いつものように朝早く目が覚めた。色んなことを考えた。抗うつ剤で少し調子が上向いていること、女のこと、今までの人生のこと、昨日の柳生街道の茶店での一こま。私は広い世界を知らずに生きてきたのだ。自ら窮屈な狭い場所に閉じこもって。そして抗うつ剤のお蔭でそこから少し顔を覗かせてみた。b校の門を叩いても見た。痛い目にも遭ったし、良い思いもした。ptsdスペクトル障害群と言う概念は大変目を開かれる思いだ。まさしく私の人生全体を覆っている黒い雲のことを言い当てている。いつからと言えば小学校の低学年くらいだろう。変な子と付き合ったこと、いじめに付き合わされたこと、とことん変な子とばかり付き合ったこと。書きつくせないくらい妙な経験ばかりした。小学校高学年から中学では教師による虐待にあって、ptsdは決定的になった。中学になってから女が妙に恐くなった。女の早い性への目覚めが恐かった。私は晩生だったのか。そうともいえない。女が余り好きではなかったかもしれない。素直じゃなかったのかもしれない。女を嫌うことは余り得策ではない。それが今になってこれほどたたるとは思わなかった。昨日も電車やバスの中でババアと衝突しそうになった。私は悪い癖で暴力に訴えたくなる。レイプとかしたいと思ったことはなく、暴力だ。やっぱり余り好きではないのだ。性的に惹かれる度合いが普通より少ないのだ。同性愛と言うわけではなく、ヘテロには違いない。でも少し歪んではいる。これがこんなに大きな問題に発展するとは思わなかった。でも昨日帰りの電車の中で若い女の話を聞いているときは悪い気はしなかった。惚れ惚れするほど馬鹿だなは思ったが、悪い感じではなかった。今までとは少し変わったような気がする。ガードが固すぎたのが少し甘くなった。猫に情が移ってかまぼこをやった心理と重なるような気がしないでもない。これも抗うつ剤の効果か。情が必要だ。義人になるためにもそれは必要だ。でもヒステリックに糾弾されると反発したくなる。嫌なものは嫌なのだと。でも昨日は少し嫌でなかった自分、それを快いと感じる自分を発見して驚いた。この調子で行けばいいのだ。困ったことは起こらないのに、困った困ったと言い続け、とうとうここまで来た私。でも遅すぎると言うことはない。人生の最後の日まで幸せを諦めることはない。ハッピー、ラッキー、サンキューだ。こんなに楽しくても許されるのだから、私もたいていのことは許す。私は冷たいと言われたことがある。情がないということだろう。その意味が漸くはっきりわかった。義人になるためには是非クリアーすべき問題だ。女や弱者に優しくすること。抗うつ剤の効果ですごく良くなった。躁転することさえ気をつければ、非常に有効な薬だと思う。私の場合は人生を変えることさえできる。ハッピーになり、ラッキーと思え、人に感謝でき、人を愛することが可能になり、情を理解すること篤くなり、文学をよりよく理解でき、人間や世の中を人並みに理解できるようになった。これならば働くこともできる。世の中は私が思っていたような空虚な空間などではなく、愛に満ちた困ったことなど起こらない世界なんだと思った。私は困ったことなど一度もない。それは自分の努力によるところはごくわずかで、ほとんどは誰かのお蔭、親のお蔭、世間のお蔭だった。愛のない空間などないことは昨日の茶店での出来事だけでもよくわかる。愛に背き続けてきた私もとうとう愛を学ぶ時が来たのだ。女を人を愛することができるような気がしてきた。女がそれほど嫌じゃなくなった。思えばこの間の講演会でも隣におばさんが座っていても気にならなかった。相当改善された。義人になることができそうだ。困ったことは起こらない。今困っているんじゃなくて学んでいるんだ。b校に通い始めた頃はまだ若葉マークだったのだ。今漸く愛についてわかり始めた。でも私は相当女にガードが固い。相当きれいな女でないと情が動かない。昨日も猫に情が動いたのは、子連れで子猫が可愛かったからだ。昨日は歩いている間ずっとハッピーでラッキーだった。人に感謝できた。許すことができた。義人であれば人を愛することができるようになる。義人になれば困ったことは起こらなくなる。女は好きでなくても優しくすることはできるんじゃないか。暴力を振るうなんてとんでもない。愛を知らないことはどうやら大きなマイナスらしい。私も女を愛することができそうだ。少なくとも優しくすることはできそうだ。人に愛されることに戸惑わなくても良さそうだ。子供だけしか愛することはできないだろうか。そんなことはなさそうだ。誰にでも優しくできそうだ。困ったことは起こらなくなりそうだ。脳が壊れて馬鹿になったことは良かった。真実に気付いたからだ。愛という真実に。b校でも何となく合わなかったのは変わり者が多かったせいもあるが、愛を知らなかったためだ。愛を知らない人間は困るだろう。私はそんなにサドマゾヒスティックになる理由などないのだ。おかしな奴と付き合ったと言うだけで、別に自分がそうなる理由はない。付き合いが良すぎる。影響を受け易すぎる。でももう問題は解決した。長い旅は終わった。困ったことは起こらなくなった。義人になった。人を愛せるようになった。人を信じられるようになった。自分にやさしくできるようになった。抗うつ剤はしばらく飲み続けたほうが良さそうだ。ptsdスペクトル障害群の緩和に大いに役立つ。あの何でも人のコピーをし、なんでも仕返しをする、人格障害の女が現れなかったら、自分の根本問題にも気付かなかったのだから、感謝しないといけないかもしれない。このままやり過ごすことは不可能になっていたのだろう。何でここまで不都合が生じるほど徹底批判されないといけないのかとも思うが。良い面はあるのだから、良い面を見てくれたらいいじゃないかと思う。どうして悪い面ばかりクローズアップして、徹底批判するのかわからない。それは自分が愛されなくて受け入れられなくて悔しいからだ。認められなくて悔しいからだ。そんなに悔しく思うと言うことは私に執着していることだ。それ自体が恐いのだ。弱くて醜くて馬鹿なおばさんに執着されることがパニックを引き起こすのだ。母もおばさんも私に愛されなくて困っている。困った人間は救わないといけないんじゃないのか。でも大概の人間はおばさんが嫌いじゃないか。でも私ほど、暴力を振るいたいほど毛嫌いする人間はいないので、やっぱりおかしいのだろう。義人ではないのだ。弱者に優しくできないのは致命的なのだろう。でももう問題は解決した。私は義人になった。困ったことは起こらない。 女との関係も特別なものじゃなく自然体で、卑屈になる必要はさらさらなく、おばはんに擦り寄らないといけない理由もさらさらなく、いじめを受けないといけない理由もさらさらなく、ごく普通にやっていけるだろうと言う気がしてきた。徹底批判などされる理由もさらさらない。義人になれば自然にうまく行くだろう。とにかくあいつにだけは近づかないことだ。私にどれだけ欠点があろうと精神を破壊されるほどひどい仕打ちを受ける理由などさらさらない。私は普通に生きていける。困ったことなど起こらないと本当に実感できる。あのババアたちを前にしても。 困ったことは起こらない。幸せになれる。多田富雄という人は脳卒中で体に自由がほとんど効かないが、何か困っているだろうか。何も困ってはいないのだ。困ったことがあれば誰かがすぐ解決してくれるだろう。この世は愛に満ちている。愛を知らない私にも愛の恩恵は均てんしてきた。こうして生きていられるだけで素晴らしい。感謝だ。働けなくなっても困らないようになっている。これは多くの人々の汗の賜物だ。感謝だ。私は昨日までの私ではない。愛を知る義人である。困ったことは起こらない。とにかく合わない。あの職場は合わない。でも私はもう大丈夫だ。聖なる存在になった。聖なる時間を生きられる聖人になった。足蹴にされたり、糾弾されたりする人間ではなくなった。それがそもそもおかしいだろうと言いたい。何で私のような義人を批判したり、いじめたりできるのか全くわからない。 自分に優しくしよう。自分を大事にしよう。いじめられても我慢しているなんてやめよう。一人さんの言うことを聞いていれば間違いない。困ったことは起こらない。義人である私には二度と困ったことは起こらない。我慢していたら死んでしまう。困ったことは起こらない。愛を知った私には困ったことは起こらない。暴力を振るわれるいわれはないのだ。困ったことは起こらないのだ。 私はバランスがおかしい。嫌だったら嫌で良い。嫌なものを我慢しないといけないことはない。何で自分を受け入れないものと一緒にいられるのか。全くわからない。怒るときは怒ろう。昨日も電車で嫌がらせされるのをじっと我慢していたら、モラハラみたいになって、何かいじめるのが当然みたいになって、悪党の天国みたいになった。何で悪が許されるのか。私にだけは悪が許されるのか。何故?ホワイ?悪を許すから悪が蔓延する。暴力を許すな。許すことと許さないことがある。過去の罪は許すだろう。でもこれから自分に行われる罪を許すことは誰にもできない。イエスも仏陀も一人さんもそんなことは言っていない。いじめを我慢しろとは言っていない。中国も韓国も過去のことは許すと言っているが未来に同じことをすることまで許すとは言っていない。許すの意味が違うだろう。未来志向とは未来には二度とこんなことはさせないぞと言う意味も入っている。いじめで自殺する子らも学校に行かなければいいんだ。何で我慢して学校に行けというのか。全くわからない。あんな職場に戻りたくない。新しくやり直したほうがましだ。どうして人間はいじめるのだろう。でももう困ったことは起こらない。困ったことは起こらないのだ。 気が楽になった。人に優しくできる。愛することができる。義人になった。困ったことは起こらない。揉め事は起こらない。 困ったことが起こらなくなるためにはどうしたらいいか。義人になる。それだけで良い。他のことは考えなくても良い。自分に優しくしよう。やっぱりおばさんが恐いと言っても邪慳にするのはやり方としてまずいんじゃないのか。でも芸人でもないのに何でご機嫌取らないといけないのかわからない。だから中間でいいんじゃないか。自然体でいいんじゃないか。何で奉仕しないといけないのか。 今図書館に本を借りに行って思ったけど、義人になるだけで全てが変わる。私は社会の一員として受け入れられ、全ての扉が開かれ、困ったことは一切起こらなくなる。すごくハードルを自分で高く設定している。社会はそんなにハードルは高くない。すごく優しい。愛に満ちている。感謝と愛と優しさを持って、義人足らんと欲するものには世の中は究極に優しい。何か私のためにしてあげられないかと鵜の目鷹の目になっている。そう思ったことであった。 大阪映画祭に行ってきた。子供兵の映画はきつかった。ptsdになりそうだ。実際子供兵はptsdになるらしい。それはなるだろう。それだけでもみていて辛かったが、終わった後訳のわからないngoの代表とかがしゃべり始めて、こいつが大嫌いな松岡修造にそっくりなしゃべり方の嫌味なやつで、死にそうになった。嫌いな奴の話を最後まで聞かないといけないというのはフッキー症候群の原因となった出来事と同じシチュエーションじゃないか。またptsdになったらどうするんだ。何で我慢しちゃったんだろう。我慢するなと言っているのに。自分が我慢すると人にも我慢させようと無意識にしてしまう。そんなことはありえないことだ。ptsdの温床だ。レイプだって戦争だって一番嫌なことを人に我慢させようとするところが一番罪深いのだ。喜んで人を殺せる人間がどこにいる。騙されてはいけない。男女で結構だ。むしろ誇らしい。それで帰りの地下鉄の中で大阪人を呪っていた。全然大阪人には罪はないのに。そういうところがおかしいとわかった。自分が機嫌が悪くなると目の前の人間を呪う。関西人が悪いのだとか。何人とか。関係ない。明らかなことだ。そういうところは改めないといけない。絶対に。絶対おかしい。引くべきときにどうして押すのだ。中学のとき、おかしくなったのは引くべきときに押したからだ。どうして自分が悪いとわかっているときに怒ったりするのか。絶対通らない。今日の教訓である。ところで今日天満橋の地下で若い女の子が立っているのを見た。帰りに通りかかったときもその女の子は立っていた。もしかして気の毒な例の商売の子かなと思った。かわいそうだなと思った。本当にそう思った。大阪は恐いと思った。でもそれが大都会だなと。私だって昔は近いことをやっていた。偉そうなことはいえない。 パキシルを飲んでいると人に優しくできる。怒ったり、人より偉そうにしたり、勝とうとしたりすることは全然方向が反対だ。力を抜いて、すっとこちらから引けばいいのだ。全然力むことはない。 普通に歩いているだけで、普通に買い物をしているだけで、バス停で待っているだけでおかしな顔をされるのが辛い。飲食店に入ってもものすごく馬鹿にされるのが辛い。意味がわからない。多分私という人間を誤解しているのだ。誤解されるのが腹が立つので怒りをあらわにするとおかしな具合になる。あのババアとのこともそうだと思う。誤解されるようなことをしているのだ。きっと。困ったことは起こらない。卑屈になることはない。人にとやかく言われることはない。卑屈になることはない。困ったことは起こらない。義人になることだ。義人になれば困ったことは起こらない。気をつけることは義人になることだ。赤信号を渡る奴がいようと関係ないじゃないか。義人であれば良い。自転車でぶつかってくる奴がいてもいいじゃないか。歩いてぶつかってくる奴がいてもいいじゃないか。義人になろう。困ったことは起こらない。 今日は色々あった。気持ちが安定するまで余り刺激の強い活動は避けたほうが賢明かもしれない。パキシルは初めて飲む薬だし。やっぱり大阪は恐い。恐いの一言だ。油断できない。のんびりしたいのに。柳生街道くらいしかのんびりできるところはない。ちゃんぽん屋のババアが強烈だった。天満橋は恐ろしいところだ。前にもやられたことがある。その頃既に調子が悪化し始めていた。ババアは一瞬で全てを見抜く。そして的確な攻撃を仕掛けてくる。何でそんなに喧嘩がすきなのかわからない。アドレナリンが出まくっているのか。とにかく普通ではない。私は絶対に買わない。引きまくるのが唯一の正解だ。女相手になんで喧嘩しなけりゃいけないのか。いい加減にしろ。 とにかく落ち着こう。義人である。困ったことは起こらない。困ったことは起こらないのだ。ハッピーでラッキーなのだ。酒を飲んだ翌日は調子が悪い。いつものことだ。だからと言って困らない。喧嘩を売られても絶対に買わない。バス停でくそみたいなババアがにらみつけてきた。人間じゃない。ヤクザレベルだ。でも困らない。喧嘩は絶対に買わない。どうして買わないといけないのか。困ったことは起こらない。ハッピーラッキー、感謝だ。さあ悪口を言いまくったところでスッキリ寝よう。誰とも喧嘩しないのだ。絶対に買わないのだ。
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