昨日はテレビが面白かった。善良であるということはいいことだ。悪いことをしても何もいいことはない。わかっていてやるのは自虐だ。それに尽きる。悪いことをわかっていてやってしまう。この自虐を止めろ。これだけだ。昨日からあまり気分がよくない。アルコールを飲み続けたからか。一昨日はいい気分だったのに、調子に乗りすぎたか。優しい善良な人間であることを恥じる必要があるだろうか。今こそ自分を好きになれた。自分をいじめなくてもいいんだ。誰のために自分をいじめるのか。全くわからない。人を好きになる。信用する。人に優しくする。一人で暮らしていると人に優しくするとか配慮するとか、思いやりとか全部忘れてしまう。鬼畜のようになってしまう。善良であることはいいことだと気付いた。これが一番大きな気付きだ。簡単で一番力強い。 私は善良だ。私は人が好きだと唱えていると、不思議と心が安らぎ、落ち着く。悪いことが良いことみたいな勘違いが私にはある。悪いことは悪いことで、良いことは良いことだ。善良でいいじゃないか。善良だったら困ることがあるのか。私は善良だ。人が好きだ。 善良であることは恥じることではない。善良であろう。あのときから善良であることをやめてしまった俺。元に戻ろう。今からでも遅くない。善良であろう。姉や兄は私が乱暴者だったので嫌ったのだろう。責めることはできない。母親ももてあましていた。善良になることが答だ。 悪人を卒業します。私は正真正銘の善人になります。人を好きにないます。自分を好きになります。これは努力目標です。宣言です。誓いです。約束です。 どんな人間にも善と悪がある。どちらも生きていく上では必要だと認めざるを得ない。生存とか利己主義とか実存とか言葉を変えてもやっぱり、根っこには悪があるだろう。でもそれを追求してはいけない。純化することは許されない。例えばナチスとか南京とか原爆のようなことを認めることは誰にもできない。善と悪はバランスをとらないといけない。フェアーであるとはそういうことか。私も生きていくためには最低限のものが必要だ。だがそれ以上にほしいとまでは強くは思わない。お金がたくさんあればいいけど、なくても困らない。稼げる人はいっぱい稼いでくれ。私はほどほどで良い。ホリエモンがいいだろうか美女と自家用ジェットで南の島へって、確かに楽しそうだが、悪いことはしちゃだめだろう。一番の基本を踏み外している。グレーゾーンというヤツか。アメリカの資本主義なんか真っ黒だ。日本に太刀打ちできない。 私は善良でありたい。実際善良だ。善良だと競争に負けるだろうか。そんなことはない。善良で人が好きで自分が好きだったらいけないか。ほとんどの人はそうじゃないか。何で人は物語に癒されるのか。人のほとんどの活動は自己表現じゃないか。物語じゃないか。人の一生は物語で、働くことはものづくりであれ、サービス業であれ、表現行為であり、物語であり、芸術活動と変わりはない気がする。 人生が変わった。善良な人間になった。人が好きになた。自分が好きになった。ものの見え方が変わった。「清太郎さんの森」という地味だが良い番組を見た。効率至上主義の人工林じゃなくてエコロジカルな森を作っている粋なおじさんの話だ。良い人生はフィクションのようだ。楽しんで生きている。もっとも林業だけでは食えなくて米作りもやっている。ロマンでは食えないのか。でも食える食えないではなく、生き方の問題だ。ここまでわがままだといっそ気持ちが良い。善良な人だ。森で育った杉で家を建てた家族は大喜びだった。清太郎さんはロマンの力で家族を癒すのだ。ロマンが実学であるゆえんだ。もう一生かかっても償えないくらい深く大きな罪をたくさん犯した。今でも犯しているだろう。だから心置きなく残りの人生は良いことだけしよう。善良な人間になること。人を愛すること。自分を愛すること。 ミナミに行ってきた。大変な人出だ。やっぱり、南のほうが落ち着く。まったりとした人の流れ、関西人らしい気の長い感じ。関西人て私が思っているより気が長いんじゃないかと思う。私は気が短すぎる。焦りすぎる。焦りすぎて結局全部だめにしてしまう。仕事も女も人間関係も、何もかも。あわてるこじきはもらいが少ないとはこのことだ。善良である。私は善良だ。人が好きだ。自分が好きだ。この気持ちがとても大事だとわかった。
|