希望の日記

2006年07月28日(金)

酒を飲んでしまった。胃が痛い。手首も痛い。満身創痍だ。フェアーであれば大概のことはクリアーできる。自分だけ得をしようとしてもうまくいかない。浄土真宗に帰依してから気持ちがスッキリした。真宗こそフェアーな宗教だ。一切差別をしない。修行とか言って結局差別している。日本人はフェアーとは言えない精神構造をしている。どうしても影響されやすい。フェアーでない取り扱いを受けても我慢してしまう。我慢と無理はいけない。私がこんな症状が出ているのは全く当たり前だ。自分をフェアーに扱っていない。女が嫌いでもいい。好きになろうと努力しなくてもいい。自分の身は自分で守っていい。私はあの職場に戻らないだろう。ストレスが溜まりすぎている。自分をフェアーに扱わない場所にはいられないし、いる必要はない。自分で自分の身を守っていいのだ。
昨日母親には悪いことをしたと思った。フェアーでない態度をした。キチガイ教師にいじめられてストレスが溜まって母親に暴力を振るってしまった。あのキチガイは母親にも電話していた。気の毒だ。ずっと戦っていた。でも子育てだから仕方ない面はある。ぐれる子供もいるだろう。社会に出てからも舞い戻ってきて迷惑をかけた。楽しい老後の暮らしが待っていたのに、めちゃくちゃにしてしまった。フェアーでない態度だ。そして一人きりにして置き去りにした。もちろん子供は独り立ちするものでいいのだが私が自分にフェアーでなかった。フェアーでないとは一方的とか搾取的とか言う意味だ。誰も煩悩を断ち切るなんて無理な話だ。親鸞はそれを見抜いていた。真宗はメシア主義だ。もともとの仏教はエリート主義で無理なことばかり要求する。根本的な組み換えを行った。もとの仏教とは似ても似つかない。キリスト教に似ている。z氏も全く幻想にとらわれている。会社に貢献することが目的とは本末転倒だ。だから人格改造でも何でもいいということになる。失敗すれば放り出せばいいということになる。全然人を救うことが目的ではない。フェアーでありさえすれば私がどんな成育歴だろうが、トラウマがあろうが、関係ない。今ここに生きることができる。フェアーに扱えということになる。フェアーということは大雑把なようで精密な道徳だ。どこまでも精密になる。関係性だから絶対と言うことはない。バランスの問題だ。固定した身分などない。靖国の問題もアジアの人々をフェアーにあつかっていないことになる。支離滅裂だ。人の嫌がることはしない。当たり前のことができないのは、小泉がアンフェアーなメンタリティーの持ち主だからだ。ブッシュの犬。そういう奴隷的な身分でないと安心できない。やくざに見られるものだ。あれの祖父は侠客で刺青宰相と言われたらしい。そういうものを許す風土がある。浪花節、任侠。フェアーな世界ではない。全く理屈の通らない世界だ。女が嫌いかどうかは関係なくフェアーであるかどうかだ。嫌いであることを変えることは不可能だが、フェアーであることはできる。女は好きかどうかを探ってくる。すぐに見破る。女が嫌いというのは偏食と同じで差別的な面、アンフェアーな面もある。差別的、アンフェアーである限りにおいては改めないといけないだろう。でもメンタリティーなど代えようのない部分もあるからそこは無理して変える必要はない。変えるべきなのは態度であって、好き嫌いではない。
自分にも誰にでもフェアーになると楽になる。無理や我慢を一切強いない。嫌いであってもフェアーであることはできる。自分を守ることは許されている。あの職場は私をフェアーに扱っていない。だから単純に拒否できる。恐いというのは許されている。フェアーに振舞うことはできる。恐くても。嫌いな人間であってもフェアーに振舞うことができる。好き嫌いなんか関係ない。人間関係は好き嫌いではない。
うつでも統合失調症でもノイローゼでもフェアーであることはできる。フェアーになれば病気にはならない。egとはアンフェアーな状態に置き、人格を破壊する。あのいんちきカウンセラーは会社の立場に立って私の人格破壊をそそのかしたのだ。フェアーであると生きていけないと思っている。ウジムシと付き合ったことによるptsd。キチガイ教師の虐待によるptsd。それでも私は生き延びる。フェアーであることを実行すればここから抜け出せる。
フェアーであること。これはうつでも何でもできる。自分を守るということの前提でもある。人にフェアーでない者は自分にもフェアーでない。
とことんセルフケアーする。カウンセラーに見捨てられても私は私を見捨てない。カウンセラーなんか人をモルモット扱いするキチガイ集団だ。egなんか害毒ばっかりで効用は何もないのにしがみつく。快楽とアディクション。犯罪だ。
フェアーであることに慣れてくると感情も正常化する。アディクションがすっと消える。今おばさんを見ると恐いが、その根底には差別感情がある。中学の頃から訳のわからないことを書き綴るようになった。同時にフェアーでなくなった。フェアーであれば、差別感情は消えていく。フェアーであれば正当に誰でも接するということだから問題ない。恐いとか気持ち悪いとか言う感情はフェアーであれば消えていく。フェアーというのは感情であって感情ではない。理屈であって理屈でない。それらを越えた倫理的感覚でどんな場合でも誰に対しても通用する。誰でも差別されたくないだろう。
フェアーは中庸にも通じる。極端な考えは自然に遠ざけられるから、認知療法的考えとも一致する。自分いじめの連鎖は断たれる。
アディクションにはまる人はフェアーでない考えに取り付かれている。何かによって自分だけ幸せになれると信じている。それは一部満たされ、一部満たされない。満たされないから際限なく求める。幸せは後からついてくるものだということが納得できずに何かに依存する。人に向かう場合は人を奴隷化し、自分の快楽の目的としようとする。家庭内暴力、小学校の頃あのウジムシがやっていた行為。
フェアーであれば多少嫌なことがあって気分が変動しても持ち直すことができる。小さい頃馬鹿で相手にされないから人に片っ端から悪さをする馬鹿がいた。私は愚かにもその馬鹿の友達になってしまった。やっぱり私も馬鹿だったのだ。でもフェアーであれば過去の過ちもプラスにできる。
フェアーであること。アイムオーケーユアオーケーに通じる。フェアーであればどこにでもいける。
悪いことをしたいとは思わない。フェアーであれば物事はうまく行く。女でも好き嫌いに関係なく、フェアーに扱うことはできる。フェアーに接することだけが唯一の態度だろう。
頭が勝手に暴走を始める。これを薬の力か、呼吸法か何かでコントロールできるようにならなければ社会復帰は難しい。こんな状態でもフェアーであれば、人間関係はうまく行く。自分に対しても他人に対してもフェアーでありたい。
私は悪い人間ではない。悪いことを考える癖がついているだけだ。フェアーに考え行動する癖をつければくだらない揉め事はたちどころになくなる。被害妄想もなくなる。余計なことを考えなくて良いから考えなくなる。私は宗教のレベルまで成長した。これは誰でもできることだ。古来多くの人が当たり前のようにできたことだ。これなしでは生きることはできないだろう。簡単なことだ。フェアーに生きるということでいいのだ。修行とかは必要ないのだ。
今日はしんどかった。でも一人さんの言う困っていない、学んでいるんだというのは身にしみてわかる。でもできれば苦しみたくない。あの頃は元気だったのに、明るい未来が見えていたのに、どうしてこんなに苦しいんだろう。私は悪いことを平気でする。フェアーになろう。フェアーになればうまく行く。邪悪なこと。これをのぞけば私もまともになる。フェアーになったとたんに人に興味がなくなった。いいことかもしれない。今日は一日家にいた。昨日怪我したから恐くなった。生きるパワーが落ちてしまった。フェアーに生きれば必ずよみがえる。焦らないことだ。ここを脱出したい。今がチャンスじゃないのか。九州に出かけよう。あるいは東北へ。


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