も宗教と文学と呼吸法と仕事と人付き合いと、社会参加と全て同じことだと、同時にできるとわかれば、あれかこれかと迷うことはなくなる。全て一つの行為が芸術であると同時に文学であり宗教であり、仕事であり、快楽であるという生き方があるのだ。多くの人はそのように生きている。フロー体験だ。
中学の頃から自分の身を守れなくなった。教師から迫害を受けても逃げることも戦うこともできなくなった。境界例の人間は私のような人間を見逃さない。私はなすがままだった。今は違う。自分を守れる。女はキチガイで途方もなく無力で弱い。いくらでも自分を守れる。
宗教的とは最も穏やかで優しく、平和的で寛容な方法で全ての願望をかなえることができる。これが私の観察に基づく信念だ。人は皆そうしている。仕事においても人間関係においても。ホリエモンのようにやっていたらだめなのは明らかだ。
日本人は宗教的である。でも江戸時代に仏教もキリスト教も弾圧され、骨抜きにされたので、日本人は宗教を嫌い、軽蔑し、タブー視し、場合によっては差別、迫害する。そういう歪みが軍国主義の歴史を生んだんじゃないか。乱暴な意見だが。国家主義で国民を洗脳する。自暴自棄な戦争に駆り立てる。宗教的な勢力があれば防げたんじゃないか。といってもドイツもキリスト教会はナチスを食い止められなかったわけだが。
私はむしろ思考をストップしよう。放棄しよう。少なくとも健全で衛生的な状態になるまで、中断しよう。考えることだけが問題解決の方法ではないことは今の私の窮状を見れば明らかなじゃないか。体で感じるのだ。体本位だ。呼吸法だ。体は最も優しい、穏やかな解決方法を知っている。それにじっと耳を澄ますのだ。
今日は料理教室に行った。ポルトガル料理。先生はポルトガル人の陶芸家。芸術家は食っていけないのだ。日本人と離婚して子供がいるらしい。面白い。でも女はやっぱり嫌いだ。すごく居心地が悪い。でも一人だけ可愛い子がいた。やっぱりヤンキーは嫌で、性格のいい子がいい。性格の悪い女とどうして一緒にいられるんだ。地女は面白くない。と昔の人は言った。確かに面白くない。コギャルというのは現代の花魁だ。遊女は昔から風俗、流行の最先端だったのだ。
宗教。宗教的であることは絶対に私に必要だ。自分の身を守れることが宗教の第一歩だ。まず物質的に。第二に霊的に。人は100%霊的に行動する。霊が存在するかどうかは科学では証明できないが、人が霊を信じて行動していることは明らかだ。と内田先生は言った。私もその通りだと思う。
最も穏やかで優しい平和的な手段で全ての願望をかなえることができる。それは例えば文学だったりする。スポーツでも呼吸法でも良い。
日本人は全員境界例だ。女はもちろん全員境界例だ。人間は全て境界例だ。本能が壊れているという時点で境界例であることを免れない。どうして人として生まれて死をうけいれることができようか。境界例にならざるを得ない。
思考に頼ろうとするのは明らかに間違いだとわかった。思考は暴力的だ。うそも本当になる。でも体は優しく穏やかで常に真実を知っている。思考は乱暴なこじつけや嘘が当たり前に紛れ込む。だから思考を信じるなどというナイーブな習慣はきっぱりと止めることだ。
私は神である。神である以上全てを理解できる。私の考えることは全て正しい。神である以上全て私の言うことは正しい。体本位ということと私が神であることは一致する。


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