今日は一応眠れた。少し楽になった。眠れないというのはなんと辛いことか。楽しもう。遊ぼう。旅に出ているときはそれなりに楽しかった。小説がよく読めた。家ではテレビばかり見て小説は読まない。松本清張は面白かった。気分が出た。旅と推理小説は絶品だ。 湯布院は最悪だった。嫌いなものが凝縮されていた。eg以来性格が荒れてきた。妙に周りが見えないというか強気というか、攻撃的というか、現実を見ないというか常識に従わないというかフェアーでない性格が前面に出てきたというか、結局うまく行かない。森田療法でバッシングみたいになったのは結局そういうことだ。くそ親父とトラブルになったのはそういうことだ。性格が変わったとしてもフェアーであればうまく行くと思う。今回もトラブルにはならなかった。 森田療法なんかくそみたいなものだ。あほのやることだ。絶対に関わりあってはいけない。今回のキチガイとのトラブルはこれで終わりのような気がする。これから新しい生活が始まる。フェアーであるという旗印の下、どんどん新しい自分が開けていく。人を完全否定しても言い。そうすべきだ。そこから始まる。境界例なんかどうでもいいのだ。 フェアーであるということはすごい。人を完全に否定しても構わない。 私は人を受け入れる容量が少ない。あるいは逆に受け入れすぎるために悪影響を受けて電波が乱れるので受け入れないことに決めたのだ。受け入れるとなると真面目にどこまでも受け入れる。それは疲れる。いい人間ばかりではない。ぶっ壊れた人間もいる。そういうやつは受け入れるべきではないのだ。人をまず完全否定する。それもオーケーなのだ。何でとことん自分を犠牲にして自分をぼろぼろにされないといけないのだ。引きこもりとかじゃなくて人を受け入れることなどできないのだ。あんなくそ電波女なんか何で受け入れないといけないのか。一体何様なんだ。偉そうにするな。境界例が。何のいいことがあるんだ。どこに人間として良い点があるんだ。フェアーであることは自分を守るためにどうしても必要だ。信じるべきでない相手を信じてはいけない。純真で正直でなくてはいけないということはない。あんなくそモラハラ野郎なんか受け入れられるわけがないだろう。何でいつもいつも人を受け入れなければならないのか。また受け入れられなくてはならないのか。受け入れられなくてもいいのだ。あんなくそ電波ババアなんか受け入れられなくて良いし、受け入れなくていいのだ。俺のことを誰も受け入れてなんかいないじゃないか。人の機嫌なんか取らなくていいのだ。自分の機嫌を取って生きるのだ。これからはきっと幸せになる。フェアーである。嫌いでも好きでもいいのだ。フェアーであるのだ。 境界例の奴を受け入れる必要はない。フェアーであることが必要だ。境界例なんか受け入れる必要はない。何で攻撃されないといけないのか。全くわからない。何で人を攻撃するのかわからない。 フェアーでありたい。遊びを大事にしたい。 完全否定というのはいいことだ。境界例の奴を何で受け入れないといけないのか。全くわからない。受け入れますよ、ウェルカムですよというのは間違ったメッセージだ。受け入れられない。あの森田療法のキチガイを私は受け入れられない。あの坊主もそうだ。完全否定でいいんじゃないのか。仲良くしようとか理解しようとか、好かれようとか、好きになろうとか全くそんなことは無意味だ。全くそんなものじゃないのだ。完全なキチガイなのだ。いい加減にしろ。何で俺がお前らみたいなキチガイに理解されないといけないんだ、好かれないといけないんだ。好きにならないといけないんだ。仲良くしないといけないんだ。全くそんな必要はない。完全否定でいいじゃないか。
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