人間が恐い。女だけじゃない。女はすぐに攻撃してくる。昨日の写真展の女もそうだった。元々攻撃性の高い女もいる。ptsd的なモラハラ的なスポーツ、アート系に多い。だから私はどちらも深入りしなかった。b校ではじめてその先例を受けた。二度と会いたくない。相当疲れている。z氏自体がストレスなんだろうか。体の力を抜いてリラックスする。突っ張らない。どこかで突っ張っているから喧嘩を売ってくるんじゃないか。ボードレールは娼婦におぼれ、梅毒で死んだ。色んな人生がある。それもいいじゃないか。やりたいことをやって死んだ。大学に入る前赤頭巾ちゃん気をつけてを読んでおかしくなった。がむしゃらに働くことが馬鹿らしくなった。役に立たないことをやりたくなった。大学を出る頃には全く役に立たない人間になっていた。 ptsdから回復し、社会に貢献できる人間になる。それが目標だ。あの小説はptsdにうずくまる回避、引きこもりのバイブルだ。ライ麦畑で捕まえてのパクリだ。ぱくりと言う時点で人としておかしい。破綻している。少なくとも精神的に病んでいる。その後発表されたエッセーはかなり病んでいた。統合失調症的な趣がある。何で攻撃してくるのかわからない。あの職場でも何でhやkが私をターゲットにしてくるのかわからない。ptsdでおばはんがいるだけで体がしびれて動かなくなる。恐怖で凍りつく。hみたいなやつ、しつこい奴がいるだけで恐怖で動けなくなる。あの職場は離れたい。 自分はおかしい。間違ったこと悪いことを信じて押し通すことが良くない。改めよう。反抗的なことは良くあることだ。でも大概の大人は間違いに気付き、真っ当な道に戻る。どうして私は戻れないのか。両親や兄弟に謝ろう。私のめちゃくちゃな性格が家庭をめちゃくちゃにした。家は燃えてもうない。私は憑き物が落ちたように悪いことに気付いた。本当に今まで気付かなかった。卑屈になる必要はないが改悛してやり直すべきだろう。私は世の中が人間の心が全く見えていない。 反省はカウンセリングとは関係ないようであるような、多分カウンセリングに助けられて自分の力で自分を変えようという試みで良い事だろう。素晴らしいことだ。hがどうしたとかkがどうしたというのは全く小さなどうでも良いことだ。こんな大きな回心を前にすれば、小さすぎて意味を成さない。大きく変えていこう。女がどうしたとか、男がどうしたとか全く無意味だ。優しい人間でいいんじゃないか。偉そうにしたり、厳しいのは柄じゃない。強く厳しくなろうとすれば悪くなってしまう。私はそういう癖がある。中学の頃からおかしかった。高校の頃ますますおかしくなった。大学でついに発病した。就職してから病気をして荒れて手が付けられなくなった。職業的倫理を身につけるべきとき、修練の時を放蕩と無頼に過ごした。それを反省しろといっている。反省したほうが良い。そうでないとやり直せないということ。親兄弟に謝罪しろということだ。謝罪すれば許してくれるだろう。でも本当に回心しなければ意味がない。悪いことをしても得することはない。自分も傷つくし、人も傷つける。どうしてそれで平気なのかということだ。 父親が悪いことを全くしなかったかというと飲んだくれて母親を苦しめていたようだし、モラハラ的なこともあったようだ。共依存的でもあった。母親は立派だ。でも私のしたことは罪だ。大きな罪だ。する必要のない罪だ。どうしてそんなことをしたのかもわからない。罪の大きさにptsdになり、仕事が手に付かない。普通の社会生活を営むことが困難に思われる。それを知らないで攻撃されると耐えられない。私の犯した罪の大きさ。それは誰にもわからない。でもそれを何とか整理して働けるようにならないといけない。 聖なる時間であってもいいんじゃないか。この時間が俗っぽいものであることは私の反省と成長を促すものではない。聖なるものであれば反省は自然な心地よい形で行われるものだろう。ゆったりとリラックスした気分で気付きと成長はスムーズに行われるだろう。傷つける心配はないだろう。この日記が自傷的行動でないことを望む。 回心し、成長したいと思うことは素晴らしい聖なる決断だ。誰にも邪魔されることはない。聖なる気持ちで生きていこう。そうでなければ常に間違ってしまう。常に間違ったことをしてしまう人もいる。私のようなものだ。自分が釈迦か孔子か老子になった気持ちで大局的に考えてみないだろうか。大きな回心をするというのであれば是非そうすべきだ。hがどうとかkがどうとかフッキーがどうとか小さすぎることにこだわっていてはいけない。三年ね太郎になろう。三年寝太郎は何かのきっかけで引きこもりになったが、三年後に村のために大きな仕事をした。男はそういうものだ。無駄に寝ていたら意味ない。抗うつ剤を飲みながら、自己実現、回心、改悛、罪のあがない、夢の実現についてゆっくり聖なる気持ちで考えてみないか。老子になったような気持ちで、この身はもう天に召されたものだと思って大きな気持ちで考えてみないか。聖なる気持ちになって見ないか。私は選ばれてあると信じてみないか。夢みたいなことがもっとも現実的だ。政治家の語っていることは夢みたいだ。私のちっぽけなキチガイの境界例に悩まされていますというような悩みなんて小さすぎる。大きな夢について聖なる気持ちで考えれば、小さな意味不明な悩みは吹き飛ぶ。美しく生きよう。ぼろは着てても心の錦というじゃないか。心が腐ってしまったらいくらいいものを着ていてもだめだ。 今日はリービ英雄の講演会に行ってきた。シンポ風のものもあったが付け足しみたいでつまらなかった。あの片倉とも子というのは失礼な女だなと思った。モラハラ的な態度でリービ氏に喧嘩を売っていた。あれはキャラクターなんだろう。日文研の所長というのはああいう姉御肌というか喧嘩上手なところが買われたのだろう。でも感じ悪かった。大したこと言わないし。リービ氏は才能溢れる人でパワフルだった。変わり者ではあるが。面白い人だ。困ったことは起こらない。困ったことが起こるんじゃないかと心配する。嫌なことが起こったとくよくよする。いずれも馬鹿な話だ。そんなことは起こさせない。起こらない。それで終わりだ。そう悟った旅であった。 聖なる気持ち、大きな気持ちで生きると世界が変わって見える。障害者の人にも適切に親切にできる。すごく感動した。自分にもできるんだと思って。色々嫌な人にも会ったが結局ああいう人は自分がコントロールできないのだ。あわれなひとびとだ。ああいう人々がどうしてああなのかなんて考える必要ないじゃないか。 私は境界例なんかじゃない。おかしな境界例の人々を相手にしないことにした。境界例の人を何とか理解しようとしたが、何でそんな必要がある。全くない。下流階層の人を何で理解しないといけないんだ。
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