柊小説

2006年02月23日(木) アカイヌクモリ  ―――�后檻院宗�

 目に映るもの全てが歪んで見えた。
永い間眠っていたような感覚で、リビングは破滅した世界のように静まり返っていた。そのあまりの静けさに不気味さを感じ始めた頃、突然リビング全体を煙とも霧ともいえない白く霞む不気味なものが覆った。僕はそれを見て反射的にリビングから脱出しようと体を起こそうとした──が、目覚めてからそれほど時間が経っていないせいか、金縛りのように硬直して動かすことができなかった。そして、白く霞むそれは徐々に濃度を増して瞬く間にリビングを真っ白に染め、僕の方向感覚を完全に狂わせた。また、体が動かないことと真っ白な異次元空間に変わってしまったリビングが、僕の心に焦りと混乱を招き入れた。──何も見えない……。何も聞こえない……。動けない……。すると突然、影も形も見せない何かがゆっくりと僕に迫って来る気配がした。何なのかわからない。ただの虫なのか?それとも鳥のような動物なのか?いや、生き物とは限らない。音波、風、大洪水で浸水し、水嵩を増した雨水──。水……?瞬時的に椅子を後ろからすごい力で引っ張られ、猛スピードで遥か彼方の砂漠地帯まで、いや、幼児期の頃まで引きずられるように記憶が甦ってきた。僕はそれほど遠くない過去に、幻覚によって深海に沈められた記憶がある。けど、その時の記憶があまりない。思い出そうとすると意識が朦朧として体ごとどこかへ吸い込まれそうだった。どうして!?僕は激しく自分に過去を問い質していた。
そんな夢と現実を行き来しているような状態から、ゆっくりと頭の中で半透明に揺れながら浮かび上がってきのは、ヒトミと仲間の顔、それと──一人の見知らぬオッサンの姿だった。僕は朦朧(もうろう)とする意識の中、そのオッサンに言った。
�爬;.謄瓠爾蓮�誰だ……��
オッサンは無言で立ったまま僕を見ていた。顔はぼやけてよく見えなかったけど、小太りで露出が多く、片手に何か持っていた。
何だよ、それ?そうオッサンに近づこうとした時、それまで思い起こすことができなかった�爐△了��瓩竜�憶がはっきりとした光景で甦り、僕を震え上がらせた。同時に、ゆっくり迫っていた何かが、急速に勢いを増してその距離を縮めていた。
�爐發掘帖椎�っているのがオッサンなら、今度は確実に……殺される──!��
僕は恐怖でもがこうとした、逃げようとした、叫ぼうとした──体は硬直から解けていないことはわかっていたけど──。そして、恐怖心で自分を失いかけた時、顔すれすれまで迫っていた何かが動きを止めた。けど、異次元空間に変わってしまったリビングはそのものの姿を僕の目に写そうとはしてくれなかった。ただ……その姿を見せない何かは僕を懐かしいというか、微かに恋しいという気持ちにさせた。明らかに鉄パイプを握ったあのオッサンではなかった。
 気づくとその姿、形も見えていない何かへ僕は抱擁をせがむような感情を抱いていた。その見えない何かがどんなものであろうと──。そうしてくれれば、この夢と現実によって混成されたリアリティのない世界から抜け出せる気がしたからだ──。

 「おっす」

その、いつもどこかで聞いていた優しくも憎たらしくも感じる声が聞こえた時、ずっと僕の視界を遮っていた真っ白な異次元空間が嘘のように一瞬にして消え去り、元のリビングへと姿を戻した。何年も見続けてきた当たり前の光景が視界いっぱいに広がった──。そして、顔すれすれまで迫っていた得体の知れない何か──それは、紛れもなく母親だった。母親は正面から僕の目だけを見て微笑んでいた。いつもながら──スッピンだった。僕も正面にあるふたつの目だけを見ていた。二人の距離は鼻の頭が掠るくらい近くて目がみっつに見えた。母親の顔をこんなに傍で見たのは幼い頃だっこをせがんだ時以来だ、と思いながらしばらく見合った。事実、この時もそうせがみたい気持ちだった。そのくらい人恋しくなっていた。存在するもの全てを幻に変えてしまうような、あの不気味な白濁の世界はそれまで座っていた僕の胆を伸び上がらせた。
 母親は僕の頬や頭を撫でるように触れ、その度に口を硬く結んで深呼吸をしていた。そして、この時の視線は何故か俯き加減だった。次第に僕はその意味不明な母親の行動にうっとうしさに似た不快感を覚え、顔を背けようとした──が、体は相変わらず硬直したままだった。視界が元に戻ったことで体も当然動くだろう、と思い込んでいた。──微かに嫌な予感がした。母親のテンションも接し方もいつもとは明らかに違い、不自然だった。そんな僕の不安な気持ちを悟ったように母親は首を少し傾げながら一瞬目を閉じ、息を呑んた。
「話すことはいっぱいあるけど……とりあえず始めに。今日は、九月十六日。時間は十四時二四分。シドがこの家に戻ってきて十日目。いきなり何言ってんだって思うかもしれないけど……聞いてて」
戸惑いや怖さ……いろいろあったけど、ここでゴチャゴチャ考えても仕方がない、と僕は何も構えずに母親の話を聞くことにした。
「五月二九日……正確には五月三十日の早朝、あんたサジたちと車で峠に行ったでしょ?それから明け方帰ってきて、勝手口の前で誰かと揉み合いになって頭を三回……鉄みたいな硬い棒で殴られた──までは覚えてるよね?あの日から……今日までの間、シドの身体に何が起きたかってことと、私たち家族とシドの友達、それとヒトミちゃんはその間どうだったのかをこれから話すね……」
ずいぶん渋っているというか、躊躇しているようだった。僕は母親の言おうとしていることが気になる一方、耳を塞いでしまいたいと思うほどの恐怖感に駆り立てられていた。そんな気持ちを抑えるように、言うんなら早く言えよ!と叫ぼうとした時、母親は僕の膝にゆっくり額をつけてから手を握りしめ、それから話し始めた。


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柊大地 [MAIL]

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