希望の日記

2006年06月17日(土) 酒飲み

昨日はよく飲んだ。もうかれこれ5日間くらい飲んでいる。昨日くらいからアルコールの効用を実感している。リラックス効果が一番大きい。得体の知れない不安や恐怖が和らぐ。恐怖がなくなることはないしその必要はない。身に危険が迫っているのに気付かないのは馬鹿と同じだ。恐怖はその役割をしている。だからあるがままでいいのだ。恐ければ恐いでいい。理由があるのだ。物事には。それを無視するからトラブルが生じる。朝カルでババアの集団を見れば恐怖を抱くのは当然だ。自分が傷つけられないなどと妄想を抱くのは止めよう。この間のバスツアーでも同じだし、恐がる必要と理由はあるのだ。本当に恐れるべきなのはこちらが無防備無抵抗、およびその意思がないことである。圧倒的な恐怖を前にすると抵抗することを諦めてしまう。しかし抵抗は現実的で簡単である。即効的でというより同時に効果が生じる。馬鹿者には近づかない。付き合わない。気を許さない。嫌いな人間も同様だ。なぜ嫌いか、自分を傷つける可能性があるからだ。自分が反撃できない可能性があるからだ。
抵抗する気力というのは諦めないで働くことを意味する。一流のものと接しよう。価値のないものと戯れるのは止そう。フッキーみたいな百害あって一利なしみたいな人間とは。私はその意志さえあればこの苦境を脱することができると確信した。自分を組み替え、価値ある豊かな力強いものを呼び入れるのだ。倫理的にも物質的にも価値の高いもの。プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神は関係あるそうだ。倫理と経済は同じものだろう。
私が女性的であって現実に不適合を起こしやすい。それが何であろう。三島由紀夫だってそうだった。人生を楽しむのに何の邪魔にもならない。肝心なのは抵抗する意志だ。
文学は救いになる。少し、打ち込んでみよう。ただどうして文学をやるやつはあんなに嫌な奴が多いのか。全くわからない。中上健次のセミナーに出て初めて気付いた。でも多分どの世界でも嫌な奴なのだ。人間とは。都会人とは。あのババアを見ろ。ザッツ関西人だ。法律の世界に行けばもっと嫌な奴がいる。人間自体が嫌な生き物なのだから仕方がない。それが嫌なら田舎暮らしでも始めるしかあるまい。
アイムオーケーユアオーケー。アイムオーケーユアオーケー。現実的になろう。現実を無視することはよくない。と言うより、病気や怪我をする。大切なものを失う。私は人間の資質に欠けることはない。ただ現実的でないだけだ。現実は痛みを伴う。痛みが激しいと無視するようになる。嘘を簡単に信じるようになる。芸術家の誕生である。そういう人間がいてももちろんいい。必要とされるからだ。必要とされなくてももちろん良い。アイムオーケーユアオーケーだ。
嫌悪感を克服するのは難しい。というより不可能だ。女が嫌いだったらそれで良い。そんなもの克服しようがない。
女嫌い。アイムオーケーユアオーケー。現実的でありたい。もうこの会社に入ったときはおかしかった。職務遂行できない状態だった。倫理的でない人間はだめだろう。いつからこうなったのか。遠い昔だ。人間は堕落する。私は極端だった。でも今からでも遅くない。再出発しよう。自分を組み替えよう。行住坐臥が修行だと言う考えは素晴らしい。武士道だ。
ゼロトラレンスという考えに共鳴する。フッキーみたいな人間と付き合うなと言うことだ。ババアに近づくなと言うことだ。おかしな人間を近づけるなということだ。不道徳なことをするなということだ。
アイムオーケーユアオーケー。今日のカウンセリングは思ったことを言えた。飾りも嘘もなく、自然体で言えた。道徳的であること。自分を守る気概を持つこと。向上すること。女が嫌いと言うことを変えることは難しいし、逆に強める必要もない。それは遺伝と同じでどうしようもないが、道徳の力でいくらでも何とかなる。道徳の力は強いのだ。道徳的に向上すれば、嫌いな人間でも安全に自分を守ることができる。道徳とは自分を守る最大の武器で、人を攻撃することが自分を守ることではないのだ。行いを正しくすることで十分安全に過ごせる。自分を守る意志、気概が大事でいくらテクニックを1000通り聞いたとしても、意志がなければ子供にも負けるだろう。


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