昨日酒を飲んだら頭が痛い。目がおかしい。もうこれから1週間は飲まない。何で飲まずにいられないのかわからない。昨日のことは覚えていない。嫌なことがあったから飲むのか自分を痛めつけたいのか。自分は良い人だ。愛と感謝と優しさがいっぱいだ。でも欲は必要なのか。愛は欲なのか。妻がほしい、子供がほしいとは欲なのか。欲がないのがいけないのか。自分は愛と優しさで十分と思うが。悪いことはしたくないので臆病なのか。人が私に悪いことをしても逃げるだけ戦いたくない。 頭が痛い。できたらもうしばらく酒は飲みたくない。人に迷惑をかけるのもいやだ。人に憎まれるのも嫌だ。少し休もう。何もできなくても良い。できるようになってからやれば良い。今が底でこれから良くなる。 昨日はやっぱり飲みすぎた。反省。悪いことをいっぱいしている。私は悪いことをすることがある。でも反省しよう。良い人になろう。 人を尊重しよう。悪いことはするまい。変な本を読んでおかしくなった。影響されまい。正しい考えに従おう。人を尊重することが大事だ。変な本を読んで人を馬鹿にするようになった。それではいけない。心から反省する。人を尊重しよう。愛と優しさ。感謝。変な本を読んだために女を愛せなくなった。仏陀だって女は救われないとか良くないとか言っている。でも馬鹿にしてはいけない。尊重した方がよい。やっぱり偉いのだ。両親を尊敬する。父を母を尊敬し、愛し、感謝する。 昨日は飲みすぎた。これは確かだ。だから調子が悪い。でもいずれ回復する。女を愛せない。でもそれは問題じゃない。尊重すれば良い。女は母は偉いと思う。馬鹿にする理由はない。性的に興味がないという意味か。それならそれでいいじゃないか。全くないわけじゃない。今思うと姉はずいぶん私をいじめたと思う。あの姉は少しおかしい。よくわからない。今でも私にモラハラ的に接する。訳がわからない。私が女っぽいからか。女とうまく行かないのは私が女っぽいからだろう。それも仕方がないだろう。運命と諦めよう。全くうまく行かないわけじゃない。興味を持つ女もいる。私も好きな女もいる。好みが狭いだけだ。余り考えすぎまい。愛と優しさと感謝。人を尊重すること。この当たり前の気持ちを大事にしよう。余計なことは考えない方がよい。 いじめたいならいじめれば良い。男のくせに男らしくないとか。私は気にしない。好きにもならないだろう。私のよさをわかってくれるものだけを相手にしよう。私をいじめるものは相手にしない。それでいい。 まず自分に優しくしよう。そして人に優しくしよう。あのおばさんとうまくいかに一番の理由は私が女を好きではないことだ。とくにおばさんに激しい嫌悪を覚えることだ。どうしてかわからない。母親や姉のことがあるのだろう。でもそれを責められても困る。脅されようといじめられようと好きになることはできない。何となく好きでない。嫌悪感を覚える。それを理由に攻撃されても困る。好きではないからといって攻撃されても困る。それだけだ。私が言いたいことは。でもうまくやっていかないといけない。離れていたい。母や姉に最近接触している気がする。姉は一番嫌いだったのに頼りにせざるを得ない。他に頼るものがいない。母も姉も好きではない。でも母は私を父の代わりと思っているのか親切にする。でもそうされるとつらい。自分でもわからなくなる。それはこれ以上追求すると辛い。自分にやさしくしよう。私は女ではないから女同士つるむみたいに仲良くする必要はない。女として興味があるわけではないから男女として仲良くする必要はない。後は仕事の仲間くらいだ。それくらいはできると思っていたが、なかなかできない。これは反省点だ。仕事仲間として尊重することはすべきだろう。それができないのはルール違反だ。それくらいはできる。嫌悪感というのはない。 私は元々そんなに悪い人間ではない。でも変な人間と付き合ってしまい、おかしくなった。姉や兄は私ほどおかしくない。だから結婚して子供を育てた。私にはそれができなくなってしまった。人間の一番強い愛という感情が衰えてしまった。仏陀は愛とか執着を離れよという。性愛は最もいけないものだという。混乱してしまう。私は貪欲でありすぎて嫌になったのだ。 愛のない男は女にとっても扱いづらい。いないほうが良い。女に欲情しない男は用がない。欲のない人間は扱いづらい。こんな変な人間になってしまったが、何とか生きて行きたい。すごくクリアーになった。酒の効用か。情欲など欲がなくなったことが大きな問題のようだ。周りについていけない。邪魔者扱いされる。愛と感謝と優しさは必要だ。日本の仏教には優しさがある。浄土真宗は愛と優しさの宗教だ。苦行と選良主義ではない。それを好む人もいるだろう。欲の強い人は当然そうなるだろう。 私は優しさを求めているらしい。愛を求めているらしい。それは誰でもそうだろう。女はこんな苦しい思いをしているのだ。愛を求めて得られなかったら苦しい思いをするだろう。そういうことはしないほうがいいんじゃないか。本当に女が恐いだろうか。嫌いだろうか。自分の心にそむいているだけじゃないのか。好きになるのが嫌さに必死になって嫌いになろうとして自分を押さえ込んでいるんじゃないか。だとしたら愚かなことだ。愚かだし、間違っているし、罪だ。自分がかわいそうだ。余りにもかわいそうだ。幼女は疑うことを知らないからこんな私でも好きになってくれるかもしれないと幼女を好きになる。私は愛の怪物だ。愛を求めて得られなくて押さえ込んでついに化け物になってしまった。自分で好き好んで怪物になってしまった。三島由紀夫のようだ。愛することは本当は簡単なことだ。赤ん坊でもできることなのに、無理やり押さえ込むのはいけない。自分がかわいそうだ。私はなぜ町をうろつくのか。愛を求めているんじゃないか。少女たちは愛を求める。当然のことだ。私はかわいらしいと思う。自由でありたいと思い、愛を拒み、余計不自由になってしまう。愛の怪物。愛と感謝と優しさだけが私を人間に戻すだろう。化け物から魔法を解いて愛の人間に戻ろう。愛という魔法だけが私を人間に戻してくれるだろう。女を愛することは不可能ではない。そう思い込んでいるだけだ。愛を求める試みはいつも間違っていない。正当なことだ。女たちが愛を求めることは正当なことで邪魔することは許されない。 b校でも私は愛の不可能性を演じてしまった。化け物に成り下がってしまった。愛を取り戻すのだ。これは大きな問題だ。大きな仕事だ。大きな賭けだ。でもやりがいのあることだ。誰でもできることだ。自由の名の下に不自由な牢獄に閉じ込めてはいけない。愛という魔法でこの牢獄から脱出するのだ。人間を愛するのだ。概念を愛してはいけない。三島のように概念に殉じてはいけない。生身の生きた人間を愛するのだ。私はきっとできる。愛することは簡単だ。誰でもできる。それができている普通の人々を私は尊敬する。 今日はぼけていると思ったら最高にさえている。酒のせいか。愛が可能であると信じることだ。信じることは強い。生身でないものを愛することは危険なことだ。オタクとか幼女愛とかsmとか生きることにつながらない。自由であることはそういうことではない。生身の人間を愛することだ。愛するとは優しくすることだ。簡単なことだ。概念を愛してしまうとそんな簡単なこともできない人間になる。立ち直ろう。本当にそう思った。きっと立ち直れると思った。愛の力を信じよう。 医者に行ったらカウンセリングを勧められた。私が薬ではなく、愛を求めていると気付いたのだ。堺のカウンセラーに行ったらそれが少し得られた。それが得られた気がすることは大変なことだ。価値がある。あの大阪のカウンセラーは理屈っぽくて愛を拒絶している。理屈を愛してはいけない。自分を愛せ。愛の奇跡が私を立ち直らせてくれると信じている。愛を求めれば得られる。それを試みることを恐れてはいけない。あの坊さんでも何度でも女に愛を求めることで救われた。愛は大事だ。愛は奇跡だ。愛を拒むものは生きていけない。愛の掟だ。愛は素晴らしい。愛と感謝と優しさだ。怒りとか恐怖とかで人を動かそうとするのは間違いだ。こうして理屈っぽく論じていること自体が理屈を愛している。理屈に逃げ込んでいる。愛を信じろ。 愛を求めていながら拒む振りをする。恐ろしい間違いだ。昨日記憶の一部が飛んでいる。危険だ。ほどほどにしよう。破滅につながる。愛を求めよう。欲は間違いではない。人が愛を求めることは間違いではない。森田の人は欲が深い。欲が深くて失敗する。私のように欲を否定し、愛を否定する振りをするのは大変な間違いだ。答が見えてきた。私が森田の人と全く噛み合わないのはそれが理由だ。愛と欲望を肯定することで苦しみが生じるのにそれを否定してしまっては話にならない。そんな人生は生きる意味がない。愛を信じよう。簡単なことだ。自分を愛し、信じることだ。愛を自分に許すのだ。私は愛は必要でないなどと考えてはいけない。誰でも愛は必要だ。愛は無限で惜しむことはない。 でも愛に目覚めてよかった。きっと立ち直れる。愛は奪うだけではなく与えるものでもある。子供は親から愛を奪っていると同時に無限の愛を与えている。愛の奇跡。私がいまだに母親や兄弟にすがったりするのは他人ときちんと愛を築けないからに他ならない。これができるようになりたい。愛に絶望してはいけない。 斉藤さんや稲盛さんに人がついていくのは愛があるからだ。日本的共同体としての愛があるからだ。一人さんは厳しいかもしれないが愛があるからついていける。愛を貪ってはいけない。一方的に。愛は与えるものだ。相互的なものだ。会社が私に与えてくれるものははかり知れない。それに背くことはできない。当たり前のことだ。でもいい事に気付いてよかった。これなしには生きてはいけない。愛は与え合うものだ。一方的に貪ることは許されない。愛のいろはをこれから学ばないといけない。女は愛のプロだ。永遠に勝てないだろう。勝つ必要はない。愛とは負けることでもある。家庭で女が主のようになることは自然なことだ。愛の達人だからだ。男にはまねできない。男には男の愛の仕事がある。女を愛することだ。女を愛することは素晴らしいことだ。長い間に私は女を愛する勇気を失ってしまった。愛から逃げてはいけない。愛の逃亡奴隷。カルチャーセンターに逃げ込んでもそこにはまた愛がある。愛から逃げることはできない。愛の不毛。愛の不能。変なサークルに入るとそこから抜けられなくなる。 いい事に気付いた。愛は素晴らしい。愛を得るのだ。愛を求める勇気を取り戻すのだ。z氏は私にそのことを教えてくれた。貴重な人間だ。愛の飛ぼう奴隷に成り下がっていた私に愛の大切さを教えてくれた。カウンセリングは愛である。そうでなかったら価値はないじゃないか。なんかのレッスンや説教ではない。愛を乞う人。生まれもって人は全てそうだ。一人の例外もなく。宅間でさえそうだ。というよりあいつが一番強く激しく愛を乞うていたのだ。やり方が完全に異常なだけで、愛を求める気持ちは抑えることはできないのだ。 本質的なことに気付いたのできっと私は立ち直れる。そう強く信じることだ。生きてて良かった。そう思える。全てのことがこのことを指し示していたのに必死で目をそらそうとし続けた私。そんな卑怯なことではいけない。私は欠陥人間なんかじゃない。人を愛せる。人に優しくできる。人を思いやることができる。人を好きになることができる。愛情は備わっている。全ての人間に。林被告でも歪んだ形ではあるが愛は残っている。遺族を嘲る残忍な性格の裏に人を愛する能力が残っている。私も親や兄弟を信じ、愛する気持ちだけは残っている。それを一般の職場とか家庭とかで実現したらいいのだ。これは愛のレッスンだ。怯えてはいけない。どうして愛に臆病なのだ。 一所懸命仕事をすることが愛である。人に優しくすることだ。働くことは。仕事は愛である。これが一番当たり前の人間の道だ。人間は欲があるのが当たり前だ。愛だ。それが愛だ。愛を否定して生きても価値はない。欲の強い人間を恐れるのはそこに愛があるからだ。z氏が愛を求めるのは幼児体験とか色々あるだろう。愛は相互的なものだ。お互いに与え合うものだ。 私は本当に大切なことがわかっていなかった。判らない振りをしていた。でも本当はわかっている。宅間だって林だって本当はわかっている。わかっていなければあんな恐ろしいことができるはずがない。あんなにひどく傷つけることはできない。愛するものを奪われる苦しみがわかっているからあんなことをやったのだ。愛がいかに大切かわかる。そして愛の強さもわかる。私にはわからなくなっていた。愛から逃亡していた。うつ状態になったからか。z氏も何度も私に警告していた。他の職場ならとっくにクビだと。わかっていながら何もできなかった。愛から逃げていたからだ。これからは逃げない。きっと逃げない。愛を実現してみせる。愛という人間の本道に立ち返るのだ。本心を取り戻すのだ。愛ある人生を生きるのだ。薬なんか必要ない。 私は遺伝的におかしいわけではない。ふとしたきっかけで本道を見失っただけでまだ十分立ち直れる。若いとはいえないが、気付いたときがスタートだ。決して遅すぎることはない。臨終のその日でも回心すれば救われる。キリスト教も浄土真宗も同じことを言っている。人間誰でも道を踏み迷うことはある。散々迷ってきた。今が愛に立ち返るときだ。本道に本心に立ち返るときだ。人を愛したいだろう。人から愛されたいだろう。それは人間として当たり前の強い欲求だ。その欲求をあるがままに認めることが森田の教えだ。私は全く理解できなかったが、今は理解できる。 愛を知らないのはだめだ。知らない振りをするのはもっといけない。愛は求めてくる。それに恐れをなしてはいけない。愛の戦士、女を見よ。いくらでも求め、いくらでも与える。愛の無限の器だ。神が創ったものの中で最も美しい。価値のあるものだ。これを蔑むなんてとんでもない。愛は社会全体、命全体を支えている。最も強力なインフラだといってよい。愛こそ宗教であり、母胎であり、そこから生まれ、そこに帰っていく、名もなき偉大な何かだ。タオだ。私は愛のタオイストに生まれ変わったのだ。私は長い間、人生を踏み迷った。父との辛い別れ、人として許されない行いもしてきた。今こそ、ざんげして愛の教える正しい道に立ち返るのだ。慎重に用心深く愛の教えを乞うのだ。ダンテも道を踏み迷ったが、ベアトリーチェという愛の導き手に導かれて正道に立ち返ったのだ。愛を見失えば全てを失う。お金持ちなのに幸せでない人は愛を失っているのだろう。愛こそ真実だ。どこかよそに真実を求めてもえられない。愛の道に立ち返れば全てが見えてくる。今直面している問題も解決できるだろう。自分が愛を離れることを許してくれるものはない。愛に立ち返ること以外、生きる道はないだろう。愛とは厳しい面もある。子供は親の愛を離れて生きていくことはできない。だから親の愛を無限に受け入れ、与える。ところでこんなことは女であれば母であれば誰でも知っていることだ。女は愛の達人なのだ。到底私の及ぶところではないのだ。 愛は素晴らしい。加島氏のタオのお蔭だ。愛にたどり着いた。今は弱っているが、愛の力できっとよみがえるだろう。全ての生きとし生けるものは愛に支えられて生きている。教育パパの特集をやっていたがおかしいと思う。病んでいるとしか思えない。家庭は愛の領分で男の競争原理の出る幕ではない。昨日の不登校の子供を生み出す一因になっている。男には愛が理解できない。できないのだから口を出さないが良い。家庭では女が強くていいんじゃないのか。私は家庭で強くなろうとしすぎた。全てをコントロールしようとして、結局何もコントロールできなくなった。だが今こうして愛に立ち返ろうとしている。愛以外私を回心させるものはないとわかった。愛に帰ろう。 私は相当本道から離れてしまっているが希望がないわけではない。いくらでも改善点があることから言えばむしろ楽しみだといってよい。進歩する余地が大きいからだ。これ以上ないというくらい立派な人は実は大変だ。それを維持するだけで大変なのだ。 愛は義務を伴う。配偶者や子供を得れば養わないといけない。子供は親の期待にこたえて真面目に頑張らないといけない。愛の定めに背くものは私のように報いを受ける。でも遅すぎることはない。私もこれからは愛の定めに従う。愛は義務を伴う。 大きな気付きを得ることはそれはそれでしんどい。今までのパラダイムの転換を迫られる。でもこれは良い疲れだ。昨日まで疲れ果てていたので逆に本心に立ち返ることができた。森田のところに行ってもこんな状態ではだめだ。人としてだめだ。森田は宗教であって理屈ではない。愛を手がかりにというか愛によって本心に立ち返り、働けるようになるだろう。いきなり、180度違う方向とか違う自分とか無理をしないことだ。 ついに私もここまで追い込まれたが、追い込まれないとわからないのだ。愛の偉大な力に気付かなかったのだ。人が何をやっているかすらわからなかった。兄の家庭に行っても何かピンと来なかった。今は行かない方がよい。もっと回復してからの方がよい。愛の力により、本心に立ち返り、必死で働くのだ。きっとできる。愛の力を信じ、精一杯生きるのだ。愛を否定して生きることはできない。真面目に愛に生きよう。愛は裏切らない。家庭がないのは寂しいことだ。家庭を作りたい。散々見合いをしたが、しっくり来なかった。愛を知らないのだから当然だ。これから愛を学ぼう。愛の掟に従って生きよう。 兄や姉は私が理解できないことが理解で来ている。世間一般の人が理解できることが理解で来ている。私は実感としてわかっていない。愛を否定しては決して理解できない。愛の定めは厳しい。私は愛を乞う人だ。全ての人がそうだ。 加島さんに感謝しないといけない。やっぱり本は良い。人間はもっと良い。本の中には人間がいるからいいのだ。人間はやっぱりすごい。愛の力はすごい。 愛は確かに恐ろしい面はある。それは愛を裏切るから恐ろしいものに変わる。安珍と清姫の物語だ。女は悪くない。愛は悪くない。裏切る男が悪いのだ。阿部定とか恐いが、愛は強力なのだ。底知れないパワーがある。それを恐れてはいけない。愛は真実だ。愛は力だ。人を愛することは良いし、愛されることも良い。女は全てを熟知している。私はとうに忘れ果ててしまっている。これから愛の勉強だ。というより知っている。不完全で不十分かもしれないが、子供なら子供なりに大人なら大人なりに誰でも愛を知っている。ところがそれから逃げるから間違ったことをしてしまうのだ。愛は素晴らしい。愛こそ真実だ。誰でも知っていることだ。この大きな気付きが訪れたのはこんなにも疲れ果てていたからだろう。追い込まれていたからだろう。 今は疲れ果ててしかも気付きが大きすぎるから直ちには実行できないだろう。しかし徐々に体調を戻して愛の実践をして行こう。これ以外生きる道はない。愛こそ全てだ。普通の人はこんなことはわかっている。私は綱渡りのようにそれから逃げられると思っていたが、絶対逃げられないだろう。愛は全てだ。愛の定めは絶対だ。私は十分わかっているはずだ。愛を信じ、実行するのだ。
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