2006年06月03日(土) |
アイムオーケーユアオーケー |
何か気分が楽になってきた。自分が見えてきた。自分が見えると人も見えてくる。これが今までは全く見えなかったのだから大変な成長だ。z氏のお蔭もあるし、休養したせいもあるだろう。これからはどんどん行動し、勉強し、働き、成果を出して行こう。それができる気がする。 アイムオーケー、ユアオーケー。もうこれしか書くことはないのだが。でも日常のささやかな出来事を書いていこう。エッセー風日記、小説風日記に変えていこうかなと思っている。世の中には色々面白いことがある。 アイムオーケーユアオーケーと唱えることは非常に努力の要らない自己への報酬である。人に頑張れと励まされたり、慰められたりすることを求める必要はない。人からがんばれといわれることがどんなに辛いことか、元気な人にはわからない。私が弱っているということを彼らがわかってくれないように。母親は決してわかってくれない。母親と私はもう独立した大人の関係だ。共依存とか依存しあう関係ではない。 エゴグラムをやってみた。cpとかfcとか他はまずまずバランスが取れているというかむしろ人より豊なのだが、aだけがゼロ。これは何を意味しているのか。狂ってしまった人のようだ。現実を無視というか直視できない人は狂人とみなされるだろう。現実とは権力とかお金というものもあるし、人間関係というものもある。私は人間関係から逃げている。現実から逃げてしまっている。その姿がはっきり、浮かび上がった。これは由々しき事態だ。でもずっと由々しき事態だったのに、気付かなかった、あるいは目を背け続けてきた。 現実から逃避してきた。中学時代から。高校大学と通じて。きっかけはわからない。社会に出てからも全く逃避してきた。だからどこに行っても使い物にならない。何がそんなに恐いのか。他の感情は損なわれずにある。私は健全だ。現実をよく直視して、体で生きるようにすれば、きっと人並みの生活が送れるようになる。訓練がどうしても必要だ。ルールやマナーを守ることが必要だ。 今元気なのは会社という最大の現実から解放されて、現実から逃避できるからだ。森田の会とか行っても浮いてしまう。現実を見る目のなさからか。 現実を無視したら、どんなにいい素質を持っていても何の役にも立たないだろう。アイムオーケーに気付いたら自分の明らかな問題点に気付いた。これから私は再生するだろう。見違えるように変わっていくだろう。十津川に命の洗濯をしてこよう。 よく遅刻したり、ダブルブッキングしたり、そういうのはきっと現実を直視できていないからだ。浮かれてはしゃいで、躁状態になることが回復でもないし、適応でもない。適応とは現実をよく知り、対応できることだ。 今すごい転機だと思う。いい方向への。アイムオーケーユアオーケーはセントラルドグマだ。taの。それを私は聞き流していた。というより理解できなかった。右の耳から左の耳だった。それがふと気付いた。何のきっかけかはわからない。私はオーケーじゃなかったと、悟りのように気付いた。森田療法でも本を読むほうが100倍役に立った。私は洗脳体験があるから、そういうものを無意識に期待してしまう。そんなものは必要ないのだ。あってはならないことだ。非合法化すべきだといっても良い。うちの会社もこっそりか堂々とか知らないがやっていると聞いた。洗脳は目的が何であれ、やってはならないことだ。ところで正直大阪の町は好きになれない。恐いと感じる。異様な格好の若者たちが闊歩する。居場所がないとそこでも感じる。でもそんな私もオーケーだ。私もあなたもオーケーだし、そこで起こるすべての出来事もオーケーだ。きっと理由があって起こるのだからそれが理解できなかったとしてもオーケーだ。私も他人もオーケーという人生態度は努力しないとなかなかできないし、すぐ違う状態になってしまうのは自然なことだ。でもやっぱり、実りある人生にするにはそういう状態を保った方が良い。 エッセー風の日記にするんだった。今日ミナミを歩いて、ジュンク堂とビックカメラに寄った。何も買わなかった。良いことだ。武士道は良いかもしれないが、危ない気がする。現代に侍が現れたら、宅間のようにばっさばっさと若者たち、おっさん、おばはんたちを切り捨てないといけないのじゃないか。だって失礼なことし放題だし、切捨てごめんだろう。東京は武士の町だから多少違うのかもしれないが。 今日は調子が良い。酒がうまい。avが面白い。小澤マリア最高。
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