昨日の夜、加島祥造のタオの番組をやっていた。一番見たかった番組だ。私も孤立して一人生きているのでもない。こうして魂の連帯を感じることもある。ただ文学だけをやっている人間などいない。必ず生活があり、人間関係がある。どれだけ破滅型でも無頼でも愛する人はいる。世間に対しても何かあるだろう。私は人生の極早い段階でつまずいた。悪に見せられた。それから悪の道を突っ走った。立ち直れなかった。自分とは違う悪のエネルギーに引きずられた。真面目な人間ほどそういうことになる。悪はもういい。うんざりした。小林や宮崎や宅間のことなどどうでも良い。錯乱して人を殺す奴のことなんかどうでも良い。私は義人になるのだ。悔い改めて聖人義人になるという物語を生きるのだ。退屈だろう。でもそれしかない。悪なんかどうでも良い。大きな物語を生きるのだ。改悛と謝罪の物語でいいじゃないか。義人になればもう一度社会に受け入れられる。義人になれば働ける。義人になれば尊重される。義人になれば誰からも愛される。義人になればptsdうつは直る。義人になれば人生の喜びを味わえる。義人になれば信頼される。今まで義人だったことなどない。悪が骨の髄までしみこんでいる。体全体が悪にコントロールされている。義人になれば悪を追い出すことができる。悪魔憑きを追い払うことができる。ヤンキーでも更生しているやつはいる。義人になれば人を愛することができる。義人になれば人として大切なことがわかる。義人になればおかしな奴に喧嘩を売られることはない。義人になれば身を守ることができる。義人になればモラハラを受けなくなる。義人になれば自傷行為はしなくなる。義人になれば幸せが雨霰と降ってくる。義人になれば困ったことは決して起こらなくなる。義人になれば世の中の役に立つ。義人になれば妬まれなくなる。義人になれば悪いことを考えなくなる。義人になれば自分が変わる。義人になれば過去の罪滅ぼしができる。義人になれば愛する人ができる。義人になれば楽になる。義人になれば世界が一変する。義人になれば生きる力がいくらでも湧いてくる。 やっぱり二日続けて酒を飲むときつい。久し振りに一時に目が覚めた。夜中に体がぶるっと震えた。ptsdだなと思った。でも義人になればこの辛いptsdから逃れられる。義人になれば人のいうことがわかる。義人になれば世の中のたいていのことはわかる。義人になれば卑屈にならなくて住む。義人になれば攻撃されなくてすむ。悪はもううんざりだ。z氏にその話をすると必ず切れる。よくわからない。バランスが取れているのだろう。私は外を歩いているだけで気持ち悪がられる。差別される。でも義人になれば差別はされない。 悔い改めることが必要だ。責めることはない。自分は素晴らしい人間だと思う。心優しい普通の情の通った人間だ。だからきっと立ち直れる。義人になればいいのだ。義人とは普通の人のことだ。義人とは世の役に立つ人だ。誰からも愛される人だ。 義人になれば行いが正しくなり、思考も正しくなり、自然と過去の罪は清められる。義人になれば人を傷つけることがなくなり、人の恨みを買うことはなくなる。傷つけられることはなくなる。人に馬鹿にされたり、差別されたりすることはなくなる。人に棘棘した態度をされたりすることはなくなる。 これからは困ったことは起こらないような気がする。やっとptsdから脱した。互いに思いやりの気持ちと信頼を持って人間関係をやっていける。おかしなモラハラ的関係はありえない。大局的な目で見れば女の細かい嫌がらせなんか目に入らない。女はそんなことしかできないのだからかわいそうだ。 昨日のクリーニング屋とか図書館での対応とか見ていたら私が義人に変わりつつあることは誰の目にも明らかだ。私はキチガイにptsdにされた。あれも結局自分が無意識に傷つけたのが帰ってきたのだ。いつも自分の悪事が原因でptsdになる。自傷行為だ。悪は私には無理だ。悪が勝手に私の心と体を乗っ取って悪いことをさせる。義人になることだ。意志の力で100%コントロールできる。今日から義人だ。誰からも傷つけられることはない。誰も傷つけることはない。 大局的に見ることで小さい過去のこととか、現在のたわいもない小さいこととか、全く気にならなくなる。義人になれる。 義人とは大人になることだ。大所高所から見ることだ。義人になれば誰からも非難されることはなくなる。義人になれば人を信じられるようになる。全ての嫌がらせなんか義人になればきれいさっぱりなくなる。 大局的に見れなくなることが引きこもりやモラハラの始まりだ。自分が何をやりたいのか、やるべきなのか。大局的にみればすぐわかる。自傷行為と悪に耽るとわからなくなる。義人になった私にはもうないことだ。どうすればなくなるか。義人であれば考える必要もない。義人であれば欲望を肯定してよい。悪に取り付かれた人間が欲望を肯定するとかつての私のように鬼畜になる。今の私のように義人聖人であれば欲望を一定の範囲で追求してよい。義人であれば卑屈にならずにレベルの高いことを考えて良い。天下国家のこと人類全体のことさえ考えてよいのだ。 義人であるとは自分で考えて行動してよいということだ。批判されないということだ。 私は子供と悪の道を離れて聖人義人の道を歩き始めた。昨日までの極悪非道の鬼畜道からきっぱり縁を切った。困ったことはもう起こらない。大所高所からいつも考えていけば全てがうまく行く。心配事悩み事なんてなくなる。 聖人義人の道を歩き出した。これまでの道とは全く違う。明るい楽しい道だ。小さいことにこだわらない、困ったことの起こらない道だ。 義人であれば心はいつも平安に保たれ、どんなことにも簡単に対処でき、困ったことは起こらない。既にそういう境地にある。 過去の全ての罪を悔い、謝罪し、傷つけた人に謝罪し、義人として出直すことにした。これからは困ったことは起こらず、何もかもうまく行くだろう。全てを知ることができ、迷い悩むことはないだろう。 聖人として出直すことにした。もう聖人だ。義人だ。文学の道でも義人として生きることが必要だろう。子供の道を離れよう。義人として生きる。 義人ということは自分が確立していることだ。卑屈にならないことだ。何をしたらいいか考えなくてもいいことだ。義人とは自分を守れることだ。 結局自分がやったことでptsdになったのじゃないかという気がする。自分がやったことで悪くなり、悪いことをしたお蔭でptsdになる。どうしたらいいか。義人になることだ。義人になれば自己主張をしてもいいのだ。
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