希望の日記

2006年07月30日(日) フェアー

フェアーで行こう。最近特におかしい。自分で自分がコントロールできない。酒におぼれている。体調が良くないにも拘らず飲んでしまう。文学なんかにのめりこむとろくなことはない。結局フェアーじゃなかったので全てはうまく行かない。自分が守れない。フェアーになれば正々堂々と自分が守れる。昨日電車で驚くほどの美少女を見た。絶対堺にはありえないほどの。大和川からミナミには人間は住んでいない。女が嫌いなんじゃなくてブスが嫌いなだけだ。婆とか。フェアーであれば努力もいらず危険もなく自分を守り、主張することができる。アサーティブということだ。大阪の女は全員ヤンキーだ。犯罪者なんだから恐いに決まっている。でもヤンキーは権力には弱い。悪いことをしていることには間違いないからだ。フェアーであればそんな奴のことなんか気にならない。昨日天保山の催しに行ったが死ぬほどつまらなかった。何も面白いと思うものはない。大阪に面白いものなんかあるわけがない。東京行きたい。
仲良くなんかできないので何も考えずフェアーでありたい。好かれなくてもいい。人格障害。ヤンキーは人格障害だ。大阪は宅間のふるさとだ。全員人格障害だ。全く理解できない。私が理解されることもない。フェアーであって自由でありたい。
うつであっても人格崩壊していてもフェアーでさえあれば全てうまく行く。人間は皆人格障害だ。特に大阪の女は全員ヤンキーで人格障害だ。それでもフェアーであれば自分を守れる。絶対確実に守れる。
他人に興味がなくなった。人にどう思われてもいい。人を好きとも嫌いとも思わない。健全化の兆候だ。全く葛藤も軋轢も生じない。私が今まで感じていたのは人格障害的な感情だ。フェアーであればそんな偏った人への関心はありえない。危険な人物に接近することもない。
フェアーでありたい。何かしたいと思ったのは初めてだ。自分を守るためにその人間と仲良くするのは間違いだ。我慢できないし、人格が崩壊する。自分を守るのに方法なんか選んでいられないし、選ぶ必要はない。フェアーであれば自分を守る方法はすぐわかる。すぐ実行できる。病んだフェアーでない状態は避けるべきだ。フェアーであれば自由にいつでも自分を守れるのでびくびくする必要はない。人に注意する必要はないので興味がなくなる。とても興味の持てるような奴らではない。女は人格障害のヤンキーだ。
反俗に行こう。人に興味がなくなった。山奥で仙人のように生きていこうか。興味ないのに興味ある振りをするのは馬鹿馬鹿しい。とにかくあの職場には戻らない。そのために全力を尽くす。フェアーでない状態になっている。元に戻すことはできない。キチガイと付き合うことはできない。
フェアーである私は昨日までの私とは違う。フェアーとは健全ということも含まれる。いつも健全な状態かどうかセルフチェックする必要がある。誰に対してもフェアーであればうまく行く。うつ状態でも統合失調症でも大丈夫。
フェアーであれば俗世間に興味がなくなるので利他的な社会貢献的な行動ができるようになる。松下幸之助や一人さんの言うことがわかるようになってくる。浄土に行こう。聖なる世界に遊ぼう。俗を避けよう。人から離れよう。
最初の頃の躁状態も今思うとおかしかったかもしれない。それからすると今のほうが普通だ。無防備であってはいけない。何で悪いことをするのかなどと人格障害に言っても仕方がない。休む前に私にされた仕打ちはいじめ以外の何者でもない。それを耐えるのが馬鹿なのだ。フェアーでなければいけない。昔いたウジムシと同じことをやっている。フェアーでなければならないというより、フェアーでありたい。
とにかく絶対の復帰条件はあのグループを離れるということだ。人を信用するな。何で盗人を信用するのだ。何で自分を守らないのだ。馬鹿じゃないのか。フェアーであるということが重要だ。私は両親にフェアーでなかった。鬼っ子だ。フェアーであればこれからも十分生きていける。
とにかく自分を全力で守ろう。仲良くするなんて意味ない。馬鹿馬鹿しい。私はこの世に納まりきらないスケールの大きな人間なのだ。人と仲良くする方法を考える暇があったら、フェアーに考えて自分を守ることを考えるべきだ。フェアーであればいくらでも自分を守れる。フェアーでないと自分を守れなくなる。
今ほど休みが必要なときはないし、危険に敏感であり、避けるべきときはない。生命力が弱り、頭の働きが衰え、手も怪我してしまった。自分で自分が守れない。アドレナリンが過剰放出されて不適切な行動を取るというパターンが繰り返されている。
あのヤンキーと人格障害ぞろいの職場が恐ろしい。長年耐えてきたのがここに来て耐え切れなくなった。ストレスによるダメージの蓄積だ。
n氏はそんな職場でもちゃんと課長をやっている。素晴らしい。きっと内心は辛いんだろう。きっと芯が強いんだ。私も統合失調症的な反応ではなく理性的に対処しないといけない。今こそ理性が必要なときはない。フェアーであるということは言葉で理解できる唯一の感覚だ。今まで抽象的なことしか言えなかったのが初めて実際的なことがわかるようになった。アメリカも犯罪が多いし、悪い奴はとことん悪い。でもある部分ではピューリタニズムで、徳を重んじる。そうでなかったら豊かにはなれない。
今ほど合理的、理性的、倫理的に生きるべきときはない。フェアーであれば現実にも完全に対応できる。こころなき獣のような奴らにも完全に対抗できる。フェアーでさえあれば。フェアーでありたい。闇雲に人を傷つける。自分だけ利益を貪る。安逸を貪る。そういうことは止めたい。サドの考えたようなことだ。フェアーでない行為とは。それは意識的に変えることができる。フェアーであることは意識的に完全にできる。フェアーじゃないことは一時的には耐えられても絶対に続かない。必ずおかしくなる。あのグループでの扱い。絶対に耐えられないし、絶対にあそこには戻らないという理由だ。フェアーであればいつどこでも誰に対しても自分を守ることができる。自分を守るために相手と仲良くなる必要はないのだ。いじめられないために愛される必要などないのだ。戦争状態であっても自分を守ることはできるのだ。フェアーでありさえすれば。
人に全く興味がなくなった。良いことだ。人に腹が立つ可能性が全くなくなる。フェアーな気持ちになる。
フェアーでありたい。フェアーであることは意識的にできる。完全にコントロールできる。中学のときからフェアーであることができなくなった。原因はわからない。そうなるべくしてなったのだ。フェアーであれば全ての悩みは解決する。絶対につけこまれることはない。フェアーであれば人生は私のものになる。フェアーであると自分の願望がかなう。フェアーであるとは誰でもいつでも100%正しく判断できる。うつであっても統合失調症であっても。フェアーであればどんな場合でも誰からでも自分を守ることができる。
人格障害みたいな奴と仲良くなんかできるわけがない。何するかわからないのに何で一緒にいられるのだ。フェアーでありたいものだ。
フェアーであればなんでもできないことはない。世界征服もできる。フェアーであることは生きることと一義だ。
最初の躁状態も必ずしもベストな状態ではなかったのだろう。すぐにこけてうつになった。自業自得だ。しかし私は二つの気付きを得た。親鸞の教えとフェアーであることだ。
フェアーでありたい。自分にも他人にも。他人なんか全く興味がない。全く。だから葛藤が生じようがない。


 < 過去  INDEX  未来 >


リスパ

My追加