| 2006年02月25日(土) |
アカイヌクモリ ―――�后檻魁宗� |
空白だったおよそ三ヶ月半の話を聞かされてから二週間が過ぎようとしていた時、僕は植物人間としての新しい未知の生活リズムに追われていた。もちろん生きることに前向きになっていたわけではない。相変らず拒否し続けていた。 放心状態で毎日を送っていたせいか、気づくと二、三日過ぎていることもあったし、逆に二、三日過ぎていると思っても一時間すら経っていないこともあった。また無意識のうちに立ち上がろうとしたり、何かをとろうとしてしまうことも……。そうすると、当然体が動かないという現実に直面する。そこから失望感が湧き上がり、死にたいという気持ちが僕を浸していくのだった。
朝、目が覚めると必ず母親が僕を覗き込んでいて、 「おはよ」 と声をかけ、そのままベッドの上でオムツと一緒に服も着替えさせられる。時間は決まって八時から九時の間だ。初めてオムツ替えをされた時、僕は放心状態の中でももがけないことをわかっていながら必死に抵抗した。けど、家族に映る僕は抵抗も何もせずにただ黙って天井を見ているだけだ。そう思うと諦めの気持ちも湧いてきた。また、オムツ替え同様、下半身を全裸にさせられた時ジュニアを見られることも確かに屈辱的だったけど、それ以上に機能しないものになってしまったということが辛かった。機能しないというのは排尿ではなく勃起のことだ。自分は性欲とは一切無縁の人間になってしまった。時々オムツ替えや下着を替えている際、鏡に映る萎えたジュニアを見る度に生きていることが嫌になった……。 �爐匹Δ靴董帖弔匹Δ靴堂兇世韻�こんな目に──!�� そう失望感を自ら煽ることだけが唯一、僕の居場所だったのかもしれない──。 車椅子に乗せられてリビングへ。リビングへ行くまでの段差、家の中の車椅子が通る段差は親父の手によって全て傾斜に改良されていた。 リビングにいる時は必ずロッキングチェアに移された。その時、それが当然のように母親は、よいしょ、と僕を持ち上げた。か細い体のどこにそんな力があるのだろう、と僕は意識の片隅で不思議に感じていた。ロッキングチェアに座った状態で顔を温かく湿ったタオルで拭かれ、どこに行くわけでもないのにハードジェルで寝ている髪を毎日逆立たせられた。この顔と髪をいじられている十分から二十分の間、僕の視線の先には二段に積み重ねられた点滴の薬品が入っている段ボールがあった。 �爐△譴�──俺の命を……!�� 母親が僕の髪をセットし終えた後、朝のニュース、昼のバラエティー、ワイドショーを見る(毎日芸能界でのスキャンダルや世間で起こっている事件を多く耳にしている僕は、どこの学生よりもその手の話題の数に関しては長けていただろう。まあ、この時はスキャンダルも事件もどうでもよかったけど……)。この時も、母親はただぼんやりと椅子に座って動かない僕とは対照的に、点滴を始め、オムツ替え、よだれ・鼻水の拭きとりをしていた。その姿はまるで株式市場で働く人のように忙しなかった。 家族が僕を介護をしていく上で命の次に心配していたのは床擦れだった。悪化すると患部に穴が空くと聞いた時はさすがに僕自身も驚いた。家族三人は、何が何でもそんな痛い思いはさせたくない、と言い二、三時間置きに僕の体勢を変えたり、背中やケツの間にクッションを入れたりしていた。それは、本来なら誰でも熟睡しているような時間帯でも交代でやっていた。 十四時から十六時の間に例の僕自身の話を聞かされる。毎日同じ時間帯に同じ話で四、五日経った頃にはまるで般若心経を聞かされているようだった。 母親が夕食を作り終えた頃、カオリが帰宅する。そして、帰宅すると何をするよりも先に僕の前で屈み、 「ただいま、シド」 と言い僕のうなじの辺りを二回、ポンポンと叩くのが日課になっていた。カオリが帰宅してからしばらくすると親父も帰ってくる。親父は不規則だった仕事の時間を僕がこうなってしまったことで、朝から夕方までに変更した。親父は親父らしく僕の頭に手を置き、軽く揺らしながら帰宅を告げた。 親父とカオリが揃うと、母親は冬眠するヘビのようにソファーで体をまるめて眠る。その姿を見る度に、僕がいなければどれほど家族が自分たちの時間を自由に使えるだろう、と思わされた。 母親がソファーに倒れ込んだ瞬間から役割は二人にチェンジされる。親父とカオリが共同でする僕の介護を母親は一人でこなす。慣れもあるだろうけど相当な疲労感があるだろう。そのためか、休日母親は家のことも僕のことも全て二人に任せていた。二人は母親に比べると、点滴、オムツ替え、体拭き、と何においても手際がいいとはいえなかったけど、僕が眠りに落ちる二二時前後の間は懸命だった。 三人は点滴等で僕の体に触れる時、必ず微笑みを向けた。僕はそんな微笑みから力ずくで必死に目を逸らそうとしていた。僕の体に触れるということは、僕を延命させるということだ。申しわけなさや感謝の気持ちを力任せに押し退けて、いい迷惑だ……そう思っていた──。
休日になると、行きたくもない散歩に僕は強制的に車椅子に乗せられ、カゴに入れられた子犬のように外へ連れ出された。 意識が戻って初めて僕を散歩に連れ出したのはカオリだった。家を出る前、誰が僕を連れて行くかで三人は揉めていた。甲高い母親の声に対して、その声を封じてしまうようなカオリの冷静な声。そして、二人の間に割って入る中年なのか若者なのかわからない親父の声──。結局、親である二人は家族で一番知的なカオリに上手くまるめ込まれて堕ちていった。 登下校でいつも通っていた道をカオリに押されてゆっくり進んだ。気力もなく、何も見る気がしないのに、あの日まで僕の目線の下にあった消火ホース入れや、�爛船�ンに注意�甅爛瀬瓠▲璽奪織き瓩隆波弔�今度は逆に見下ろしているかのように僕の視界に入ってきた。そして、木や草、空の色もあの時とは変わっていた。夏を感じさせる季節から冬を感じさせる季節へ。何気なく目に入っていた五月二九日と見ている景色は変わらないものの、三ヶ月以上の時の経過を見落としている僕には、目に映った季節の流れの早さが現実だとは思えなかった。また、すれ違う人や走行している車の中の人は僕と僕を押すカオリの姿を見て何を思っただろうか。�犲岼愡劼魏,靴討觧劼浪搬押帖弔い簇狃�かな?どっちにしても大変だな、障害者を介護するのは。本人よりも周りの人間の方が先にダウンしちまうよ�瓠△箸任盪廚辰討い襪里世蹐Δ�。僕がもしその立場だったら、そう思うに違いない。『障害者と介護人』それを同時に見た時、事情を知らずに障害者に同情する人間はほとんどいない。先に同情を買われるのはいつだってそれにつき添う介護人だ。僕は唾を吐き捨てるように夕焼けでサイレン灯のように染まる空を見つめていた。
いつの間にか、僕とカオリは学校付近の通りまで来ていた。休日で外の部も練習がなかったようで、グラウンドはいつか夜中に忍び込んだ時のように静かだった──。そんな時、カオリが急に足を止めた。 「あっ、煙草が落ちてる。もしかして、シドの友達のじゃないの?ここって人も車も全然通らないでしょ。ちょっと見て」 カオリはそう言いながら煙草を拾うと僕の目の高さまで持ってきた。セブンスター──。しかもまだ長いうちに揉み消されている。これはシンジだ、間違いない。三、四口吸って消してしまうのがシンジの吸い方だったのをこの時思い出した。この煙草がシンジの吸ったものだとカオリが知ったら、ヒルのように吸いついていただろう。 仲間──。そう思った瞬間、あの何をやっても楽しかった日々がフラッシュバックとなって、頭の中だけではなく目の前にも飛び交った。 シンジとリョウコの関係はあれからどうなったのか。進展はあったのだろうか? サジは僕の容態を知って心配を装いながらも、相変らず�爛殴蹐�せー�瓩鯱�発しているのか? リョーキはあの日、何故連絡がつかなかったのか? 無感情のヒロトは、この植物人間という僕をどう思うのだろう? そしてヒトミは──?全て心配だ。ヒトミの身体、精神状態。──僕への気持ち。 僕が退院して自宅療養に変わったことをみんなは知っているのか?知っているのなら会いたい。けど──こんな姿はどんな仲であろうと絶対に見られたくない。僕はこの時、自分は死ぬことを望んでいるのか、それとも仲間たちに励まされて、生きる──生きようと思う気持ちを与えてもらいたいのか、どちらだかわからなくなっていた。そして、無気力の中の葛藤で頭が破裂してしまいそうな時、止まっていた車椅子が動き出しカオリが独り言のように語りかけてきた。 「──大変だったんだよ。シドが入院してる時も、帰ってきてからも……。大体のことはお母さんから聞いてると思うけど、私が引っ叩かれたこととかね……。自分でも何であんなこと言っちゃったんだろうって思うけど、あの時は本気でそう思った。──お母さんが見せたあの時の顔、私は一生忘れない。震えるくらい怖かったけど、それ以上にすごく悲しそうだった……。お母さんじゃないみたいだった……」 ふと気づくと、カオリは声を詰まらせながら泣いていた。 「どうして……どうしてこんなことになっちゃったの。何でシドが──!もっと話したいこととかあったのに、もっと頼ってほしかったのに──。やっと……やっと私たちの溝が埋められたんだよ!なのに……。前にさ、シドに、義理だとか本当だとか関係ないって言われた時あったでしょ……?私……すごく嬉しかったんだよ……」 カオリはその場で十五分くらい僕の肩に顔を埋めて泣き続けた。そして最後に、 「心配しなくていいから。いつでも私が傍についてるからね……」 普通ならずっしり心に響く感動的な言葉だ。けど、僕にはそれが社交辞令の挨拶のように軽く、薄っぺらいものにしか聞こえず、家に戻る頃にはすっかり頭の中から消え去っていた。
カオリとの散歩から数日が経ったある真夜中、ほとんど目を覚ますことのない僕は何故か天井を見つめていた。そこでたまたま僕の部屋にいた親父と目が合った。親父は、おう、起きてたのか?と驚いた様子で覗き込むと何も言わずに僕を車椅子に乗せて外へ出た。 「今、夜中の二時過ぎ。不規則な生活は極力避けてくださいってシラギに言われてんだけど……まあちょっとつき合えよ」 親父は僕を押しながら学校とは逆の方向へ進んだ。道がしっかりと舗装されていないせいか、視界が時々揺れた。 「星が綺麗だな。見えるか?」 僕には遠々と続く暗闇と、群れから逸れた椋鳥の数ほどの星しか見えなかった。多分、親父は真上を見て言ったのだろう。 「マユミもカオリも言ってたと思うけど、お前のいなかった間本当に大変だったんだ。まあ、俺たち以上にお前の方が大変だったろうけど……。この前──カオリと散歩行った時、あいつ何か言ってなかったか?家のこととか……」 �犁磴�じゃくってそれどころじゃねえよ�� 「……俺は正直、家庭が崩壊するのは時間の問題だと思ってた。カオリも同じこと感じてたらしいけど。お前がこうなったことで俺もあいつらも精神状態はボロボロだった。しかも、俺たちがそんな状況だっていうのに、世の中は仕事だの学校だの……平然と動いていやがった。マスコミはうるせえしな。──辛くて、当たり所がなくて、一時は朝が来るのが恐くて震えたこともあった。でも、それを持ち直してくれたのがマユミだったんだ。あいつが�犲�宅療養�瓩辰童斥佞鮟个靴浸�は、俺もカオリもついていけなかった。シラギも無理だって言ってたし、シド自身がそんなことできる状態じゃなかった。でも、必要なんだな……。ああいう状況の時に強引で無鉄砲で一歩も引かない奴──。いいか、マユミのお前への気持ちは生半可なもんじゃねえぞ。多分、自宅療養が通らなかったらあいつ一人、夜中でもお前を病院から連れ出して、俺とカオリを捨ててでもどこか遠くで生きていこうとしただろうな……。とにかく、俺もカオリもあいつの執念みたいなものには息が詰まるくらい感動したんだ。俺の声がお前に聞こえてても、多分、辛い、死にたいって思うかもしれない。でもな、マユミの気持ちだけはしっかり受け止めてやれ……」 �牴兇蓮⊃読磴鵬兇了爐砲燭い辰撞せ�ちを受け止めてもらいたい。母親の気持ちなんかどうでもいい、俺には何の関係もねえ。それに親父の精神状態と俺を比べるんじゃねえよ。仮に俺の気持ちを理解してくれるんなら、管を抜いてここに置いて帰れ──�� 倅観察能力に優れている親父でさえ、僕の気持ちを読みとることはできなかった。親父は落ちつかない様子で煙草に火をつけ、二度煙を吐いた。親父の指に挟まれている煙草の煙が僕の顔の前を過ぎた。久しぶりに吸ってみたいと微かに思った時、煙の匂いすら嗅ぎとれないことですぐにその気は失せていった。 「お前が戻ってきてから、俺とマユミは近所の奴らから直でも電話でも今まで以上に叩かれた」 二人は僕が悪さをする度に近所のタチの悪い夫婦から白い目で見られていた。中には遠回しに嫌味を言ってくる罰当たりもいた。その理由のほとんどが、教育(躾け)が悪い、子供を野放しにしすぎ、両親が若すぎるというものだった。そんな二人は、�犲磴い海箸�悪い教育に繋がるわけがない。それに、その若いことを原因だっていう考え方が理解できない。ただあいつらが萎れてるだけだ�瓠△汎辰傍い砲呂靴討い覆�った。 「そりゃ、多少は同情っていうか、お前のことを心配してくれた人もいたけど、こうなる前にもうちょっとなんとかなったんじゃないの?なんていう奴もいて……。俺たちボロボロだったから、そう言われたことでいっつもイライラしてたよ。──まあ、どうでもいいか、そんなこと。ごめんな、俺の話ばっかりして……。誕生日、もうちょっと早く戻ってこれたらちゃんと祝えたのにな……」 僕はこの時、初めて自分が十四歳になっていたことに気づいた。九月二日、僕は意識不明のまま病院のベッドの上でひとつ年を重ねていた。
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