昨日は何度も目が覚めた。朝も早く目が覚めて苦しんだ。今までは良く眠れていたのに。嫌な感じがする。不安でいっぱいになる。薬で十分眠れていたのに眠れなくなったら今以上に調子悪くなる。それを思うと苦しい。神に祈りたい。きっと治るだろう。元はといえば梅を見に行って風邪をひいて風邪薬を飲んで、酒を飲んで、耳がおかしくなって耳の薬を飲んだら耳鳴りがするようになった。薬に頼りすぎなのか。酒を飲んだのが悪かったのか。何が何だかわからない。耳鳴りはすぐなれるだろう。今までも慣れてきた。きっと乗り切れる。生き抜くんだ。死にたいなんて決して言わずに、しっかり生き抜くんだ。 頭がボーっとする。眠れないのは恐い。今まで眠れていたから何とか持っていたのに、眠れなくなると恐い。パニックになるんじゃないか。 朝目がしょぼしょぼした。やっぱり熟睡できていない。今日は仕方がない。だんだん慣れてよくなってくる。 しんどい。今日は眠れるだろうか。薬を飲むから大丈夫だ。何か恐い。病気だから仕方がない。自分が病気持ちだという自覚を持ったほうが良い。大学のときはっきりしたが、結局生まれつきだ。悪いことをしてもだめだ。良いことをしよう。寝ていると死にそうになる。いよいよ私もだめか。死んだりしないよう、頑張って生きるのだ。姉が田舎暮らしをするそうなのでついていくか。貧乏でもいいじゃないか。ストレスを減らさないと死ぬ。超高層マンションなんて心身に良くない。仕事しないと生きていけない。もしくは年金だ。脳がダメージを受けたことは深刻かもしれない。でも頑張ろう。それは回復するだろう。田舎へ帰ろう。田舎にいるときだけが自分らしくなれる。でも医療は整っていた方がいい。私は病気もちだから。あの医者は名医じゃないかと思う。よく眠れるようになった。ちょっと耳鳴りでおかしくなっているが基本的には正しいのじゃないか。医者に甘えても仕方がない。親切じゃないとか言っても仕方がない。自分の足で立つのだ。不安とパニックでおかしくなっている。文章がおかしい。というか精神状態がおかしい。夜眠れないからか。今日薬を飲むから大丈夫だ。頑張ろう。私は何も悪くない。 しんどい。酒を飲んで薬を飲んだのは良くなかった。脳がダメージを受けた。もう何回も言っている。今日はまた調子が悪い。本当に今日はしんどい。強がりを言う気もない。精神病だと認める。重いものではないが、病気に逃げ込みたい。寝ているのさえしんどい。ストレスを与えない方がよい。ずっと寝ているなんて可能だろうか。外出はしんどい。死にたいとか思うところが恐い。絶対に死んではいけない。生き抜くのだ。田舎に行っても貧乏になっても必死で生き抜くのだ。人生の楽園を見よ。弱き人々も必死で生きているではないか。私なんか弱者の最たるものだ。体の病気なら何とかなりそうだが、心の病気はなんともならない。 女の相手なんて馬鹿みたいなことはできない。今は本当にしんどい。だから免除されているのだ。女と争うなんて自虐以外の何者でもない。何でそんなことをしないといけないのか。女なんて憐れな生き物だ。何で私が相手をさせられないといけないのか。私は免除されている。女の相手なんか。腹も立たないし、病気でしんどいのだから相手になんかならない。免除されているのだ。あの鬱陶しい似非カウンセラーも同じだ。理系の奴にカウンセラーなんかできるわけないじゃないか。今は病気が再発してまずいことになっているのだ。だから色んなことを免除されている。女に腹は立たないし、喧嘩する義務なんかあるわけないじゃないか。 調子が悪くなると喧嘩しそうになる。それは病気だから仕方がないのだ。原ザリのせいでそれが固定してしまっている。通常は仲良く普通にできるのが、原ザリのせいでおかしくなっている。それも広い意味で運命と考えれば、慎重に治していくしかない。 調子は悪いが、自分がいつになく見通せた気がする。生まれつき、ちょっと具合が悪い。よく考えたら、幼稚園のときから喧嘩したり、悪さしたり良くしていた。中学のときも喧嘩したことがある。それだけなら普通だが、教師への反抗や問題児との付き合いや、不登校、共産主義への傾倒、耽美主義、芸術至上主義への傾倒、家庭内暴力、やっぱり変わっていた。同性愛的傾向。女子への嫌悪。性倒錯。そういう積み重ねが病気への下地を作ったのか。それ自体がある種の環境というか培地となったのだ。自分に似せて掘った穴がますます病気を重くしていった。これは自分の力では始末に終えない。私がまともだったときはなかったといっても良い。友達が一人もいないし、恋人もいないし、結婚もできない。見合いもしたが、よほど変に見えたのか一度もうまく行かなかった。諦めた覚えはないが、うまくいかないのだから仕方がない。ロジャース流のカウンセリングはついに及ばない場所に私がいることが明らかになった。あのおっさんに出会ってから、カウンセリングという軽い洗脳、egという重い洗脳、b校での自己洗脳。色々あったが、それは私の変化をもたらしはしなかった。隠された統合失調症の地金をついに明らかにしただけに終わった。それでも仕方がない。いずれこうなる運命だったのだ。前の医者は私が統合失調症であるとは思わなかった。でも今の医者は初めから私をそういうカテゴリーで見ている。色眼鏡で見ている。私を客観的に見るにはそういうものが必要かもしれない。現に薬が劇的に効いた。私は真にオリジナルな人間と思っているが、100人に一人のありふれた病気だ。それでも社会から排除されるほどの変わりようだ。どうして変わっていると思われたいのか。普通がいいじゃないか。自分がそういう素地を持っていることを認識し、少なくとも女に腹を立てるのだけは絶対にやめよう。全くもったいない話だ。どうして女なんかと喧嘩して貴重な時間と職場を失わないといけないのか。ロジャース流の人格改造を試みたばかりに古い地層の病巣があらわになっただけだ。これをもっと大事にした方がよい。私は再発しないで順調に年を取ることはできなかったのだ。こうなったのはむしろ良いことなのだ。ここでじっくり医者の言うことを聞いて、薬を飲んでいればいいことが起きる。寛解である。これは派手なロジャース流の感動とか出会いとか真の理解とかそんな絵空事、健全なノイローゼ圏の皆さんのお遊びとは違う地味で純粋医学的な世界の出来事だ。私が復帰できるかどうかはそういう観点からじっくり見た方がいいのだ。統合失調症の本を読んでいるときが一番落ち着くのはそのためだ。医学的な視点が必要なのだ。私の真にオリジナルと思えた精神はたかだか100人に一人のありふれた精神疾患に還元されたが、それはすごく安心できる嬉しい話だ。私が抗うつ剤と、ロジャース流と、b校によって多幸感に包まれていたのは一時的な出来事で決して長続きするはずのない出来事だったのだ。これからは長期的な観点で、じっくり治していこう。 脱洗脳が必要なんじゃないか。あの似非カウンセラーからの、egからの。宗教的な方法で私の病気が治るとは思われない。統合失調症の本にはそんなことは一行も書いてない。文学にのめりこむことは体弱いからk1やりますということと同じだ。止めた方がいい。書くことは揺り戻しがあると作家がいった。それは私にはこの再発休業であることはあきらかだ。より高い視点、あの医者の視点が必要だ。あの医者は私を統合失調症と思い込んでいる。確信している。脳波がおかしいといわれたこともあるから、遺伝的なものだろう。親兄弟も発病はしないにせよ、50歩100歩といってよい。私はより遺伝的環境的に強かったのだ。こうなったらそれなりに生きていくしか仕方がない。人の憐れみを受けることなく、軽い障害者として生きていく。必要な援助はしっかりと社会から求める。この病気は跡形もなく治癒するものではないらしい。現に中年期の危機に際して再発して来た。これは私がやり方が悪いとか道徳的におかしいとかではない。私を今後道徳的に非難するものは間違いとみなす。薬を飲まないで調子悪くなるというのは別だが。私は心の病気ではなく、脳の病気だから、宗教は気休めしかならない。宗教はアヘンであるというのと同じだ。父親にとって、酒が逃げ道だったのだろう。心身強健であってもいじめれば悪くなる。体育会系的なやり方は心には通用しない。まして統合失調症には。私のようなタイプにとっては、答というのはない。ロジャース流の悪い点は万人共通の答を押し付けることにあるが、統合失調症患者にはそんなことは無意味だ。道徳的にあがくのも意味がない。薬しかない。今日眠れればいいな。あの医者は薬を飲まないこと以外は何も言わない。時間がかかろうが気にしない。焦っている風はない。時間がかかるものだとわかっているのだろう。今私は精神のコントロールを失っている。こうなったら、似非カウンセラーに正常な振りをすることも不可能になる。何でそんな演技を強いられないといけないのだ。私は恨みなどはない。でも私をきちんと理解してほしいだけだ。kやh、似非カウンセラーは理解できていない。しようともしない。道徳的な問題とみなして脅しにかかってくるのだから、カウンセラーさえ失格だ。私を道徳的に非難するな。理解しろ。援助しろ。ケアーしろ。原ザリのせいでより強く発症することになったが、結局カウンセリングを受けることが、今回の再発の引き金になったのだ。そう確信している。言われるままにegなんかに行って、勢いでb校に行って、多幸感に包まれて一見調子良かったが、結局自分をコントロールできていなかったのだ。だから原ザリなんかにひどい目に遭うのだ。原ザリというのは私が会った中で一番ひどい人間(?)だ。会わない前に戻れるものなら戻りたい。人格崩壊のきっかけを作ったのだ。似非カウンセラーにはできるだけ会わないほうが良いんじゃないのか。非難しているのではなくて、全く理解していない。自分がやっていることを理解していないし、私の病気を理解していないし、何も理解していない。理解していたら、egなんか勧めるわけがない。egで味わった多幸感は統合失調症が発病したときに味わったものだ。統合失調症であれば援助が必要だ。年金をくれ。生活保護をくれ。働けないのだ。働きたくても。妄想が邪魔をするのだ。障害者を虐待するな。原ザリのやっていることも似非カウンセラーのやっていることも全て虐待だ。ロジャースが統合失調症患者のカウンセリングをやっているのを読んだことがあるが、虐待そのものだった。自分がやっていることを理解していない。私はegの被害を受けた。あんなものは非合法化すべきだ。どうしてあんなものが太陽の下で行われているのかわからない。ついでにいけ好かないロジャース派も一掃してくれ。私には有害でしかない。私がここまで悪化したのは似非カウンセラーのせいかもしれない。私はそう確信している。それなのに私を道徳的に非難したり、モラハラしたりするとは心底おかしな奴だ。全部否定してやればいいのだ。私を理解せず、道徳的に非難したり、モラハラする奴は全否定すれば良い。どこまでお人よしなのだ。お人よしが結局悪化させたのだ。小さい頃からお人よしが病気を発病させたのだ。全ての人を救いたいとか訳のわからない妄想の発端はお人よしな性格にある。 女が嫌いといっても女はどこにでもいるとか、全く理解していないせりふを並べる。ロジャース派は正常な人間を相手にするので仕方ないが、理解していない。幻覚なんかないといっているのと同じだ。ないに決まっているが、その人にとっては実在するのだ。そんなものはないから認めないといっているのはその人の助けになるだろうか。全くならない。私は心底異常だ。そう考えた方がいい。この数年間の対話は正常を装った人間とそれに騙された人間の虚しい会話だった。それこそイリュージョンだ。私は正常だったことがないから正常な人間がどういうものかわからない。世間は私を理解できないし、私も世間を理解できない。理解していないのに理解していると思い込まないでほしい。私も理解してもらおうとしないほうが良い。egなんかでも女が嫌いといっても全く理解されなかった。別ににんじんが嫌いとか蛇が嫌いといっているのと同じことなんで、大騒ぎすることはない。ただ私の場合は妄想と結びついた病的なものなのでそれを道徳的に非難するのは当たらない。全く理解していない証拠だ。私は何回となくhと酒を飲んだが、全く理解できなかったし、理解されなかった。理解なんかできるはずがない。同じ病気でない限り、医師でない限り、理解できないのだ。何で挨拶しないのか。病気だからだ。殴って言うことを聞かせたとしても同じだ。何も変わりはしない。そういう意味では私は正常だったことは一度もない。正社員であり続けることの方が不思議なのだ。病気であればやめるしかない。ただ理解され、薬でコントロールできるようになれば働くことは可能かもしれない。今までは可能ではなかったことが可能になる可能性はある。ただあのカウンセラーではだめだ。医者の薬を飲むことしかない。hやkと理解し合おうとしたが無理だった。私が道徳的に悪いのではない。父親が道徳的に悪いだろうか。酒を飲みすぎるから悪いのか。そうではない。持って生まれた性格で遺伝なのだ。道徳的に非難する余地はないのだ。家族は皆おかしいとわかっているが、非難することはできないのだ。これから新しい世界が開けるかどうかは辛抱強く薬を飲むことができるかどうか。休職期間内に自分をコントロールできるようになるかどうかだ。もっとも期間が切れたら切れたで、年金とか何か生きていく道はある。そちらの方が幸せかもしれない。できもしないことをやれといわれるよりは。父親だって会社勤めなんか向いてはいないのだ。インドネシアのジャングルを駆け巡っていた頃だけが青春だったのだ。私は父親が理解できないということにおいて理解できた。私が理解できない人間という風に理解してもらいたいと望んでいるように。 理解してもらわないといけないだろうか。理解できない人間は理解できないのだ。hもkも似非カウンセラーも決して理解できないだろう。親兄弟でさえ無理だろう。理解できないという病なのだから。幻覚や妄想が理解できるか。むしろ援助しろ。私は父親を理解したかった。理解できない父親が許せなかった。でもそれは間違っていた。理解できないから傷つけるという行為は間違っていた。私が今悩んでいるのはそういうことだ。私が理解できないから傷つけられるのは困る。絶対に困る。差別や偏見も困る。父親は自分が理解できないと同様に世間をよく理解できなかったのではないかと思う。知的水準とは関係なく性格の問題だ。私と全く同じだ。私は病者として生きていくしかないのではないかと思う。それは恥ずかしいことではない。むしろ自然なことだ。薬でコントロールはできるから、その範囲内で生きていこう。あの医者はこの病気を相当深刻に考えているのではないかと思う。確かに深刻な病気だ。ある意味では。失業の危険が高い。社会から排除される。差別や偏見もある。その意味では復帰を急ぐ私の態度は危なっかしいのだろう。物が良く見えていないのだろう。自分が良くわかっていないのだろう。似非カウンセラーの路線の上には私はもういないのだ。理解できない人間からモラハラされたり、脅されたりするいわれはないのだ。私は再発してしまったようだ。でもそれはあの似非カウンセラーのせいではないか。そんなことの責任を全く感じない厚顔振りには頭が下がる。私は私のペースで治していこう。自分の時間を使う。そういう英語の言い回しがある。そういうことだ。原ザリに会わなかったら、楽しい人生を送れていただろうか。そういう仮定は虚しい。歯車は再発という方向に回り始めてしまった。原ザリ一人のせいかどうかもわからない。自分の行為全てがそちらの方に向かっていたのかもしれない。再発したと思うほうが自然で、正しい。時間がかかる。あの医者の落ち着き払った態度は我慢ならないと思っていたが、そうではない。私の病気の本質を見抜いているのだ。社会のために有用に使うべき労力、時間を無意味な自分探しに空費してしまい、もっとも大事な人間を傷つけてしまったのは申し訳ない。でも病気だ。病気のせいなのだ。そのことを自分でも理解できない。病気だということを理解できていない。だから自分を許せない。病気を理由に罪を逃れたいのではない。罪は甘んじて受ける。でも明らかに病気だったということだけは理解すべきだ。それを理解できなかったら、自分を理解できないし、また繰り返す恐れがある。病気だから治療が必要だし、注意やケアーが必要なのだ。自分の病気をコントロールできるようになりたいと思ったら、お人よしをやめることだ。お人よしが病気の原因になるようだ。お人よしだから悪い仲間を許し、付き合ってしまう。自分が苦しいことをしてしまう。自己犠牲をしてしまう。hやkは異常な人間だが、お人よしではない。だから病気にはならない。私も素質を持っていてもお人よしでなければ発病しなかったかもしれない。時間は前にしか進まない。過去を振り返っても仕方がない。私は運が悪かったが、病巣を発見することができた。これができて初めて治療ということが意味を持つ。治る可能性が出るということだ。過去の自分の罪の意味がわかる。妄想と狂気という病気が私を乗っ取って罪を犯させたのだと解釈できる。これをうまく説明することはできないし、誰に説明する必要もないことだ。そうすることはこの上なくお人よしな行為であって、再び私を深甚な危機へといざなうであろう。 私が元気であればこんなことは言わないが、元気でなくなった以上、自分を守らないといけないのだ。頭が痛い。また風邪をひくのだろうか。めまいがする。病気が治るというか、自分がコントロールできるようになれば復帰できるだろう。 私の日記は突出している。というかこの日記サイトで日記書いている奴いねえし。それでもいいのだ。私はここが気に入っているのだ。脳がダメージを受けていてもいいだろう。今のうちに統合失調症の治療をしよう。それからボケが治る。そして復帰する。あんな奴にカウンセリングしてもらうのは嫌じゃないか。結局会社側の人間なのだ。組合と同じだ。統合失調症の話に戻ろう。中学のとき、既に前駆症状があって、学生時代に発病した。これは客観的に間違いない。それで治ったわけではなく、人格に深い痕跡を残して潜行した。引きこもりという形でそれは生き延び強化された。何も解決はしていないし、治癒はしていない。次の会社は首になったし、今の会社も配転の連続だ。しかもついに病気休職になった。でもこれで治っていないということがはっきりしたし、小手先の治療ではだめで、根本治療が必要だと確信した。カウンセリングは効果がないどころか、有害でさえあるとはっきりした。ロジャース流のカウンセリングが適用するのはノイローゼ圏の正常な人間だけだ。私は心底おかしい。おかしい人間であろうと努力してきた。そういう人間にカウンセリングは有効ではない。唯一有効なのは統合失調症に有効な薬だけだ。
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