抗うつ剤を飲んだ。ptsdに効くとあったからだ。実際効いている気がする。アレルギーがあったので飲まなかったが、結局ptsdだったとすれば、応急的に飲むのは悪くない。この苦境を脱するためには多少のリスクはやむをえない。安定したら、トリプトファンと有酸素運動と呼吸法に切り替えよう。今急にあのキチガイが恐くなくなった。あんな奴は外に出すな。監禁しておけ。私はストレスがすぐにトラウマにまで発展しやすいのじゃないか。恐がりなのだ。悪循環になっている。恐がると余計にトラウマになりやすい。私はトラウマサバイバーだ。偉いと思う。良くここまでやってきた。今は抗うつ剤で乗り切ろう。仕方がない。 抗うつ剤の効き目はすごい。ものすごく元気が出てきた。躁状態にならないよう気をつけよう。私のトラウマや悩みの種になっている奴というのは本当に下らない犬のくそみたいな奴ばっかりだ。犬のくそを踏んでトラウマになる。そのパターンだ。犬のくそと知ってて踏んでしまうこの心理って何なんだろう。これからはこういうことがないようにしよう。かつ過去に踏んだのは犬のくそだということでトラウマにならないようにしよう。 室生寺に行ってきた。楽しかった。大野寺まで行こうと思ったが道に迷って室生寺に戻ってしまったので足も痛いし、雨も降りそうなので切り上げてバスで帰ってきた。正しい賢明な判断だ。抗うつ剤の効き目はすごい。本当にすごい。一日で気分が一変してしまった。これなしでやり過ごそうとしたこの数ヵ月は何だったのか。おばさんが嫌なんじゃなくておっさんが嫌なんじゃないかと思った。あのおばはんが嫌なのはおっさんみたいだからだろう。女性的なおばはんは抵抗が少ない。だとすると本当に嫌いなのはおっさんなんじゃないか。中学のとき、小六のときトラウマを受けたのは男の教師だった。男らしくなくてもいいだろう。本当にそう思う。そういう人間がいてもいいのだ。ナチスは同性愛者をガス室に送り込んだ。極端に言えばそうなる。私はトラウマサバイバーだ。その当時だけでなくそのトラウマは生きてじくじく血を流し、膿んで痛んでいる。それを生き抜かねばならない。本当に立派だと思う。素晴らしいと思う。天はきっと味方してくれる。こんなに頑張っているのだから。これからはまともな人間になろう。きっとなれる。悪い気持ちがすっと抜けた。hは良い奴だ。良い奴なのに何で恐がる。自分が悪いことを考えているからだ。でもこれからは違う。きっときちんとできる。世間の普通の人と同じようにできる。きっと優しくなれる。悪いことをしても絶対に許されない。私が長く休んでいるのは誰かを困らせようとか、自分だけ得をしようとかそういうことであってはならない。そんなことはありえない。z氏も不思議がっているだろう。素直に正直にやっていけば必ずうまく行く。私は女性的であっても問題ないと思う。恥ずかしくもない。仮に両性愛、同性愛であっても恥ずかしくはない。市会議員もいる。抗うつ剤を飲むと悪の虫が暴れ出す。リスパダールが必要になってくる。医者にまで攻撃的になる。おかしい。自分は絶対におかしい。でも根本から考え直したからきっと楽になる。悪の虫は考え方次第だ。悪い風に考えなければ良い。hは良い奴だ。仏のような奴だ。父親の生まれ変わりだ。でもそれだけに今会うのは辛い。悪いことはしない。偉そうにしない。会社に入ったとき、悪い見本がいた。私は良くない状態だが、きっと良くなる。 もう私は昨日の私ではない。心を入れ替えた。悪を完全に諦めた。私の悪を許してくれる境界例的な人を捜し求めてはいけない。そのつもりもない。正直に地道に生きる。 悪なんて柄じゃない。もうやめていいんだ。善良で正直で優しいのが本来の私の姿だ。やっぱり悪いことをしても通らない。正しい道に戻ろう。絶対可能だ。希望が見えてきた。私は自分が思っているより、悪くないし、善良でもない。もう悪いことはしない。自分が善良だと誤信して平気で悪いことをしない。どうしてこの年になってそんなことに気付かないのかわからない。今日を境に生まれ変わる。きっと生まれ変わる。 今図書館に行ってきたが、何か今までと変わったように思う。普通に会話でき、変な感じがしなかった。偉そうにしないこと、人の気持ちを傷つけないこと。突っ張らないこと。柔和であること。自分に厳しくしないこと。人にも自分にも優しくすること。さっきのおばちゃんにもすごく普通に優しくできた。素晴らしいことだ。当たり前のことが普通にできるようになるまでこれだけかかったということだ。良い日だ。今日はこんな日がずっと続けば良い。 馬鹿であれ、優しくあれ、もうこれ以上傷つかなくていいんだ。人にも自分にも優しくして良いんだ。強面とかやり手とか絶対私には似合わない。優しく柔和で女性的で穏やか。それで十分生きていける。愛情を求めてもいいのだ。女性を手本にしよう。偉そうにしない。感謝する。許す。迷惑をかけない。喧嘩しない。張り合わない。女性に優しくする。優しい気持ちになるとすごく楽になる。女性が優しく見えてくる。緊張したり、恐がったりするとそれが相手に伝染して気まずく不自然になる。悪い気持ちを持たない。実際持っていない。優しい気持ちになれた。限りなく優しい気持ちになれた。人間を産みはぐくむ優しい性。男を受け入れる優しい性。子供を守り育てる強い性。不平一つ言わない。本当に立派に見えてきた。優しいことが強いことだ。女性の目線で見ると色んなものが見えてくる。優しい。hも女性的なのだ。色々世話になった。とても感謝している。悪い気持ちは何もない。なくなった。すごく感謝している。有形無形の世話になった。だから裏切りたくない。傷付けたくない。今の状態では会わないほうが良い。優しいことはいいことだ。限りなく優しいことはいいことだ。過去にした悪いことを全て後悔し、反省し、悪いことをしたら、素直にごめんなさいといえるようになりたい。悪いことを押し通そうとしても絶対に通らない。悪いことをしたら反省しよう。悪いことをしようなんて考えまい。人を傷つけないことだけ考えよう。迷惑をかけたら謝ろう。優しい当たり前の気持ち。女性的でいいんだと初めて思った。女性的とは立派なことだ。男で女性的であることはとても都合のいいことだ。人に優しくできる。自分が強いと勘違いしたり、偉そうにしたりするのは止めよう。人に優しくしよう。今までにした悪いことを全て反省し、謝罪し、悔い改めよう。フッキーも坊さんも許そう。生きていることが地獄なのだ。あの人たちは。自分ではどうしようもないのだ。帰って近づくことが傷つけることになる。傷つけられる元になる。自分の悪を許してくれる誰かを探している。誰がみすみす傷つけられることを受け入れるだろうか。本当に両親には申し訳なく思っている。本当に謝罪したい。hにもkにも迷惑をかけて本当に申し訳なく思っている。フッキーみたいに私は自分がコントロールできないかわいそうな奴なんだ。人を傷つけても何とも思わない悪い奴だったのだ。これからは違う。人を傷つけたり、迷惑をかけたら、申し訳なく思う。反省し、謝罪する。威張ったり、馬鹿にしたりしない。自分ではばれてないつもりでも悪い心、汚い心は見えている。誰からも見えている。さあ、心を入れ替えよう。必ずできる。心の大掃除だ。悪いことをこだわり押し通そうとしても絶対に世の中通らない。優しい、愛に満ちた謙虚な人間でいいのだ。どうして悪くならないといけないのか。悪くなったら強くなるのか。ならない。絶対にならない。ヤクザが強いだろうか。一番弱いと思う。優しい女性が一番強いのだ。優しいこと、弱いことは恥ずかしいことではない。素晴らしいことだ。肩の力を抜こう。突っ張るのは止めよう。素直になろう。人に優しくしよう。一所懸命働こう。一所懸命働く心優しい、正しい人間を誰がいじめるだろうか。強くなろう、偉くなろうと思わなくていい。弱者で良い。優しいもので良い。謙虚であれば良い。人の先に立たない。馬鹿にする奴はおかしい。正しい気持ち、さわやかな優しい気持ちで生きていればきっと神は生かしてくださる。今まで善良であるとは弱いこと、馬鹿なことと信じていた。特に大阪のような大都会ではそうだ。私は悪い。悪いことをするのは自分だけは許されていると思っている。故意に悪いことをする。心の中は荒れ放題、荒みきっている。もう一度z氏との絆を思い出そう。忘れかけていた善への絆を取り戻そう。悪いことをして、人を傷つけて自分を傷つけて何とも思わないばかりか、得意になり、自分だけは許されていると勘違いし、怒られると逆切れする。悪いことをされて黙っている奴がどこにいるのか。それは怒るだろう。中学のとき、教師に虐待されてptsdになった。それは事実だろう。でもその前に悪いことをして怒られているのに平然として自分だけは許されると考える態度はやっぱりおかしいのだ。小六のときも同じ経験をした。学級委員で人の模範とならなければいけないのに、悪い友達と付き合って、悪いことをしてまたptsdになって、それを教師に咎められて、反抗する。自分だけは許されるべきだと思い上がる。そんなことは絶対に通らない。この年になって漸くそれがわかった。でも遅すぎるということはない。安全で正しく有益な人間以外社会人とは認められない。hもkもz氏も当たり前のことを言っているだけだ。当たり前のことを言われて切れるのも中学の頃から一貫して変わっていない。悪ぶって傷ついて社会からますます孤立する。私は自分を責めているのではない。だからさわやかな気持ちだ。目の前に広い道が現れたようだ。悪いことをして咎められて切れてptsdになる。そんな馬鹿はいない。もういい加減に止めよう。死んでしまう。幾度も社会的死を宣告された。今度立ち直れなかったら最後だ。でもやっと私の心のメカニズムがクリアーに理解できたので、きっと真人間に戻れる。人を傷つけて喜ぶ最低な人間に成り下がっていた。悔い改めよう。人に自分に優しくしよう。三人ともptsdだ。誰でも多少はそういうことはある。大げさに苦しんでしまうのは何だろう。小説の悪影響か。小説のせいにするな。ぼけたお蔭で真人間に戻ろうと思った。自分は明らかにおかしいこと、それは今なら直せると確信した。直そうとすればいつでも直せると確信した。社会への再参加、それが必要だ。当たり前の常識、芸術なんか全く関係ない。それを取り戻したい。取り戻せる。もう取り戻したといえるかもしれない。取り戻そうと思った時点で九割方取り戻せたのじゃないか。苦しんでいる人間は私だけじゃない。あの三人だってきっと傷口から血を流しながら生きているかもしれないのだ。生きるとはそういうことの連続じゃないのか。面白おかしいだけの人生なんかが存在するなんて考えるのは、狂人か放蕩者かヤクザだ。極道者だ。悪いことを押し通すことは絶対にできない。自分だけ悪いことが許されているなんて信じることはばかげている。今まで何回首になったんだ。何で反省もせずに悪いことを繰り返すのか。悪いことを繰り返すような人間だからあんな職場に入れられた。あんな職場でも与えてくれただけで感謝だ。それをどうして不平を言うことができるのか。上のほうもわかっている。トラブルを繰り返すからあそこに入れられた。そこでトラブルを起こしても他には行きようがない。トラブルメーカーは誰も引き受け手はない。人に迷惑をかけたら申し訳ないと思う。それが当たり前だ。きっとhやkをいっぱい傷つけたのだ。そして反省がないから危険極まりない。また何度でも繰り返す。間違ったことを良いことと勘違いしている。完全におかしい。完全におかしいということにやっと気付いた。嬉しい。気付かなかったら直せない。でも気付いたら直せる。きっと直せる。困っているんじゃない。学んでいるんだという一人さんの言葉は全く正しい。学ぶチャンスを神から会社から与えられたのだ。そして私はいろいろな人のお蔭で今ようやく気付くことができた。カウンセリングは自分の問題を自分で解決できるようになるまでサポートすることだ。引きこもってしまったら、解決はできない。恐怖症には回避はだめで暴露が正しいという。犬が恐ければ犬をずっと見ること。今や女もおばさんも全くといっていいほど恐くはない。今日の写真展はちょっとパニクっていたので恐かったけど通常の状態であれば全く問題はない。z氏も私の問題の多い性格を全てわかっている。ptsdは結果だ。その原因を作っているのは悪を悪とも思わない私の反社会性だ。自分をこのままで受け入れてくれるところなどない。簡単なことだ。正直で真面目で優しくなればいいのだ。勤勉になればいいのだ。悪いことを悪いことと認識できることだ。そして対処できることだ。きっとできる。ここまでどん底に堕ちてしまったが、きっと回復できる。z氏がもう一度信頼できそうだ。自分を助けるものだけが助かるのだ。悪いことをやっておいてなぜ平然としていられるのか。宅間と基本的には同じじゃないか。おごりも甚だしい。優しくするのは楽しいと思った。女は優しいから長生きできるのだ。 私は自分が働いた悪事、今自分が身につけてしまった悪い性格のせいで報いを受けている。自分のした悪いことは全て自分の心と体に刻み込まれ、全ての報いを受けている。人は悪いことをして、報いを受けないことはない。自分だけ逃れられることはない。悪いことに固執して楽しいことが何かあったろうか。放蕩、悪事、人を傷つけること、何かいいことが私に起こったろうか。本当に悲惨な筆舌に尽くしがたい報いを受けた。そして今も受けつつある。今こそ悔い改め、善悪の区別をし、悪を厳しく排除することを決意する。絶対の決意だ。どんなに困難であろうとも、この悪い癖のようなもの魂に刻み込まれた罪の痕跡と今生きている悪の芽を摘む。真面目で正直で一所懸命で勤勉になる。ptsdになった。でも女はそんな仕打ちを受けようとも絶対にへこたれない。強くないといけないだろうか。そんなことはない。弱くても生きていける。善良でさえあれば生きていける。わざと悪いことをする。咎められても反省しない。悪いことをしてもいいと思っている。絶対に正すべき間違いだ。法律なんか勉強しても意馬心猿だ。自分が悪いことの屁理屈をひねり出すことを学んだに過ぎない。私はそんなに悪い人間ではないと思っていた。でもやっぱり信じられないくらい邪悪だ。誰でもそういう面はある。でもちゃんとセーブできる自制心を持っている。悪いことをして罰せられないなどとは思っていない。もちろん日本人には特有の甘えがあることはあるが、大半の人間は正直で勤勉だ。そうでなければ社会人として認められない。どうしてこんな風になったのか。責めているのではない。悪いことは反省し、改めよう。人を裏切ったり傷つけたりするのは止そう。z氏とは長い付き合いだ。でもさじを投げられた。抗うつ剤のせいではない。自分が培ってきた性格には責任がある。薬のせいにすること自体甘えだ。z氏は甘えを許してくれると思ったのだ。私は必ずこの奇怪な性格を改め、社会に再び帰れる日が来ると信じている。自分の悪い点を直さないとだめだ。はっきりとわかったのだから、自分で直せる。きっと直せる。楽ではないかもしれないが、きっと直せる。私はフッキーや加藤氏を刺激する何かを発散していた。悪を許容し、抱擁できる力があるかのような。z氏が私の悪を許し、癒してくれるのではないかと思ったのと同じように。z氏もきっと傷つけたのだ。途中からストーカーか境界例みたいになってしがみついたことを覚えている。そのときかすかに無意識にでも傷つけてもいいような気がしたかもしれない。両親や兄、姉を傷つけたように傷つけていいと思ったとしたら大きな罪をまた犯したことになる。信頼を裏切って悪事を働いたことになる。なぜ悪事を働くのか。そこが一番大きな問題だ。ptsdは抗うつ剤がなぜか効果がある。有酸素運動や日に当たることもいいだろう。きっと私はこの大きな問題を直せるだろう。愛と勇気と優しさだ。働くことは優しさだ。いくら優しくてもいいのだ。hは優しいのだ。kもそうだろう。いくらでも働くということはとても優しいのだ。優しくなかったら、意味がない。自分の権利ばかり主張し、人に優しくできない。人から孤立し、責任を果たせない。生まれ変わろう。生まれ変わるチャンスだ。いよいよ生まれ変わるのだ。フッキーはともかく加藤さんは優しい。でもあのひとのptsdが私に同じものを引き起こしてしまった。自分を責めるわけではない、業のようなものだろう。慎重さを欠いた。悪に勤しむ自分の性格が出てしまった。優しい、真人間の、正直で働き者の人間に戻ろう。 簡単なことではないだろう。優しさ、愛、感謝に戻るしかない。z氏も精一杯やってくれた。私ももう一度やり直したい。パワハラとかモラハラの影響を脱して、通常の生活ができるようになりたい。悪は通用しない。人を馬鹿にしても自分に戻ってくるだけだ。愛と感謝と優しさだ。今日、図書館のおばちゃんとはうまく行った。誰とでもうまく行くようにしよう。何も考えない。馬鹿であることから出発したらどうか。恐がることは何もない。恐がって警戒して、攻撃的になることに何も意味はない。人を信頼し、心を開くことだ。銀行に入ったときには既におかしかった。大学時代もおかしかった。高校も中学もおかしかった。ptsdだ。自分が招いたものだ。必ず直せる。 優しく愛に満ち、心を許せば誰でも優しくしてくれる。写真展に行ったときは都会を歩いていたので緊張して警戒心でいっぱいになってしまった。一度ではうまく行かない。一歩一歩学んでいこう。恐れることは何もないと、愛と感謝と優しさに満ちた関係は絶対に可能だ。人は優しい。悪い人はいない。それをいいことに人を傷つけたり、苦しめたりしてはいけない。優しい男を誰が軽蔑するだろう。自分が邪悪すぎるからそんなことを考える。大切なz氏を傷つけてしまった。それは薬のせいなどではなく自分の意志でコントロールできる。どうして人を信じられなくなったのか。人を信じよう。人を信じない人間を誰も信じてくれない。いい人間を演じきればそれはいい人間ということになる。一瞬でもそれを裏切る行為をすればすなわち信用できない罪人ということになる。それは当たり前だ。もう一度やり直そう。頑張ってみよう。鬼畜みたいなことは止めよう。そういうやつはいる。でも私の柄じゃない。悪いことをするのは悪い奴に任せればいい。私は人を信じ、優しく正直に生きて行きたい。 この頭のボケは治るんだろうか。昨日も狐につままれたみたいに同じ道を歩いてしまったし、今日は赤信号を渡っていた。いつか事故にあうのではないか。ボーっとしてしまう。注意力散漫だ。気をつけよう。慎重の上にも慎重に行こう。無理は禁物。特に心はぼろぼろなので本当に注意した方が良い。勢いで何かできると思ったら大間違いだ。でもぼけたから道が開けた。抗うつ剤を飲むという選択は勇気ある選択と思う。自分が悪いということに気付いた。人に迷惑をかけたら申し訳ないなと思う。それでいいんじゃないか。申し訳ないなと思っていればそれ以上何もできない。何が悪いという居直った態度は悪い癖でそれこそ直さないといけない。素直になろう。悪いと気付いたら即改めよう。
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