希望の日記

2006年07月05日(水)

今日は雨で鬱陶しい天気だ。家で過ごそう。昨日の夜、動悸がして死にそうになった。運動した後の飲酒と動悸といえば最初の発作のときと同じだ。気をつけよう。
人の機嫌を取らなくていい。それだけで楽だ。自分の機嫌がよくなる。
日本人はあまり寛容ではない。私もそうなろう。自他の悪に不寛容であろう。
人の機嫌を取らなくてよい。これは大事なことだ。自分の機嫌がよくなる。自他の悪に不寛容であること。
モラルハザードになっているのかもしれない。自他の悪に不寛容。
自分に都合よく考えたらいいんじゃないのか。人に都合よく考えると病気になる。誰でもそうだ。自分が幸せになるように考えたらいいのに、それが考えられない。宗教的な考えのできる人はそういうところがあるかもしれない。
私は元々悪に不寛容だ。それが悪に機嫌を取るから寛容になるし、自分も悪くなるし、機嫌も悪くなる。人の機嫌を取らないでいいということはすごい楽なことだ。それだけ考えて生きていこう。すごく嬉しい。
人の機嫌を取ると必ず病気になる。自分の機嫌を取ろう。人の機嫌を取らない自分を経験したことがないので、新鮮だ。少し落ち着かない。人の機嫌を取らない。その隙間に何者かを呼び入れても良い。自分の機嫌を取る。人の機嫌を取らないとすごくいいことがある。傷つかなくてすむし、自己と他者の境界がはっきりするし、喧嘩にならない。具合悪くならない。私が機嫌を取るのは私に危害を加えるもの、可能性のあるもの、悪、馬鹿など。そういうたちの悪いものを機嫌取っていると確実に気分が悪くなる。やがてうつになる。この問題も、あのキチガイの機嫌を取っているのと同じだ。そうしなくて良いとなると本当に楽だ。自分が機嫌よくなる。ツイテルと素直に思える。
人の機嫌を取らないと自分の機嫌がよくなる。それを利用して、勉強する。自己啓発のほうが良いが、小説の勉強でも良い。生産的なことを考える。病気治療なんか必要ない。私は病気なんかではない。生体解剖みたいに自分の心を解剖してみても何もわからない。そんな暇があったら、好きなことをしていた方が良い。フッキー加藤症候群で私は大事なことを学んだ。ツイテルと言わなければならない。
人の機嫌を取らないと言うことは偉大だ。すごく楽になる。自分の機嫌を取るのだ。サラリーマンの世界で一番になれば良い。簡単なことだ。
人の機嫌を取らないと言うことは大きなボーナスをもらったようなものだ。使い切れないくらいのビッグボーナス。家一軒買ったくらいのボーナスだ。
一人さんによると楽しいとは仕事をサボって楽をするということではなく、仕事や遊びを一所懸命やって上達すると言うことらしい。そういえばm氏のサークルでもスポーツとかいろいろやらされる。まったりするとか言うことはないらしい。私が楽しいと思うことは一貫してそういう脱力系のことだった。多分小学校高学年の頃だった。ある種うつ状態だったのだ。それは怠けとかサボりと混同されやすい。違うと言うことを説明しようとしても不可能に近い。カウンセラーでもよくわかっていないんじゃないか。人の機嫌を取らなくていいということになると、だいぶ事情が違う。楽になるし、力いっぱい仕事ができる。うつも進行してくると明るくするということさえできない。自分の機嫌さえ取れない。私は辛かったけどやっとの思いで仕事をしていたのだ。それを怠けているとか、サボっているとかいう態度で個人攻撃された。それでうつが深刻化した。でも人の機嫌を取らないでいいとなると、楽になり、自分の機嫌を取れるようになる。
人の機嫌を取らないと言うのはすごい。自分の機嫌を取るのはすごい。自分が変わる。人の機嫌を取らないといけないと思うと、暗くなる。機嫌なんか取らなくて良いんだと思うと明るくなる。楽になる。困ったことは起こらない。困ったことは起こらない。自分の機嫌を取れないから人に機嫌を取ってもらおうとする。それは良くない。人の機嫌を取らないと言うのは素晴らしい。
でも今は楽だ。人が恐いような気がしたが、機嫌を取らなくて良いんだと思えば楽になった。天王寺や堺や電車内のわけのわからん連中を見ていると腹が立ったり、恐くなりそうだったが、機嫌を取らなくていいのだと思うと何ともなくなった。恐かったり腹が立ったりするのは自分が機嫌を取らないといけないと思うからである。そんなことはない。全くそんなことはない。機嫌を取らなくて良い。自分の機嫌を取るのだ。これは楽だ。機嫌を取らなくていいというのは素晴らしいのと、機嫌を取らなくてはいけないと言うネバならない思考がものすごく強いのだと思った。機嫌を取らなくて良い。斉藤一人は偉大だ。でも完全に宗教だ。でも生きていくのに役に立つ宗教なら良いんじゃないのか。ツイテルツイテルと言っていればいいことが雪崩のように起きる。不機嫌な奴の機嫌を取らねばと思っていたらそれはいつかは切れるだろう。あの家に放火した高校生と同じだ。あの子は特別異常じゃない。異常なストレスを与え続ければああいう風になる。私も特別異常じゃない。私は人の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。いつもニコニコ明るくしている。機嫌を取らなければと言う思い込みがものすごく強い。これから自分を解放すると楽になる。好きなことを何をしてもいいのに、何もできないと言う状態から解放される。人の機嫌を取る必要はない。自分の機嫌を取るのだ。
日記をあまり書かないほうが良いかもしれない。その暇があったらゆっくり本を読む。人の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。
人の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。自他の悪に不寛容でありたい。私は自分の大事な人生を邪魔されたくない。人の機嫌を取らない。自分の機嫌を取る。高校くらいから精神病領域に入っていただろう。大学には運よく合格したので、おかしいとは誰も思わなかったのか。でも大学の同級生はおかしいと気付いた。でも道徳的におかしいと思ったようだ。そうするといじめと言う常套手段になる。それはおかしい。今精神病領域と正常領域を行ったり来たりしている。道徳的に非難するのは不当ではあるが、病気であると言ってしまうと勤務できないと言うことになる。思えば大学に入ったときももし精神的なケアーが必要だとするならば、そこで休んで服薬するなりする必要があった。でも誰もそんなことは言わないし、自分でもわからなかった。最悪会社を辞めて勤務に耐えられるようになる必要があるかもしれない。もし、健康であると言う立場に立つと、道徳的非難ということになる。ババアが嫌いと言うことは病気だろうか。微妙だ。私はジレンマにある。病気だと声高に主張すれば、やめざるを得ない。健康だと主張すればこの状況に耐えないといけない。モラハラはその境界例に忍び込む悪質な手口だ。中学高校大学で行われていたことはモラハラだったのだ。パワハラと言ってもよい。これを繰り返してはならない。病気と思うのなら、可能な手段で病気を治す必要がある。直すと言っても長いのだ。中学時代に遡るから、30年以上になる。病気だと主張すれば排除されるし、健康だと主張すればいじめに遭う。一人さんのやり方で解決できるだろうか。私は応急措置としても有効だし、根本的解決としても有効だと思う。私は自分でこの問題を解決できる能力があると思う。私は時々おかしくなるだろうが、基本的には正常だ。修行することによって、この苦境を脱し、ステージを上がることができる。そう考えればジレンマはジレンマでなくなる。誰でも問題を抱えている。それを抱えながら生きているのだ。北原もそんなことを言っていた。私は年の割りに幼弱な気質なのだ。森田療法でもあるがままとか恐怖突入と言っているから基本は同じだ。父も病気だと言ったことはなかった。酒に逃げていた面はあるが、休職などしたことはなかった。病気だと言って特別扱いを受けることは不可能だろう。でも一度は明らかにしておく必要がある。区切りはつけておいたほうが良い。でもこれからは病気は治った。あるいは薬で何とかなるという態度で一人さん的、原田式メソッドで行ったほうがよい。私は自分が健康だと言って厳しい仕事に耐えることは本当に不可能だと思うのだろうか。大学合格までは何とか耐えられた。でもそれからは一切耐えられなかった。なぜだろう。やっぱり問題があるからだろう。それでも騙し騙しやっていくこともできた。
当時の私の状況と今の状況と全く同じで死ぬまで同じだと思う。仮に職場を変えたとしても田舎暮らししたとしても同じじゃないか。そればかりか私と他の老若男女全てと同じじゃないか。裸でこの世に生まれてきてそれぞれ能力や与えられたものは千差万別だが、自力で運命を切り開いて生きていかないといけないのは全く同じだ。正社員であれ、パートであれ、派遣であれ、男であれ、女であれ。大卒であれ、小卒であれ。幸之助や一人さんは学歴がないだけにその辺がクリアーに見通せるのだ。私が躓いたのは小学校高学年から中学くらいだから、彼らの話がぴったり来る。逆に。高学歴の人間は逆に私の苦しみがわからない。大学のときにいじめられたのはそのせいだ。
俵萌子の話をやっていた。感動した。やっぱりうつは誰でも、どんな健康な人でもなりうる。うつは内発的なものではなくストレスによるものだ。脱出法は面白いことをやって夢中になること。仕事を無理やりでもやること。恐怖突入か。人のためになること。人の役に立つことをやっているうちにうつを脱したらしい。案外簡単だ。これは普遍的な真理だ。人の機嫌を取ると言うのとは微妙に違う。弱い無力な人がいて、自分が力を持っているということがわかれば私があなたに代わってやってあげますと言うことらしい。機嫌を取ると言うのは単に気分的、感情的なもので仕事にはなりえないし、救うことにはならない。私の解決法は夢中になれるものを見つけること。小説でも良い。ビジネスでも良い。それと仕事を見つけること、それに打ち込むこと。これはやったことがない。私の能力は証明済みであって誰にも非難されることはない。問題は悪に不寛容であるかどうかだ。やる気がなくなっていることだ。やる気がどうしても起きないと言うのであれば、仕事を変えるのも一つだ。小説は儲からないが、やりたければやっても良い。でも真剣にやらないと上達しないし、面白くない。上達するから面白くないのだ。遊びでも仕事でも。私の課題はうつとモラハラによって傷ついた脳を休ませて回復することと、一人、原田式に学んで職場で仕事を見つけて、一所懸命にやって結果を出すところまでもって行くことだ。単純明快である。そのために職場を変えたほうがいいというのであれば会社も協力してくれるだろう。原田式は道徳的に自分を責めると言う自分の一番嫌な、多分誰でも嫌なやり方ではなくて、目標設定して、自分で達成する喜びを得ていくやり方、靴をそろえる的なことがベストだろう。道徳的に単純明快でしかもゴールまで一直線でモラハラ的妨害にもびくともしない。大体見えてきた。まず人の機嫌を取らないことにより、自分の機嫌をよくする。そしてやる気を引き出していく。そして職場復帰、仕事獲得、問題解決というゴール、そして社長になるという目標に向かってやっていくのだ。
やり方は何でもいいのだ。人間関係でも仕事でも簡単なことなのだ。できるに決まっている。能力は証明済みなのだ。目標は日本一の社長になることだ。作家でもいいのだ。小説をまずいっぱい読むことだ。小説を一冊も読んでいないじゃないか。それでは話にならない。読んで書くことだ。この問題解決というおいしい仕事を神は私に課題として与えてくれたのだ。思う存分やればいいのだ。一所懸命何かをやったことはないじゃないか。原田式メソッドであれば道徳的に自分を責めることなく、習慣として目標と夢と達成感、生きる喜びと感謝を持って仕事をやっていくことができる。そこに人間関係など介在する余地など全くない。


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