朝からキチガイの書き込みを見てしまい、気分が悪くなった。本当にかわいそうなやつだ。哀れみの言葉も見つからない。あれでは就職も結婚も無理だろう。あれは社会が悪いせいではない。同情して損した。あれは遺伝病だ。真性の狂人であって矯正不能だ。 ところで私は何も人と比べて何も欠けた部分はない。何かとんでもない欠陥があるわけではない。だからこれまで生きてこれたのだ。何かの役に立ってきたから生きてこれたのだ。自分に酷なことをするのは止めよう。結局それが他人にも平気で酷なことをするというモラハラ行動が出てしまう。恐るべき何でもまねしババアが、それまで忠実にコピーして私にぶつけてきたので病気になってしまった。日本人はほとんど境界例だ。でも人間は全て境界例だ。あの文校は恐るべき境界例の巣だった。EGも完全にそうだった。でも現実の職場も電車の中も道も境界例の巣だ。 こんなことを書き連ねることも結局自分を酷使し、ゆがめ、、苦しめ、歪んだ考え方を増強し、固定化しているので、できるだけ減らして、体に基づいたより優しい、穏やかな平和的な道に戻ろう。宗教とは自分を守ることだ。まず自分自身から自分自身を守ることだ。 自分が嫌がることをやってしまう。これはパニック状態からくる異常行動だろう。呼吸法によってかなり改善できる。hもkも完全な境界例だ。だからいやだというのだ。自分が嫌がることをやる。これが私の悪い点だ。もっと自分に優しくしよう。自分にやさしくできなくなっていることが原因だ。母親も境界例ぽかった。父親も別の意味でそうだった。二人は共依存的だった。 呼吸法で自分を治すことはなかなか容易なことではない。時間がかかる。薬のように即効性はない。しかし確実で副作用が全くない。宗教も依存したりしない限りは非常に安価で有効な方法だ。誰も皆そうして自分を癒しながら生きている。宅間や宮崎は精神を病んでいたのでそういうことができない人間だった。あれを殺すことが本当に正しい処し方だろうか。日本人の境界例的な悪さが出ていると思う。人を殺すことが本当に癒しになるのか。人を殺すことを責めておきながら、自分は殺していいのか。死んでしまったら謝罪も反省も永遠に機会がなくなる。罪人が本当に心から反省することのほうが癒しになるんじゃないのか。人を殺すことで癒されるものなど余りにも少ない。日本人は宗教を忌み嫌い差別するので逆に妙なカルト集団が暗躍する素地になってしまう。もっと広い心で宗教的環境を整えることが寛容だ。国家がカルト集団みたいになる経験もした。江戸幕府は一切の宗教を認めないという点では清廉潔白であった。それが極端に振り子が触れて、国家が宗教みたいになってしまった。天皇を祭り上げて宗教を独占した。それが後の超国家主義、侵略戦争へとつながっていく。明治はまだのどかな時代で、健全だったと思うが。宗教的であるとは霊的に衛生的であるということだ。内田氏の言説に共鳴するのはそういう点だ。 芸術とか宗教に進むものはどうしても権力者から遠ざかる。身の危険が及ぶからだ。もう悪いことは散々した。これ以上悪いことをしたいとは全く思わない。うまいものが食いたいか。いい女が抱きたいか。うまい酒が飲みたいか。もう私は抱えきれないほどの富をもう持っている。私のミッションはこの富を人に伝えることだ。その最も優しい穏やかな平和的な手段の一つが芸術であることは疑いない。私が抱えきれないほどの富を既に有していて、後はそれを取り出すだけだというのはそのことだ。去年もちょっと小説を書いただけですごく褒められた。簡単なことだ。自分を損なわないように慎重に行動して、宗教に従って心穏やかに生きたい。そうすれば自然に回復して息をするように働けるようになり、会話できるようになるだろう。 私の労働意欲減退の根本原因は何だろうと考えて思い当たるのは、悪の問題だ。何が一番抑うつ気分に導くのか考えると、やっぱり私が余りにも深く悪にとらわれてしまっていることに気付く。こういうとz氏が怒りそうな気がするが、やっぱりそれは拭いきれない。苦しみの原因は悪にあると。それは絶対的なものとしてではなく、天邪鬼的な癖のようなものだ。それは状態が悪いというだけの話で、すぐ直るというか矯正可能だと思う。マインドコントロール的なことも一度は必要だったかもしれない。宗教的なものが非常に有効だと思う。身体的な働きかけとしては呼吸法、ヨガ、気功、スポーツがある。悪を根本的に解決するというのは思考に走った誤った考えの典型である。女が苦手だからといって、女を避け続けて生きていくことはまず不可能だ。道筋としては恐怖心を取ること。過敏状態を解消してきれいな状態にすること。それには呼吸法が一番いい。疑わないで実行あるのみだ。頭で考えて解決できたことは多分ほとんどない。体本位で生きているときのみ答えが出る。 すぐ誰かを責めたり、恨んだりする。日本人の悪い癖が私にもある。何が起こっても誰かのせいであることはほとんどない。人は怒るととんでもないことをするものだ。宅間事件の遺族は学校や国を責めた。多額の賠償を得た。それで癒されるだろうか。死んだ子が喜ぶだろうか。怒りはよくない。呼吸を整え、良好な状態でいたいものだ。 思想とは危険なものだ。暴力的で乱暴でほとんど常に間違う。それなのに大きな力を持つ。最も優しい、穏やかで平和的で、愛に満ちた行為だけが価値がある。人はそれほど疑ったり恐がったりするようなものではない。あのh君みたいにいっちゃってるやつでさえ、甥姪には無私の愛情を注ぐ。宗教的な気持ちが備わっている。でも思想はでたらめで乱暴で完全に間違っている。どうしてこうなるのか。宗教から切り離された思想ほど恐ろしいものはない。戦前戦時中の日本は、カルト化していた。宗教を権力と思想で極限まで捻じ曲げ、破壊しつくした。完全な病理現象だ。国家と宗教は厳格に切り離すべきだろう。でも国が完全に非宗教化することは不可能で不自然だ。アメリカのように宗教界と政治が良好な関係を保っている例もある。あれが普通だ。日本は極端すぎる。宗教は何も悪くない。悪用する連中が悪いのだ。 こんなことを書き連ねることは余りよくない。人工的に境界例状態を作り出している。悪への抑えがたい傾向があってそれが価値を破壊し、善に挑戦し、反社会的な行動に導く。h君ほどではないにしろ、悪への衝動、規範の侵犯、そういうものがある。それは誰の心にもある。災害の際に暴動や略奪、犯罪が発生するのはそういうことだ。抑えられた悪への衝動が一気に噴出する。それは法や道徳で厳しく抑圧されている。だからそんなに罪の意識を持つことはない。心の状態をきれいに保てば、おかしな犯罪衝動は自然に抑制される。呼吸法だ。これは怠ることなくきちんと続けよう。 今大体問題は解決しつつある。中学時代からの本来の問題がはっきりしてきて、解決に向かっている。もう答えは出揃った。後は実行あるのみだ。料理ができて食べるだけみたいなものだから、簡単だ。 自分を守ることが宗教的に生きる第一歩だ。なぜ働くかというと自分を守るためだ。衛生のためだ。自分を守ることだ。例えば部屋の掃除とか食事を作るとかはそれをやらないと病気になるし、死んでしまう。命を守るために働くのだ。例えば西部開拓であれば、働くことは生きるために他ならない。今衣食が足りているから働くことが自分の命を守ることだということがわからなくなる。呼吸をするように働くことができるようになる日は近い。 自分の身を守ることは簡単だ。宗教的に生きることだ。逆に最も簡単な方法で身を守ることだ。自分を守るためなら恐いものは何もないだろう。何が恐いのか。権力が恐いのか。鉦が恐いのか、女が恐いのか。最も簡単な方法で最も穏やかな方法で自分の願望を十分かなえることができる。 なぜ一所懸命働くか。自分を守るためである。中学から自分を守ることができなくなったのは、うつになったからだ。でも今は自分を守ることができる。簡単に守ることができる。最も優しく穏やかな方法で。 境界例の日本人から自分を守るのだ。最も簡単で優しい方法で守ることができる。
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