明けましておめでとう。昨日はワインを飲んで酔いつぶれて寝てしまい、紅白も格闘技も見られなかった。何か間が抜けている。でも無事に新年を迎えられたのは良かった。初日の出も見られた。ついている。一人さんがついてるといいなさいというのはこのことかと思った。ツイテルかどうかは主観でいかようにも変えられる。ついてないと思うのは勘違いかもしれない。初日の出が見られた。ツイテル。たまたま買った売れ残りのワインがおいしかった。ついてる。ぶりの刺身がおいしかった。ツイテル。蕎麦がおいしかった。ついてる。全て良いように考えることができる。ポジティブシンキングに近い。これを習慣にしていれば人生にプラスの勢いがつく。全て好循環になるだろう。やっぱり今年はいい年になりそうだ。そう思っていればいいことが起こると一人さんは言った。本当にいいことが起こった。素晴らしい。今年はいい今年か起こらないな。余りにもついてるので、悪いことが起こる暇なんてない。嬉しくなっちゃうな。 自分がすごくクリアーに見えてきた。この年になって自分がクリアーに見えるなんてすごいな。嬉しいな。これからは良い人生が開けるぞ。よきことが雪崩のように起こるぞ。楽しいな。善良であれば、やがて人の理解が得られる。信用が得られる。愛情が得られる。統合失調症の人は重大犯罪を起こすことが多いという。一般の人が統合失調症を恐れる理由は根拠がないではない。三島もあんな恐ろしい愚行を犯した。生前から人を殺したいといっていたそうだ。誰でも思うが実際にやる人はいない。自分を殺したのだ。私のような人間でも悔い改めて、自分の欠点をよく自覚し、人の言うことをよく聞き、善良であり続ければ、人の信頼と愛情を得られ、よき人生を生きることができる。最近漸くそのことがわかった。やっぱりツイテル。 自分の人生が非常に早い時期から大きくそれて行った様をありありと理解できるようになった。それがわかればそれを今からでも正しい路線に引き戻すことができる。人の信頼を勝ち得ることができる。善良であることだ。自分は善悪の区別が付きにくい。これは多少はもって生まれたものかもしれないし、ある程度は偶然によるものかもしれない。でも今更そんなことをいっても仕方がない。個性ということもできる。人のやらないことができる可能性もある。ニュートンも統合失調症だった。邪悪ではあったが、人類に大きな貢献をした。発病に至らなくてもそういう傾向を持ったものは数多い。実際に発症するだけでも100人に一人か位で珍しくない。そういう傾向を持った人間だったら、全員かもしれない。人を殺したいと思ったことのない人間はいるだろうか。全員がそういう素因を持っている。統合失調症とは人間だけがなる非常に文化的な病だ。言葉を操り、操られる人間だけがなる。私が統合失調症だからといって、珍しくもなんともない。逆に非常にわかりやすい、素直な人間だということだ。人類を進歩させたのは統合失調症の人々だ。進歩といえるかどうかは微妙だが、ニュートン力学なんか生きていくのに必要ではない。月にロケットで行く必要なんてないのだ。それを進歩と呼ぶことは微妙だといっているのだ。 善良であろう。人を好きでいよう。自分を好きでいよう。一人さんの言うことがすごく良くわかる。自分がなぜ発症したかも非常によくわかる。これから生きていくにはどうしたらいいかもとてもよくわかる。簡単なことだから、今すぐできる。既に実行して抜群の結果を出している。私は自分がどうして多くの過ちを繰り返してきたかそういう人間になってしまったかを克明に理解した。それをここで長々と書くこともできるが意味がないし、その時間があったら、やりたいことがたくさんあるので、そうしない。 善良であること素直であることは至極簡単なことだ。生まれつきの自分であればいいのだから何の努力も要らない。一番楽で苦労も苦痛もない。自然で人間の本性にかない、誰からも理解され、支持される。こんないいことはない。今まで自ら茨の道を歩いてきた。それを自然な大道に戻ればいいだけの話だ。ああ、素晴らしい。幸せだ。もっともっと幸せになれる。嬉しい、楽しい。ツイテル。ありがとう。感謝します。許します。 善良であること、幸せであることを恥じたり、照れる必要があるだろうか。全くない。幸せになって良いんだ。善良になって良いんだ。ラッキーで良いんだ。喜んで良いんだ。楽しんで良いんだ。 今年はゆっくり行こう。脳がぼけててちょうど良い。父は頭が回りすぎて酒で穏やかにしていたのだ。どんなに飲んでもはっきりしていた。善良であろう。簡単なことだ。一番簡単な道だ。邪悪であるためには不快な気分に耐え、良心の呵責に苛まれ、危険に曝され、実際傷つき、心が汚れ、評判を台無しにし、返り血を浴び、更に処罰され、追放され、何もかも失う。なぜそれでも邪悪であろうとするのか。狂気以外ありえない。狂気を逃れる唯一の道は善良であること。宗教に帰依しても良い。というか必須だ。西洋人やイスラムの人は例外なく神を信じている。日本人はゆるすぎる。宗教なしでどうして生きていけるのか。でも日本人が宗教的ではないというわけではない。特定の神が必要ないくらい宗教的に生きているともいえる。 地球が天国だという話も今は非常に良くわかる。戦争もないし、疫病もないし、死刑や残虐な刑罰は一部を除いて存在しない。良い薬が開発され、少々の心身の病気は治ってしまう。芸術芸能は花開き、デジタル家電やitは百花繚乱だ。不景気だなんだといっても食うに困るわけでもなし、飽食の世の中だ。長寿世界一だ。こんな良い国に生まれて、不平不満を言うなんて罰当たりだ。 雑煮がすこぶるおいしかった。昨日のふく鍋のだしでもちを煮てみたら、今まで食べた中で一番おいしい雑煮になった。年末から高いものをいっぱい食ったが、一番安いこれが一番おいしかった。人は一所懸命働いて、よく遊んでいれば安いものでも極上のご馳走だ。すっかり生まれ変わった私への神様からのお年玉だ。 脳のぼけもだいぶ回復してきた。いったん壊して新しくいいものを立て直すのだ。何度でも。一人さんは自分をやっつけているという。その意味はそうだ。あの人の攻撃性が人に向かうと大変なことになる。だから自分に向ける。父もそうしていた。そしてそこから上へ上へと伸びていくのだ。父はある意味大河のような人だった。父の大きさが今までわからなかった。私もそうして生きて行こう。 もやが晴れるように新しい景色が見えてくる。ゆっくりと。気分上々だ。パニックになったり、うつになったりしない。これからは決断と実行の年だ。自分がもう悪いことはしないとわかった以上、良いことがどんどん起こるツイテルヤツだとわかった以上、社会に貢献でき、豊かになり、幸せになるチャンスだ。人や社会を幸せにできる。 今年賀状を取りに行ったら、変な掃除のおばさんが掃除機を持って私を追い回していた。キチガイじゃないのか。元旦から嫌がらせか。気をつけよう。一人さんの言っていた修行とはこのことじゃないのか。結婚すると連れ合いが嫌がることをこれでもかとしてくる。それは修行だと。私は結婚していなくても世の中の女がこれでもかと嫌がらせしてくる。自分はそういうもので気分を害されないぞという固い決意が必要だ。それは自分が善良であり、終生善良であろうとする固い決意が自信になり、どんな嫌がらせにも動じない強い心を持つことができる。さっきも余り嫌がらせするようなら止めてくださいとはっきり言う勇気がすっと立ち上がってきた。それは怒りではない。自分を守る勇気だ。 今年も年賀状は数枚。しかも会社関係からはほとんどない。hも寄越さなかった。あんな気分の悪いヤツからいらないけど。これこそ修行だ。 九月以降はパニック状態で人前に出られる状態じゃなかった。医者も変えて心機一転出直した。そうすると少し運が向いてきた。ゆっくり回復している。無理は禁物だ。私は自分に多くを期待しない。脳がぼけだめ人間になってもいいじゃないかと思う。オーケーだ。そんな自分でもオーケーだ。ゆっくり行こう。スローライフだ。これからは良いことしか起こらない。よいことしか考えないから良いことしかしない。善良になる。人を好きでいる。自分を好きでいる。幸せだ。めでたいな。 もう恐れない。パニックにならない。動じない。気分悪くならない。怒らない。仏教は紀元前後のインドという巨大文明の中で生まれた非常に人工的というか文明的な宗教である。当時のインドは現代の資本主義社会に良く似た状態だったという。そんな先進的で都市的な宗教が日本のような農村型社会に合うだろうか。あまり合わないので、日本人は自分たちに合うように勝手に変えてしまったのだ。浄土真宗に至っては元の仏教の面影もない。しかも江戸時代を経て宗教性は骨抜きにされてしまい、葬式仏教とまで揶揄されるに至った。今の仏教に日本人を救うような要素は何もないんじゃないか。せめて親鸞までだろう。親鸞の教えに立ち返ることは有益かもしれない。日本に土着した仏教の最終形だろう。 善良であれば気分悪くならない。パニックにならない。人を嫌いにならない。善良であるとは人の本性にかなうことだ。人が善良であると信じることは無邪気で危険な行為ではない。人は信頼に足る。善良であると信じるに足る。自分が善良と信じることと同じくらい重要なことだ。 私は学校でうまく行かないからといって家族の皆さんを不幸にしたと思う。自分が悪いから嫌われ、非難されるのに逆切れし、攻撃する。今も変わっていない。姉がなぜ私を毛嫌いしたか今は良くわかる。自分が危害を加えられる可能性のある人物を受け入れることはできない。私が今、hやzやkを受け入れられないように。でも脳がダメージを受けなかったら、こんなに大切なことに気付かなかった。多分。だから人生に無駄はない。今こうして苦難の日々を過ごしているがきっと重要な意味を持ってくる。現に今それを私はつかんだ。私は十分幸せだ。幸せだということに気付けばいいだけだ。狂気から抜け出す道は終生善良であるという固い決意だけである。終生人を好きで自分がすきという当たり前の決心をすることだ。誓いである。社会との約束だ。長いことかかってやっと悟った真理である。中学のときにもっと前に悟るべきだった。 過去に重ねた重大な罪は病気によるものだったと推測している。だから穿り返して自分を責めても無意味だし、自分に酷だ。悔い改めて上記の誓いを実行するのみだ。死ぬ間際になって、ああ、いい人生だったと振り返ることができればそれでいい。きっとそれは可能だと信じる。今既にその奇跡が起こりつつあるからだ。egに行ったときに起こったことはこの奇跡の序章に過ぎず、何も理解していなかった。狂気の中にいた。今はそうでないと確信できる。知りたいと欲していた人生の秘密を知ったと確信できる。 私がパニックになったり、うつになったりするのは完ぺき主義だからだ。自分にも人にも完璧を求めるから息苦しく、不安になる。不安はなくならない。なくす必要もない。一人さんがそう言っている。私の考えと一人さんの考えが自然に一致するようになって来た。一人さんは当たり前のことしか言わない。だから常に正しいし、間違わない。だから成功するのは簡単だといえるのだ。私は簡単なことや当たり前のことが嫌いだった。でも今は違う。真実はいつも自明で簡単なことだ。信長のような天才は5百年に一人くらいで良い。本当に世を治めるのは家康のような凡庸な人物なのだ。平凡で当たり前のことしか言わない普通の人が一番偉い。一人さんもそう言っている。 今まで法に触れることをした記憶はないが、人の道にそむくことばかりしてきた。普段考えることもすべて100%そうだ。そんな人間が信頼されるわけがない。仕事も人間関係もうまく行くわけがない。でもそれは小さい頃からの病気が原因だったと今はわかったので自分を責めたりはしない。今私は生まれ変わりつつある。はじめてそう実感できる。egのときも実際はそうではなかった。当時よりも休み始めたときよりも今のほうが絶対的に比較にならないほど良くなった。当時は盲目だったのが今は蒙が開かれたからだ。すごく落ち着いた。病気が軽快した。専門用語で寛解というらしい。人は善良で優しく気高く、価値が高い。この年になるまでそのことを理解できなかった。今日はすごいな。良き言葉が泉のように湧いてくる。良いことしか考えないという誓いどおりだ。本当に私は生まれ変わったと信じられる。 方違神社に行ってきた。長蛇の列ができていたので並ぶのが嫌いな私は諦めて変えることにした。別の入り口から並ばないで入り、一応雰囲気だけ味わった。まあちょっとした下流の匂いが漂っていて快いものとはいえない。脳のぼけもここまで回復した。これを回復させるのが愉しみだ。リハビリみたいなものだ。塗り絵とか奥の細道の習字なんかいいんじゃないのか。善良であることは若干の不安を感じさせるものではある。でも私の道は間違っていない。ただ凡人の忍耐強さには真似できないものがある。それが善良さというものだ。忍耐強く働く。それが人間というものだ。ただ脳のダメージでパワーが落ちているから非常にきつい。可能だろうか。zからダメ出しされている。このままじゃまずいと。さっきも人ごみに入るとさすがに少し足がすくむような気がした。でも良い変化だと思っている。今まで見えなかったものが良く見えるようになった。 親兄弟にはずいぶん迷惑をかけた。その意味は家庭内暴力のような凶暴なはっきりした犯罪行為だけでなく、心理的、道徳的、倫理的攻撃にも及ぶ。姉は私を毛嫌いし、しばしば罵った。でもそれは私のほうに問題があったことは確かだ。でもそれは病気のせいだから、道義的に批判されても私にはどうすることもできない。でももうこの年になるとさすがにおかしいと気付いた。道徳的な罪も十分罪である。社会では受け入れられない。例えば、中学のとき、些細なことから家族が嫌いになり、親兄弟を拒否した。クラスの人間も拒否するようになった。そういう行為が家族の雰囲気を悪くするとは考えが及ばなかった。むしろそうやって報復したいと思っていたかもしれない。今脳がダメージを受けて非常に不安を感じる。一人で生きていけるだろうかと思う。これまでのやり方では無理なことは明らかだ。高い道徳水準を維持して、努力しないとダメだろう。それはきっとできると思う。才能とか天才とか関係ない。真面目で普通の勤勉な人間にならないといけない。非常にふざけた道徳水準にある私を、まともな人間にすることは可能だろうか。脳に何か障害があるのだろうか。それはないと信じる。善良であれば、薬を飲めば、必ず乗り切っていける。成長できる。遅すぎるということはない。棺を覆うその日まで人間は成長できる。固く信じている。幸せになれる。善良になれる。人を好きになれる。自分を好きになれる。 これだけ長いことかかったが、私は完全に正常化した。今まで正常だったことはほぼ一瞬たりともなかったことを考えると、奇跡のようだ。こんなことが自分に起こるとは信じられない。それでもかつてのように躁状態や有頂天になったりはしない。すごく理想的な状態だ。本当に長くかかったが、本当によかった。色んな偶然が重なったこともあるが、忍耐強く頑張った自分を褒めてあげたい。知能なんか今くらいで生きていくのに十分じゃないか。お金もそうたくさんはいらない。商人は仕事で必要だから、お金をたくさん持っているのであって、生きていくのにそうたくさんは要らないと一人さんも言っている。私もそう思う。善良であることが全ての扉を開く。奇跡のように雪崩のごとくよきことが起きている。今私は救われようとしている。一人の人間が今救われつつある。良かった。本当によかった。嬉しい。楽しい。ツイテル。幸せ。ありがとう。感謝します。許します。本当に心からそう言える。幸せになったときというのはめでたさも中くらいという気分だ。だって当たり前のことに気付いただけだから。抜け道を探して歩いた挙句、この列に並んでくださいといわれた気分。全然オーケーなんだけどね。それでまともな人間に戻れると確信できたから。 ああ一日が長い。歓楽きわまりて哀情多し。少しずつ脳が回復しはじめていることを実感する。愉しみだ。回復した上に別の新しい人間に生まれ変わっていく。素晴らしい。脳外科手術によって統合失調症を治したようなものだ。 いい正月になった。もうだいぶ飲んでます。神です。でも穏やかです。nhkを見てます。満ち足りてます。どんどん回復していくでしょう。ダメージを負って正解だったといえる今日この頃です。 神五郎です。今晩は。完全に酔っ払っています。でも今が一番いい気分です。
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