希望の日記

2007年01月13日(土) 一夜

明けて、不愉快なこともあったが忘れてしまおう。何で覚えておく必要がある。善良であることは良いことだ。脳は元に戻らない。戻らなくてもいいじゃないか。新しい自分で生きていく。何ら不都合はない。やがて自分も新しい自分に慣れて円滑に行くようになる。昼間働き盛りの(年だけ)男が町をうろついていたら不安を覚える人は多いだろう。そういうことにも気配りをしないといけない。道徳的というのはそういうことだ。人間は自由ではない。世間とは不自由なものだ。それでいいのだ。善良とは誓って法律や道徳を破りませんということだ。新しい私になるうえでの一番の注意点はそういうことだ。
善良ということは最大の自衛になる。善良で困ることはない。人と競争したくなったら、善良さを競争するが良い。後半年休むことにした。こんな機会はない。心の洗濯をしよう。心を洗って洗ってきれいにし、社会に適応できるようにしよう。元々善良な人間だったし、今でも清らかな心を持っている。
昨日の夜、布団の中で父親に本当に申し訳ないことをしたと思った。いくら病気だったとはいえ、やっぱり許されないことをした。本当に後悔している。やっと私も正常な状態に近づいたのだ。善良な気持ちを持ち続けることが正常だということだ。人が好きで自分が好きで尊重するということ。その約束を守ろう。
善良であること。これが一番だ。実直、愚直と言い換えても良い。道徳的であって損することなんかあるだろうか。絶対にない。
薬を飲むこと。よく眠ること。酒を減らすこと。旅行をすること。ウォーキング。心理療法は余り効果がない。善良であること、人と自分を好きであることだけ心がける。これで次第に回復するだろう。今はまだ混乱している。
善良であること。道徳的であること。これで全ての問題は解決できる。義人であること。これだ。薬を飲むこと。よく眠ること。
自分にストレスを与えることはやめる。無理をすること。脳を酷使すること。できないことをいきなりやろうとすること。知らぬ間に自分を酷使している。長い間に疲れが溜まって破綻する。これまでの繰り返しだ。私が統合失調症だとすると、長い間、本当に良くがんばったということになる。自分を責めることはできない。私は生まれつきストレスに弱いとかちょっと問題があるのだなと思って、むしろ手厚くしないといけない。小さい頃姉が私のことを嫌ったり悪く言ったりしたのは理由がわからなかったが、結局そういう遺伝的な特徴が不快に見えたのだろう。姉の気持ちもわかるが、こちらとしても遺伝であれば私の責任ではないからいかんともしがたい。今は薬を飲むこと。ゆっくり休むこと。善良であること。機械的であってもいい。愚直にルールや道徳を守ろうと務めること。それが周囲との摩擦を減らして、ストレスを軽減する方法だろう。気をつかわな過ぎる。普通もっと年からすれば気を使うだろう。常識とか道徳とか、礼儀とか全く気にしないのはいかがなものかと思う。私のような遺伝的弱点を持つものはいくらでもいる。統合失調症の発病率は1%くらいでさほど珍しくないという。ほかにもうつとかノイローゼとか犯罪歴とか入れると精神的に問題がある人間は掃いて捨てるほどいる。それでも精神病院に入院したり、刑務所に入ったりしないで生き抜くことは十分可能だ。いい薬がある。薬しか頼るものはない。私のタイプだとカウンセリングや心理療法は余り効き目がない。でもむしろ薬が一番楽で簡単だ。統合失調症のことはあれ以来一切、考えてこなかった。多分、無意識に避けてきたのだろう。でもそのせいで本質的な問題解決にならなかった。そう考えると自分の人生が愛おしい。はじめて自分にやさしくできる。何ができるか、自分は何者かそればかりやってきた。自分を責める行為だ。自分探しとは自分いじめに他ならない。摂食障害とか思春期にかかるはしかのようなものだ。統合失調症の人は一生青春期の悩みを抱えてしまう。はじめて自分にやさしくしようと思った。自分に厳しくするから発症する。私の家族には発症したものはいない。つまり私の行動が少し変わっているということだ。自分に厳しすぎるかと思えば、甘すぎることもある。中庸がいいのだ。釈迦も青春期の悩みを一生抱えたばかりでなく、衆生の悩みまで引き受けた人だ。統合失調症界のスーパースターや。n原さんと付き合うことは、自分が庇護の必要な弱者であることを認めるような気がして嫌なのだ。でもいったん認めてしまうと気が楽だ。自分はケアーが必要なんだと。変な人間と付き合うことは最大の自虐だ。過去の私の自分史が物語る。n原さんはいいけど周りの人間が耐えられない。私と同じでケアーを必要としているかわいそうな奴ら。中には醜悪極まりない人物もいる。何で我慢しないといけないのか。
休み始めてから自分は変わった。全ていいほうに変わったと信じる。良きことが雪崩のようにおきている。n原さんはn原さん側に回ると人をケアーしないといけないし、相手側に回るとoさんとかtさんのような無力な存在になってしまう。どちらにしても楽しくない。
統合失調症と親しもう。そうすれば自分にどうして優しくしないといけないといけないかわかる。人ができることが普通にできない理由も明らかになる。それで自分を責めなくなる。女が嫌いといっても、どこの職場にも女はいるとか言う言い草が気に入らない理由もわかる。どうして女ともめないといけないのかと思う。愚の骨頂じゃないか。絶対にありえないことだ。
おばはんとかブスとか相手にしない自由というか権利があると気付いた。絶対に変なおばはんとか相手にしないでいいのだ。母親とか変なストーカーみたいになっているからもう相手にしないでいいのだ。町ですれ違う変なおばさんと稼動していちいち相手にしないといけないのか。絶対に女なんか相手にしてはいけない。損するのだ。損するんだから相手にしない権利があるのだ。善良であるということはどこまでも権利を主張できるということだ。正当防衛の理論。クリーンハンドの理論だ。クリーンハンドといえるためには本当にクリーンかいつも気をつける必要がある。心の洗濯をしよう。関西人の根性の悪さに毒されないように気をつけよう。関西人にはついていけない。何が人情だ。非情の町だ。善良であろう。そのためには色々気をつけないといけないことがある。私の父は電車や宿の予約をしない人だった。常識としてやった方がいいことをやらない人だった。そこのところの食い違いが一番大きかった。もうそのことは言わない。私のほうが悪い。しかし病気だったのだから自分を責める気には全くならない。そうしてはいけない。自分が余りにもかわいそうだ。私が一番精神的に傷つきケアーが必要だったときにケアーが全く得られなかった。大学時代もそうだし、病気になったときもそうだ。ずっとケアーが必要だったのだ。今も必要だ。これからもずっと必要だ。自分を酷使してはいけない。自分をいじめてはいけない。自分をかわいそうだと思わないといけない。自分を本当にかわいそうだと思わないといけない。温泉旅館に行っても自分を守れない。行かない方がいいと思う。元気だった頃であれば、何とかして自分を守ったろうが今は守れない。職場に言っても自分を守れないだろう。どうして自分で自分を守れないのだろう。自分で酒を飲んで薬を飲んでしまった。記憶が飛んでしまった。すごく頭が弱くなってしまった。気が弱くなってしまった。善良である以外とりえがなくなってしまった。でもいい。善良で人と自分を大切にできるならば何とか生きていける。父は思えば私と全くコミュニケーションができなかった。いつも薄気味悪そうに私を見ていた。全く私の気持ちがわからないようだった。私も父親が何を考えているのか全くわからなかった。私の苦労して築き上げた利益を簡単におじゃんにしてしまうような乱暴さがたまらなく嫌だった。妬みでもあるのかと真剣に思った。積もり積もったものが爆発してぶちまけてしまった。それから父は急速に衰え、がんに侵され、あっという間に死んでしまった。私は病気だったので自分を責めることはできないが、誰か神のような存在が救ってくれればと思う。どうしてあれほど惨めな状態に放って置かれたのかわからない。私はケアーが必要な状態だった。明らかにそうだった。絶対に女なんか相手にしてはいけない。絶対に損をする。優しさがあだになる。理解することなどできない。魔物だからだ。絶対に言うことを聞かない。理性で理解することなどできない。あの温泉に何をしに行ったのだろう。あの全くエアコンの効かない確実に風邪を引く、実際に風邪を引いた部屋に故意か過失か知らないが、嫌がらせのように泊まらされて、何であんな思いをしないといけないのか全くわからない。何でやせ我慢をしないといけないのかわからない。何で金払っていじめられないといけないのか。あの似非カウンセラーも同じだ。何で貴重な時間を使っていじめられないといけないのか。あの変なサークルもそうだ。何で金払って好きでもない外人と話さないといけないのか。どれだけ辛いと思っているのか。自分をいじめてはいけない。
次回のzとの面接も不愉快なものになりそうだ。何か何で人の機嫌を取らないといけないのか全くわからない。温泉なんか二度と行かない。何であんな苦労して金と時間と労力を使っていじめられないといけないのか全くわからない。何でこんなことになるのか全くわからない。


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