昨日は楽しかった。でも飲みすぎた。何か色んなことを考える。z氏のこと。あれは社会が使わしたスパイで秘密警察で、私に喧嘩を売ってくる境界例で、私を洗脳と人格改造であるegに送り込んだ張本人であると。会社から公認もされていないものとなんで会うのか。危険すぎないか。何でegなんかでモルモットにされないといけないのか。すんだことだ。私は大人になった。色々あったろうが、私は大人になったのだ。聖なる時間、聖なる自分を生きるのだ。私はどうしても社会の外に押し出されるのだ。ならば聖なる自分を生きることで社会に貢献しよう。障害者の人に親切にするとか。大局的に考えよう。egで人格改造、洗脳を受けたが、何か変わったろうか。人を変えることができるとは上に立つ人間だけができることだ。あんなz氏なんてましてやあのカウンセラーなんか私の上にはたっていやしない。ずっと下のほうにいうる。私はそういうややこしいものと付き合う癖がある。だから聖なる時間を生きるのだ。選ばれし者として大局的に生きるのだ。罪は罪として素直に認めて、改悛して悔い改めて出直すのだ。あんな境界例みたいな奴にとやかく言われることはないのだ。とやかく言われる筋合いはないのだ。自分で治すのだ。人から言われて直すことはできないし、自分で直そうと思わないと直らないのだ。だから聖なる自分、大局的に生きるということが必要になってくるのだ。 これまで全てうまく行くと感じたことはなかった。抗うつ剤の効果かもしれないがいいではないか。どんな優れたカウンセラーでもどんな良い薬でも自分が代わろう、良くなろうと思わなければ何の意味も効果もない。おかしな教師が暴力を使って変えようとしてもそのときは変わろうと思わなかった。今はおかしいと思う。当時の自分はおかしいと思う。でもいったん車輪が回り始めると止まらない。私が変な人間であることは誰の目にも明らかだ。悪いことをすると救われるのか。そんなことがあるわけがない。z氏も会社の命令に背くような男だ。付き合うべきではない。付き合わないで良い方法は自分で変わることだ。聖なる自分を生きることだ。大局的に生きることだ。もう十分に生きた。大人になろう。子供を卒業して大人になろう。聖なる時間を生きよう。大きな目で見よう。それができるときが来た。自分で自分を変えることは全てを変えることだ。世界の全てを変えることだ。抗うつ剤がその役に立つのであれば使ってもいい。自分を変えるという目標ができた。大変なエネルギーが要るが私ならできる。優しくて優れた能力のある私ならできる。 母や姉は私のことが良くわかっているのだ。誰でもおかしいと感じるのだ。誰でも私のおかしな点は感じられるのだ。病気だからと逃げ込まずに自分の力で変えてみよう。簡単なことだ。一人さんや稲盛さんの本でも呼んで自己変革、成長に向かうのだ。egなど単なるきっかけに過ぎない。本当の変革はこれからだ。 悪いことをして得することがあったろうか。何もない。いじめられるだけだ。私が転校したとき、いじめに遭ったのは悪いことをするやつと見られたからだ。その頃既におかしなものと付き合っておかしくなりかけていた。そうなる運命だったのか。わからない。でももう変えると決めた。きっと変えられる。人に言われると腹が立つことでも自分が変えると決めたら全く腹が立たない。聖なる時間を過ごそう。改悛して大人になろう。聖なる自分を生きよう。一人さんも稲盛さんも自分を変えていける人だ。それが偉大なのだ。元は普通の人だったのだ。松下幸之助でもそうだ。普通の人が自分を変えていった結果、偉大な人になったのだ。自分を変えるのは気持ちがいいぞ。どんどん世界が変わる。世界を変革したかったら、自分を変えることだ。抗うつ剤でも何でも使って自分を変えることだ。 聖なる時間とはなんだろうか。マザーテレサのような時間だ。緒方貞子のような時間だ。弱者を思いやること、困っている人を助けること。神であればするだろうと思うようなことをすることだ。魂を高いレベルにおくことだ。過去の罪を消し、自分を変え、価値を生み出し、成長し、大人になるためにはそれしかない。心を閉ざし、悪や無益なことに耽るのは良くない。愛と平和のために生きるのだ。悪はもう知り尽くした。これ以上新しい発見などない。悪といえば核兵器ほどの悪はない。アウシュビッツでも南京虐殺でも同じだ。人間はいくらでも悪いことを考えつくし、いくらでも悪いことができる。だが、それは罪を生むだけだ。過去の罪を消すどころか新しい罪を生み、堕落させ、醜く変えてしまう。itは善だろうか。それ自体は中立だ。でも悪いことに使ってはいけない。新しい罪を生むことに使ってはいけない。hなんかに説教されるのは金輪際嫌だろう。自分で自分を変えていくのだ。あいつから離れて自分で自分を変えるのだ。 私はptsdでおかしくなっている。妄想とか出ている。でも救う道を見つけた。聖なる時間を生きること。大局的に生きること。これしか自分を目覚めさせ、変えていく道はない。hに言われてカッとするのは大局的ではないからだ。もう私は大人で善悪の区別はつくのだ。過去にありとあらゆる罪を犯したこともわかるのだ。そして自分を変え、罪を消していくことが必要なこともわかる。北原や課長が私を問題視するのもわかる。だから時間がほしい。ptsdである私には時間がほしい。聖なる時間を生き、大局的に生きるのだ。隅っこで臆病者のように震えているのではなく、聖なる時間を生きるのだ。あれこれとやかく言われないようにするのだ。 抗うつ剤を飲むことはきっかけに過ぎない。自分の脳が活性化し、ptsdの呪縛から解かれ、正しい判断ができるようになる。聖なる時間を生きることが可能になってくる。大局的に生きることが可能になってくる。卑屈な考えじゃなくなってくる。 悪い癖はなかなか抜けない。私が今まで散々悪いことをしてきたことも明らかだ。でも一人さんによると過去は変えられるという。何となくわかる気がする。過去をどう思うかによって過去の意味は変わってくる。過去の見方を変えるということは自分を変えるということだ。自分は変わらないと思う人は過去は変わらない。自分は変われると思う人には過去は変えられる。そういう意味だ。一人さんや稲盛さんは自分で自分を変えていけたので過去を変えることができ阿。稲盛さんなんかは落第坊主で就職口がなかった人なんだ。地方出身者でしかも京都。すごい針の穴のようなところからビッグになった。ビッグになることは大局的になることだ。聖人になることだ魂力を上げることだ。すごく簡単なことだ。聖人になることで過去はどんどん変えていけるし、過去の罪も消せる。善行を積むことで自分が清められ、変わって行ける。悪の上に悪を重ねていけば必ず堕落して、過去の罪はますます深くなる。罪を犯すのは仕方がない。それも幼い頃だけだ。子供は罪を知らないから生き物を殺したり、残酷なことをする。でも大人になって罪を知るようになれば悪いことはしなくなる。成人するとはそういうことだ。私は今からでも遅くないから成人するのだ。聖人になるのだ。hやkのやっていることはモラハラだ。母や姉は兄は私にモラハラした。なぜそうされるのかわからなかったが、今はわかる。今でも私は職場で、店で店員に、電車で乗客にモラハラされる。でも私は聖人になろうと思う。大局的に常に見ようと思う。そうすればモラハラも気にならない。自分を変えていくのだからモラハラもされなくなるだろう。 小さい頃から悪いことをしていた。だからすごく兄や姉は私を嫌がり、モラハラした。悪はきっと報われない。私のせいで彼らは悪くなったかもしれない。そういうことまで考える。その子供たちにまで累が及んでいるのではと思う。私はぐれてしまった。ヤンキーになってしまった。でもいい年なんだから悔い改めよう。悔い改めれば楽になる。でも少なくともあの職場は変えてほしい。悔い改めるきっかけが必要だ。私もこの職場に来たばかりの頃は悔い改めて頑張っていた。でもだんだん地金が出てきた。少なくともモラハラ状況が進んでいる以上、避難したほうが良い。朝カルでもモラハラに遭う。どう付き合って良いかわからない。正直言って嫌いだ。兄弟が悪かったら逃げられないのだからきっと嫌だろう。不気味に思っているだろう。回心できないままの私を見ることは不気味だろう。兄や姉に罪はない。兄がリストラされたのは私のせいじゃないかと思う。家が火事になったのも私のせいだと思う。でも逆に全部自分のせいだと思えば気が楽だ。自分が変わればいいのだ。自分が変わろうというはっきりした動機になる。裕ちゃんがいじめに遭ったのは私のせいじゃないかと思う。私はやっぱり普通じゃない。まともな人間とは違う。何かが違う。でもそういうやつは聖人になることで救われるし、人や周りを救うことができる。回心したといえるのはいつだろう。どんな状況になったときだろう。多分、hにうるさく言われても腹が立たなくなったときだろう。理不尽に感じなくなったときだろう。私のような人間は周りが見えない。自分が見えない。悪いことをやっているという自覚がない。今こうして苦しむことではっきりわかった。何かが根本的におかしい。小手先の修正ではなく根本的に変えたほうが早いと。根本的におかしいのなら、根本的に変えたほうが早い。兄は私に本当のことを言おうとしない。大学の頃からだ。私がモラハラに走ってしまったからだろう。兄は悪くなった。そして私に決して心を開かなくなった。私は弱いから優しいから悪いことをしてしまう。でも今は優しいことは強いことだから、悪いことは決してしない。過去に犯した罪は消せない。でもこうして悔恨し、改悛し、生まれ変わる決心をしたことで過去の罪は生きてくる。そのときに罪は消えるのだ。仏陀という人も相当な人だったと思う。悪というのではないが、結果として両親や妻子を苦しめた。家族を捨てるということは大変なことだ。でももう心に悪を飼い、罪を知ってしまった彼にはそういうことしかできなかった。罪を消すためにも生きなくてはいけない。死んだら罪は消せない。自力では消せない。この世で罪を洗い清め、あの世に行かないと浮かばれない。人を傷つけるので友達もいない。人を傷つける人たちが集まるサークルに行っても傷つくだけだ。フッキー加藤でよくわかった。能力があるとか偉いということは聖人であることに及ばない。私のような罪深い人間も聖人になれるか。悪人こそチャンスがある。悪人正機説。悪人は罪の何たるかを知り抜いている。業の深さを知り抜いている。悪人は人を傷つけることなしには生きていけない。悪いことを平然と行う。罪の深さを知り、悔い改め、聖人になることだ。決して高望みではない。普通の人こそが聖人だと思う。ちょっと変わった人が聖人なのではない。過去の罪を全て認めることは案外楽な気持ちの良いことだ。きっと変わって行けるという気がする。確信する。私は悔い改めることにした。私は根は善良だ。私の物語は終わっていない。ドラマはこれからだ。b校で直ってないんじゃないかとか、ひどく傷つけられた。人を傷つける人間は同じように傷つけられる。私が一番傷ついている。兄や母や姉が傷ついていることでしかも自分が原因かもしれないことで大変傷ついている。大きな仕事をすることはない。聖人になることは普通の人になることと同義だから、そんなに難しいことであるはずがない。どんなときでも聖なる態度で、大局的に生きるのだ。昨日、偶然にも体の不自由な人が現れたのは神が遣わされたのか。私は生まれ変わった。生まれ変われる。義人となることは自己犠牲ではない。キリストのように磔にならなければならないというものではない。もちろん人を磔にすることでもない。聖人になることは簡単なことだ。一冊の本を読むことだ。簡単な本を読むことだ。私は良い大学を出た人と同じくらい頭が良いはずなのに、交通が悪いために役に立たない。交通を良くするには義人になることだ。聖人になることだ。成人になることが、過去の罪を洗い清め、自分を変えることに他ならない。過去の自分は今ここにはいないのだから。機械のようにいじくって修理することはできない。なぜ交通が悪いのか。悪人だからだ。義人であれば、交通が悪いわけがない。兄は私に本当のことを決して言わない。私に連絡さえしない。全く信用していない。きっと深く兄を傷つけた。謝りたい。優しい兄を傷つけてしまった。今までどれほど多くの人間を傷つけてしまっただろう。悪人の特徴は嘘をつくことだ。孔子や仏陀が人類の歴史の極早いときに既に仁や徳を解いた。愛を解いた。慈悲を説いた。当たり前のことなのに、戦によってそれが守られない。愛と平和を説く義人になろう。三年寝太郎になろう。 hやkが恐いのは私が義人ではないからだろう。私にモラハラをしつこくしてくるのも私が義人でないからだろう。人を変えることはできない。今は道を歩いているだけで不審がられる。誰が見てもおかしいのだ。この間は取締役に暴力を振るわれそうになった。悪人は交通が悪い。悪いことばかり考えているうちに人と会話することもできなくなってしまった。 悪いといっても精神に以上をきたしたと考えられるから、責めることはできない。なぜ私だけがこんなことになるのか。小さい頃に悪い奴と付き合ったらそうなるのか。そうなったら元には戻らないのか。そうではない。聖人になろうと努力することで救われる。自分を変えることに他ならない。自分を変えるとは考えや行いを変えることだ。それで十分であって、過去に遡って人格改造をするとかそういう悪魔的なことではありえない。新たに自分を作っていくことが変えていくことだ。聖人になること。大局的にみること。 芸術は悪だろうか。善悪の区別はない。役に立つとか立たないということはない。無用の用。文学は実学といった人がいるがそうかもしれない。人間のやることで役に立たないことはないだろう。私がここに書いていることも誰かの役に立っているかもしれない。中学や高校の頃は既に精神に変調をきたしていた。教師の体罰がptsdになるくらいに病んではいた。そのことに誰も気づいてはくれなかった。ずいぶん前から外界との疎通性が悪い。悪いことばかり考えてしまう。人の考えていることがわからない。統合失調症気味だ。でも人格の統合性は大学の一時期を除いて完全に崩壊したことはない。でも今はその危機にある。聖人になることでその危機を回避できる。聖人とは普通の人のことに他ならない。普通に生き、働き、結婚して子供を作る人のことに他ならない。私はずいぶん隔たってしまった。兄は悪くなったとしても、それだけの仕事ができたのだ。父もそうだ。私はできない。これを説明しようとしても誰にも理解されない。わがままとかなまけといわれるだろう。hもkも結婚して子供がいる。普通の人だ。普通の人は私を攻撃してくるのだ。恐いのだ。悪人に見えるのだ。確かに悪人だ。私は怠け者で自堕落で馬鹿者だ。嘘つきだし、何を考えているのかわからない。人格障害を発症したかもしれない。でも攻撃されるのはかなわない。離れないといけない。中学のとき教師から攻撃されて、逃げられなくてptsdを発症した。 聖人になることだ。それで救われる。決して自己の快楽を追求することではない。昨日の水谷の話には泣いた。親に捨てられて、街角で体を売っていた娘が母親と住めることになって、働きすぎて、薬でぼろぼろになっていた体が痛んで、足を切断して、明日から済めるという前の日に不安から薬を飲みすぎて死んでしまった。優しいからそういう風になるのか。女や子供は本当にかわいそうだ。文学のやってきたことはなんだろう。人を豊かな気持ちにさせる。悪いことではない。悪は誰の心にも住んでいる。義人になろう。聖人になろう。そのことで人との疎通性がよくなり、救われる。 義人は悪人を攻撃する。仕方がないことだ。平気で人を傷つけるからだ。私のやっていることは盗みだ。まともに働いたことがあるか。そのことだけでも大きな気付きだろう。義人になればそんなことは簡単にわかる。細かいことを考えずに大局的なことを考えれば簡単にわかる。私は罪ばかり犯してきた。悪が私に取り付いて止まらなくなった。今からは違う。罪びとということを認め、改悛し、真面目に働く。人と仲良くする。簡単なことだ。組織に従い、上の言うことを効く。当たり前のことだ。アート系の人は自由だから悪いこともする。アートは悪を許すのだ。サドやバタイユみたいなものだ。馬鹿で境界例気味の私はふらふらと引き寄せられてしまった。本当に馬鹿だ。それでもアートの世界に逃げ込めば、生きていけたかもしれない。でも私がいるところは堅気の人間の住むところだ。悪が通用するわけがない。義人になることだ。聖人に。大局的に判断することだ。 困ったことは起こらない。例えばモラハラされたりとか、そういうことは二度と起こらない。義人になることにしたからだ。 細かいことは気にしない。悪事は細かいことに宿る。モラハラというのも細かいことを気にするからだ。 やっぱり真面目になろう。おかしい。前の職場を首になったのも危険人物とわかったからだ。いい加減に気付けよ。自分がおかしくなっていることに。何で良い人間だ何て思えるんだ。おかしいところを直さない限り、やっていけない。 悪いことを繰り返すのは自傷行為に他ならない。なぜそんなことをするかというとptsdになっているからだ。ptsdになった人はリストカットなどの自傷行為を繰り返す。なぜptsdになったかというと自分の悪事のせいだ。悪人と付き合ったために恐い体験をさせられた。いじめの手伝いをさせられた。きれいな心の持ち主だったのに。こんなことになった。権力やお金を手に入れても幸せにはなれない。本当の幸せとはありふれた平凡な情の通い合いにある。家族の温かみの中にある。どうして平凡な幸せを求めないのか。簡単なことだ。 悪いことをして処罰されて、傷つけられてptsdになる。その繰り返しだった。最愛の父親を死に追いやったことで最大のptsdになった。なぜそんな恐ろしいことができたのか。悪霊が取り付いていた。今はもう取り憑かれてはいないと思っているが、そうでもない。絶えず基本に戻って悪を戒めないと出てくる。長い間の癖になっているからだ。聖人になる。それ以外に方法はない。大局的に考える。それしかない。 私が正しいとか構わないとか思っていることでも間違っていることはたくさんある。刷り込まれた悪のイメージは容易には抜けない。聖人になること、義人になることだ。大局的にみることだ。それ以外にない。自己変革はそれしかない。回心すること。それしかない。普通の人のやるようにやること。 徐々に切り替えるより、スパッと切り替えた方がよい。悪の衝動を持つ人間はいくらでもいる。北原やhやkもそうだ。悪は人の心を傷つける。サドの作品はひどいptsdを私に残した。私は鬼畜ではない。だからptsdになるのだ。ptsdになるということは私が善良であること、普通であることの証だ。傷つけられた人間は傷つけることによって癒される。加藤フッキーが私にしたことはそれだ。私は何で傷つけられるのかわからなかった。それでptsdになった。人が恐いと感じるのは自分の中に悪の衝動があるからだ。人を傷つけたいと思っているからだ。義人になろう。聖人になろう。一所懸命働くことによって人は義人になれる。hやkはそのようにして義人となったのだろう。私もそうすればいいのだ。大局的に考えるのだ。甘えというのは許されない。社会人として許されない。私はptsdになった。まだ立ち直れない。でも義人になることで立ち直れる。
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