今日はすごくいい天気だ。ハイキング日和だが、エアコンの日なので家にいないといけない。あの馬鹿のせいで大損害だ。でも怒るまい。何も困らないのだから。何も考えないようにするといいみたいだ。朝起きたときも何も考えないでゆっくり寝ていると気分が良かった。脳がダメージを受けたのは考えるなというサインなのだ。頭がよければなんなのだ。義人の道、愛の道のほうが大事だ。女や子供の方が偉いのだ。 だいぶ元気が出てきた。もうすぐ復帰できる。いろんな意味で少しずつ良くなっている。最高というのではないが安定していて何が起こっても困ったことにはならないだろうという気がする。人に腹が立つと言うこともない。喧嘩になるということもない。義人だから、愛ある道を生きるから。これくらい気分がよければいいだろう。すごく頭が良くなくていいじゃないか。考えすぎないのがいい。というかこれから一か月何も考えずに生きていくというのはどうだ。昨日の朝みたいに、今朝みたいに何も考えずに生きること。これが鍵になる気がする。とにかく考えすぎる。脳に障害があるのかもしれないが。それはパキシルで何とかなる。脳がダメージを受けたのを気に何も考えないことを心がけよう。 私と女の間には微妙な問題がある。でもそれを暴き立てても何にもならない。私は自分が女性的であって良かったと思っている。女性的な自分が好きだ。争いごとが嫌いな自分が好きだ。女性的だからといって能力も価値も全く劣らない。とにかく何も考えないようにしよう。好きなことに没頭しよう。それでいつの間にか回復しているというのが理想だ。 義人になることはいいことだ。自分の一番価値のある、有意義な努力だ。自暴自棄の反対。自虐の反対。自分を愛すること。何も考えないことは素晴らしい。大人とは義人である。大人は汚いと思っていたがそうでもない。残酷さでは大人も子供も変わりはない。何も考えないことが今一番自分を大事にすることかなという気がした。会社のこととか、人生のこととか今まであったひどい経験のこととか。一切考えないでのほほんと生きているのが一番いい。少なくともこれから一ヶ月はそうして生きて行こう。周りの皆さんもきっとそういう私を望んでいるだろう。 義人とは自分を愛する人だ。聖なる気持ちを失わない人だ。聖なる時間を生きることだ。悪は誰でも心にある。でもきちんと抑えることができる。でも攻撃されたら、使うことがあるかもしれない。凍結されていたらいけないかもしれない。武道なんかはいいかもしれない。体を動かすだけでもいいかもしれない。聖なる気持ちはいいことだ。 ちょっとしたことで少し落ち込む。レイプされた女性の手記を読んでいるが気が重くなる気がする。余り読まないほうが良いか。自分に自信を持ちすぎるのか。私は強くはない。でも生きていかないといけないし、できると思う。自分を愛そう。朝パキシルを飲んだが、驚くほど気分が良くなるわけでもない。基本的に気分が悪い。でも幸せを感じることはできる。こうして休んでいられるのも職場の会社の全ての人のお蔭だと感謝している。嬉しい、楽しい、幸せだ。許します。ありがとう、ツイテル。これらは本当に実感できる。難しいことじゃない。笑ってしまうくらい簡単だ。だからこそ実行できる。実感できる。 朝、昨日の朝も何も考えない気持ちのいい瞬間があった。それを信じたい。例えば田舎に行っていい風景に出会い、ほっとするその瞬間、何も考えていない。誰も恐がっていない。人を信じられる瞬間。豊かな感情が傷つけられないでよみがえる。何も考えない状態ならば、人を拒否することはないだろう。そんな状態に戻ろう。自分の機嫌は自分で取ろう。温泉に行けば直ると考えるのは間違いだ。人は私が悪いことをする、人を傷つける人間だとわかっている。噛む犬だと。あの女は私と同じことを私にやっている。それがどんなに不愉快かわかった。それを私はずっとやっていたのだ。自分を傷つける人間は受け入れられないんじゃないのか。あの最初の自己愛性人格障害とか。受け入れられないものは受け入れられないんじゃないのか。自分を虐待するものに近づく。私の一番悪い点だ。 私はどこの職場でもトラブルを起こしてきた。悪と攻撃性がうまくコントロールできない。誰でも悪は持っている。欲もある。でもたいていの人間はそれをコントロールできる。望ましい社会的行動を選択できる。だから私は自分が義人になる以外ないと思っている。義人とは悪を肯定しないことだ。差別をしないことだ。優しいことだ。幸せ、ありがとうと思えることだ。義人になろう。聖なる時間を過ごそう。残りの生涯にわたってそうしよう。父との約束だ。 悪いことをしても何もいいことはない。当たり前だ。それが許されると思うということが病気だ。ずっと病気だったのだ。これからは自分を愛そう、義人になろう。馬鹿でもいいじゃないか。馬鹿正直に生きていこう。 自分が変わればいいのだ。人を変えるなんて絶対に不可能だとわかった。自分が変わる。劣等感から自由になる。人が劣等感から妙な行動に走ることを見抜く。自分も劣等感から妙な行動をしていないかチェックする。明らかにそうだった。劣等感からおかしな行動に走っていた。義人になろう。簡単なことだ。聖なる気持ち、感謝の気持ちで聖なる時間を生きることだ。 自分に優しくしようと思った。我慢するのはやめようと。我慢を自分に強いるのはやめようと。何も考えずに過ごそうと。仕事に復帰しても同じだ。何も考えずに淡々と仕事をしよう。 トラウマの本を読むと確かにあの日から時間が止まっている気がする。何であんなちっぽけな事件でこんなに傷つくのかわからない。男に対する基本的な信頼が崩れた。女と違って男は信頼できると信じていた。でもそういうことはありうることだ。自分を愛することだ。こんな自分を愛することだ。自分を愛そう。何も考えない時間。何も考えないというのは素晴らしいことだ。 私はいい人間だと思う。一歩一歩回復している。今日は昨日よりずいぶんいい。私は頑張りすぎないことだ。私は強くない。強くなくても生きていけると思う。強くない強さってあると思う。人間の本当の強さは力じゃないと思う。私は弱くても生きていけると思う。卑屈にならずに生きていけると思う。劣等感から自由になって生きていけると思う。今日はやたら眠い。眠いときは自由に寝たらいい。少し不安定になっているのだ。自分を愛するのだ。義人になればおばさんや女に卑屈にならずとも好きにならなくても生きていけるのだ。 エアコン屋は来ない。何も考えないで義人であること、自分を愛することだけ考えれば一ヶ月で良くなる。今不安なのは逆に社会と波動があってきたから色んなことが頭に飛び込んでくる。今まで見えなかったものが見えてくるから不安になってくる。義人になることだ。図書館でもレジでもそれでうまく行った。私とあの三悪人の違いは善悪の基準ではない。私は悪に寛容だから自分を守りきれないのだ。義人になれば善悪の基準は一致するから一方的に攻撃されたりはしない。それで自分を守れるのだ。悪に寛容ということは相手が攻撃してきても受けてしまうことだ。受けてはいけない。悪だから排除しないといけない。義人の強さはそういうところにある。 何も考えないのは非常に有効で、楽になれると思う。昨日の朝、本当に何も考える力が残っていなくてそのとき、ふと楽になった。これで生きていけそうだと思った。 エアコン屋が来た。あっという間に直していった。心配することは何もなかった。世の中は私が考えているより、はるかにうまくできている。 何も考えない。これは楽なことだ。楽しいことだ。明日は山の辺の道に行こう。何回行ってもいい。義人になれば何も恐いことはない。悪にも厳しくなるから、私を悪と見て攻撃されることはなくなる。何で私が悪者にならないといけないのだ。何で私が悪に寛容と見られねばならないのか。 義人になる。ただそれだけで楽になる。人間関係なんか全てうまく行く。結局私が悪人と見られて攻撃される。それでストレスが溜まる。私は悪人なんかじゃない。攻撃なんかされるいわれはない。 義人であること。自分を愛すること。たったそれだけでいい。人のことはどうでもいいから自分のことだけ気をつけろ。 悪に寛容である必要はない。悪は悪でいいじゃないか。私が悪を好きな理由なんか全くないじゃないか。義人になろう。簡単なことだ。私は過去多くの罪を犯した。その罪悪感がたまらない。それをクリアーできるのは悔い改めることしか考えられない。このまま反省も後悔、改悛もせずに生きていくことは土台不可能だ。義人になると決めた時点で周りは大きく変わった。図書館、クリーニング、レジなど。全く問題が起こらなくなった。義人と愛の道を進むのだ。 義人になればhとかkみたいなチンピラに絡まれなくなる。義人になれば不都合なことは一切起こらなくなる。
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