希望の日記

2006年07月31日(月) フェアー

フェアーでありたい。フェアーであればなんでもできる。反俗で行こう。親鸞でも庶民の味方であったが庶民に媚びたりしなかった。非僧非俗はそういうことだ。エリートならエリートでいいじゃないか。
フェアーであればなんでもできる。この宇宙は私のものであって私のものでない。私は宇宙のものであって宇宙のものでない。今は有機生命体として意識を持っているために悩んだり喜んだりしている。しかし私の意識を成り立たせている物質も法則もいつからあるのかわからないくらい古い。これからも止むことはない。それでも私はそれを一瞬でも知ることができたのは幸福だ。私が死んで私の意識がなくなってしまったとしても何が苦しいだろう。それが将来、誰かの意識によって想起されなければ納得がいかないとはなんと狭い心だろう。私は今こうして私の意識を知りえ、今一回だけ味わっていることで十分満足だ。それ以上付け加えるものはない。動物も全くそうだろう。人間は体は他の動物と同じくらいの古さなんだが、脳は比べ物にならないくらい発達している。それで余計なことを考えるんだが、地球の先輩である魚や爬虫類やほ乳類を見習うがいい。余計なことは考えない。ただ人間としてできることは人間に生まれて意識を持ったことを悲しみや苦しみとするのではなく、喜びや幸せと感じるような生き方をすることで実際そう感じられれば幸せといえるだろう。人生は一回かぎり、それでいいじゃないか。もう一回やれといわれても嫌だろう。一回でももうたくさんと思っている。この宇宙というステージで一回だけの生を与えられた不思議。誰も皆一回だけというのはフェアーである。人生が一回だけというのは誰も皆知っている。それでフェアーだと思う。人間の知りえない。複雑精妙な法則それ自体を神といってもいいが、それが物質であるとも意識であるとも言いがたい。物質だけでなく意識をも生み出すこの宇宙の神秘性を感じる。感じるだけで十分だ。知ることは許されていない。誰にも許されていない。でも満足だ。幸せな人はその宇宙の神秘さを感じることができて満足している人だ。
私がこうして生きているのも偶然ともいえるし、必然ともいえる。私は物質でもあるし、意識でもある。心と体は一体だ。切り分けることはできない。一つの命だ。今この瞬間は現在と過去と未来は区別が付くだろうか。永遠の未来もはるか過去も同じものだ。今は過去であって未来でもある。物質も生命も同じといえないだろうか。昔の人が物質に生命があると考えたとしてもあながち間違いではない。物質であるからだが意識をもっている不思議さ。未来は遠い未来とも言えるし、今現在でもある。過去は遠い過去であるが今現在ともいえる。過去は現在であり。未来も現在と変わりない。だから人生は一回でいいのだ。一回生きればこの宇宙の全ての時間と空間を知ったことになるのだ。後何百年何億年生きても同じことだ。未来と現在は同じことなのだ。永遠と一瞬とは同じことだ。永遠が長く一瞬が短いのでない。一瞬とは永遠のことだ。永遠とは一瞬のことだ。
宇宙は永遠であり、生命も同じくらい長い。人類はある一時点で生まれ、将来のある時点で滅亡するだろう。でも必ず生命はこの宇宙のどこかで生まれているし、過去にも未来にも生まれている。決して滅びない。宇宙の法則のなかで生命はもう生まれないというルールがある時点で採用されることは考えられない。だから生命は永遠だ。私の命は今生まれたものではない。それは明らかだ何十億年前に生まれることは決まっていた。それは必然であって偶然であろう。必ず決まっていたともいえるし、全く偶然だったともいえる。ものすごく偶然だったとしても驚くには当たらない。限りなく必然だったともいえる。今ここにあることはずっと前から決まっていて、ここに存在したことは永遠に消えない。誰かに記憶の中に残るからでなく100年後誰も覚えていなくてもここに存在したことは無名であっても客観的事実として永遠に残る。人類はあまり賢くないから、その意味を十分に理解できない。偉くなかったから意味がなかったとか、赤ん坊で死んだから意味がないというものではない。赤ん坊が死んだのは偶然ともいえるし、必然ともいえる。それは人類が生まれたのも滅亡するのも偶然であって必然というのと同じだ。一回と100回は同じことだ。一回の人生と100万回の人生とは同じことだ。一回とは100万回と同じだ。一瞬と永遠は同じことだ。現在と過去と未来は同じことだ。
この世の真実というのは知りえない。物理学の最先端では世界はつながっていて裏側の世界では一つになるそうだ。そうでなければ会話すらできないだろう。私の思うように永遠とは一瞬のことであり、一瞬とは永遠のことである。現在とは未来であり、過去でもある。他の命は自分の命であり、物質は命であり、命は物質である。ここにいることはどこにでもいることである。今ここにいる自分は恐ろしく神秘的であり、今ここの一回限りの命を生きていることは無限回の命を生きることと同じである。一回限りの命と永遠の生命は同じものだ。等価だ。フェアーな生き方をすればそのことを忘れないだろう。そのことを忘れないならば全てうまく行くだろう。
この世の真実を完全に知ることは人間の知性では無理だろう。でも恐ろしく神秘的な世界に今いるということはわかった。今ここにいるということは永遠に偏在するということと等価だ。それくらいを知っておけば十分だ。信じることだ。信じるといっても感じることはできる。動物でもこの世の神秘さをそれなりに感じているに違いない。犬が遠吠えしたり、鳥がさえずったり、そういうことは何かを感じているのだ。人間のできることは信じることだ。神秘主義ではなく人間の知りえない神秘的な法則があるということを感じることだ。今ここに存在することが限りなく神秘的だ。その奥にどれだけ深い神秘が隠されているか。それを知りえなかったとしても不幸ではない。それを感じることができるだけで幸せではないか。
フェアーでありたい。フェアーであればなんでもできる。もの相手でも人間相手でも何でもできる。フェアーであろう。なんでも手にはいる。私にはその価値がある。能力もある。全てが可能だ。
フェアーであることは大事だ。フェアーでありたい。フェアーであればなんでも手にはいる。一瞬とは永遠であり、永遠とは一瞬である。こことは全宇宙であり、過去は現在であり、未来である。生命は物質であり、物質は命である。命は孤立していなく苦しみは一瞬である。一回きりの生は永遠の生命と同じである。何も知らなくても全てを知っていることと同じである。極小は無限大と同じである。全宇宙と一個の原子は同じ大きさである。フェアーであることによってこれだけのことを知ることができる。
フェアーであることは素晴らしい。本当に素晴らしい。フェアーであれば全てを知ることができ、全てほしいものを手に入れることができる。
命と物質は同じものである。空間と時間も同じである。あるものは空間であると同時に時間でもある。時間は時間だけの存在はなく時間であるとともに空間でもある。存在することと存在しないことは同じである。色即是空空即是色とはそういうことである。時間は無限であってないのと同じことだ。空間は無限大であって存在しないことと同じである。ビッグバンはそれを実際に証明する。存在しないものが存在し始め、そのときに時間が進みはじめた。やがて宇宙はゆっくりしぼみ始め、収縮し、ついに存在しなくなる。恐らくそれを繰り返している。私が今ここにいることと、未来永劫の先にあることとは関係している。未来永劫の先にあるものは遠くにあるのではなく、今ここにある。はるかかなたにあるものは今ここにある。生命の誕生は偶然であるし、必然である。そのことを認めることはおかしなことではない。完全には知り得なくても、何かがあると感じることは誰でもいつでもできる。人間は宇宙の一部であるから、一部を知ることができても不思議ではない。完全には知ることはできないだろう。でも感じること、信じることはできる。
この世にはものすごいエネルギーがあって物質と時間を生み出している。物質と時間はエネルギーと同じもので伸び縮みする。無から有は生じる。有と無とは同じだ。今ここの存在は存在していないのと同じことだ。未来永劫の先にあるものは今ここにある。何もかもが今ここにある。人間は惨めでちっぽけだが、やがて他のものに姿を変えて何かに戻っていく。それは100年先であっても今ここと同じことだ。100億年までも現在でも同じことだ。
宇宙はフェアーである。一回きりの人生でも100億回でも同じことだ。一瞬も永遠も全く等価だ。広がりきった宇宙は紐でひっぱられてまた一つに束ねられる。延びきった時間も引っ張られて一瞬あるいは不在に戻る。それは不思議でもなんでもない。人間はそれを知らないからといって悲しむことはない。確かに信じることはできる。喜ぶことはできる。不幸でも不運でも惨めでもないと、信じることはできる。知ることはできないが感じることはできる。動物も感じることはできる。
全てのものは同じものだ。いつか過去に未来にではなく現在過去未来常に既に全ては同じものだ。そうでなかったら会話もできない。時間も空間も同じものだ。名前のあるものもないものもこの世にあるものもないものも皆同じものだ。今も昔も未来も同じものだ。
フェアーでありたい。フェアーになりたい。フェアーであれば全てが手にはいる。フェアーであると決めたら、全てが手に入ったのと同じだ。
フェアーでありたい。フェアーになりたい。自分に対してもフェアーでありたい。


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