| 2006年03月10日(金) |
アカイヌクモリ ―――�察檻魁宗� |
「……それでは、コーヒーもきたことですし、そろそろ話を始めましょうか」 一度体勢を整えてからシラギは続けた。 「その前に、いくつかお聞きしたいことがあるので、質問に対してできるだけ詳しくお答えください。大切なことなので」 母親は太くしっかりした声で、はい、と返事をした。──この時、氷の入った淡いブルーのグラスを持つ母親の手が、細かく震えているのを僕は見た。 「……まず、一日四パックの点滴投与は欠かさずされていますか?」 「──ええ。平日の朝と日中は私がやって、夕方というか夜から深夜にかけて、また、休日、祝日なんかの時は夫と娘が共同でやってます」 「薬品の製品ナンバーは毎回確認することをお願いしてますが、ちゃんと一致していますか?」 「もちろんです。ケースだけじゃなく、パックのナンバーも全て確認しています」 「指定されている薬品以外のものを一度でも投与したことはありますか?」 「全くもってございません」 母親の口調には焦りと不安からか、微かに怒りの感情が表れていた。それでもシラギは全く動じることなく緩やかな口調で続けた。 「点滴針は確実に静脈へ入っていますか?」 「それは週に一度の薬品受け渡しの際に必ず先生自身が確認していることですけど……。針の場所を替えた時も同様ですよね?」 「……そうでしたね。すいません。それでは、夜中に無理矢理起こしたりするような不摂生な生活をさせていませんか?」 「私が知っている限りでは、以前夫がストレスから起こった軽いノイローゼで、この子を夜中まで外出させてしまったことがありました。十二月に入ってからだったので体が冷えきってしまっていたために心配しましたけど、それ以外は特に」 「そうですか……。わかりました。では最後です。そのノイローゼの原因となったストレスで、あなたを含む家族のどなたかがシドくんに手を挙げるようなこと、又は身体に負担がかかるようなことをした憶えはありますか?家族以外の人間でも構いません」 「考えたこともありません。それに、そんな人間を家には入れません」 母親はそう答えるとコーヒーを少しだけすすった。そして、身を乗り出すようにシラギへ疑問を投げかけた。 「……あのぉ、先生、それで話っていうのは何なんですか?私の答えたことと、先生の重大な話との繋がりは一体何ですか?」 息が上がりそうなくらい困惑している母親に対しドクターという立場からか、シラギは冷静だった。 「……今日のあなたの様子を見る限りでは、これから私の話すことは全て耳から流れてしまうでしょう。ですから、無駄な言葉は省いて伝えなくてはならないことだけをお話しします。細かいことは後日改めてということに、理解していただけるでしょうか?」 「──私なら大丈夫ですけど……。はい、それでいいです」 シラギの読みは当たっていた。母親は怯えきっていた。微かに震えているだけだったグラスを持つ手は、気づくと中の氷が音を立てながら不器用に泳ぐほど激しくなっていたのだ。シラギは数回大きな溜息を吐いた後、手に持っていたコーヒーカップをテーブルに置き、それから話し始めた。 「シドくんの体重が月に一度の定期健診の度に減っているのは、あなたもご存知のことだと思います」 「──えっ、でもそれは……」 「はい。初診の五月から六月までの一ヶ月間は減ってもおかしくはないんです。というよりも、日常生活の中で使っていた筋肉を全く使わなくなるわけですから、当然のことなんです。しかしですね、ある程度減ってしまうとその後は低迷というか、点滴の栄養だけでどうにか0地点とまではいかないものの、近い状態を保てるようになるんですよ。相当したカロリーを供給しているのですから。それが、シドくんに限っては減り続ける一方なんです。初めの一ヶ月のことはもう忘れましょう。問題はその後なんです。しっかり聞いてくださいね。一般的な生活が送れる人間が減る量としては──当然アップダウンがあるので問題のない数字なのですが、これがシドくんのような患者さんのケースですとかなり深刻なんです。仮に、過去三ヶ月の減り具合がほぼ同じ量ですので、これが五年間継続したらどうなるのか……私なりに推測してみました。あくまでも計算というものだけですけど……。その結果、おそらく五年後のこの時期にシドくんの体重は二十キロを割っていると考えられるんです。身長一七七センチの体がその体重に耐えられることは、私個人的にも医学的な目から見ても不可能といえるでしょう。私もさまざまな方向から考えました。先程訊いたいくつかの質問も、何か原因があってのことだと信じたかったからです。その気持ちを捨てきれなかったからなんです。シドくんの脳の中で起こったことは未だに解明できません。きっと私を含むドクターと呼ばれる全ての人間の手でも、現在のどんな最先端技術でも触れることのできない未知の何かがシドくんの脳のメカニズムを蝕んでいるのだと思います。簡潔的に、いくら栄養を供給してもそれを脳が栄養だと認識できずに不要と指令し、排泄に至るということだと考えています。もちろん、全て流れてしまうわけではないですけど……。これからシドくんの身体に変化が起こるのかどうかということは見当がつきませんが、私の出した結論で、もしこのまま状況が変わらずに体重が減り続けるとしたら、おそらく二十歳まで生きることは極めて難しいでしょう──」 不思議と絶望感はなかった。むしろ心のどこかでずっと待ち望んでいた言葉だったのかもしれない。何の光も見えない生活。考えれば考えるほど現実逃避したくなるような身体──。 �爐笋辰箸海龍貭砲碧萋�からおさらばできる�� 重苦し気にシラギが告げた余命宣告を僕は何度も頭の中で繰り返した。──丁度この時だった。それまで氷が音を立てるほど震えていた母親の手がピタリと止まった。また、その手からは力どころか気力も、魂までもが抜けきってしまっているように見えた。母親にはこの後のシラギの声が届いていたのだろうか……。 「──原因不明ということを逃げ道にしていると思われたくないですし、そんなこと考えてもいませんけど、本当に困難なことなんです。今回のシドくんのようなケースは、二十年以上ドクターをやっていますが過去に例がありません。今私が言ったのは最悪な場合を想定してのことなので、その辺の理解の方を……お願いいたします」 母親は僅かな間も置かずに身を乗り出した。 「先生の言葉の意味が私には理解できません。シドのために全力を尽くして原因解明をしてくれるとおっしゃってたじゃないですか。それなのに……どうして余命宣告なんですか!」 母親はガタガタに震える声を張り上げた。僕は背後から客のOL二人組とウエーターが、何事だ?という視線を注いでいる気配を感じた。それまでグラスを持っていた手は、まるでシラギにすがるようにテーブルの上で半開きのまま硬直していた。──こんな母親を見るのは生まれて初めてだった。 「お言葉ですが、私の医療技術は世界の最先端には到底及びません。それでも先程も言ったように、その世界最先端技術でさえシドくんの今の状況を明確にすることは極めて困難だということなんです。よって私にできることは、今この状況で年をとるとその後はどうなってしまい、それをどう阻止するかを検討し、より効果的な方法で実行することなんです。──すなわち延命です。一日でも長く生きてもらうために」 「それで……シドは?」 搾り出すような母親の弱々しい声に、シラギは俯き額を押さえながら言った。 「……申しわけございません。残念ですが現状では打つ手がこれといってありません。ですが何かをきっかけに打開策は必ず見えてくるはずです。現段階では、それに賭けるしかありません」 「延命なんて……そんなのシドはもう元通りになる見込みがないと言っているようなものじゃないですか!元の身体に……シドに、この子に奇跡は起こらないのでしょうか?」 ダウン寸前の母親に、話術をかけるようにシラギは語りかけた。 「気をしっかり持ってください。それに、考えてみてください。排泄器官が生きていなければシドくんはここにはいないんですよ。そうじゃなくても、ここにいること自体が──。あなたのそう言いたい気持ちは痛いほどよくわかります。それでもね……奇跡というのは起こるはずのないことが起こることをいうのだと思うんです。それは明日にでも突如として起こるかもしれませんし、待ち続けても一生起こらないことかもしれません。それが奇跡というものなのです。それでも断定はできませんが、信じて祈り続けてください。そうすることも大切な治療のひとつだと思いますので。私もドクターという立場ですが、原因追及をしながら祈り続けます。主治医である私がそんな信憑性のないものにすがるようなことを言うのは情けないことですけど……。それとシドくん。君の目は何かを伝えたがっているように僕には見えるんだ。君が目を開いた日からずっとね。それによって君の強い気持ちというか……魂を感じることができた。だからあえて今日はここに同席させたんだ。君の目、拳、魂を思い浮かべて直接伝えようと決めたんだよ。きっと君は全てを受け止められる。その中で何かを生む。それは自分だけの力ではないかもしれないけど、何かを見つけてくれることを僕は信じているから。いいかい、全く望ましいものではないけど、これから五年という時間がある。これが長いも短いも感じるのはシドくん、君の気持ち次第だよ。その考え方でこれからの君の五年は大きく変わるよ。──五年をどう生きるか。君は五年という間に何を自分自身の中で見つけることができるか。──家族、友人に心ごと託すのもひとつの選択肢かもしれない。君をとり巻く人の熱い気持ちには僕自身、心を打たれたことが何度もあったから。きっと君の気持ちを理解してくれる──」 �爐修鵑覆海箸浪兇�一番実感しています。でも、精神面のこととか、そういうことはなしにして、現実的に俺はあんたに何とかしてもらわなければならないんです。こんな生活はもううんざりだと、毎日思っています。でも……それでも俺だってできることなら元の身体になってこの先何十年も生き続けたいんです。それを望むには……それを願うにはあんたにすがって何とかしてもらうしかないんです�� 僕は胸中をシラギに訴えた。 「──最後に、君にとって僕との出会いは最悪の状況の中だったに違いない。それでも僕は、君の主治医になれたことを誇りに思う。君のような男に出会えたことを──。そして、君を全力で支えている家族にも」 シラギは体を前屈みにして母親に言った。その口調はそれまでにないはっきりとしたものだった。 「あなた、それに旦那さん、娘さんのシドくんをどうにかしたいという強い思いに、私は心から感銘を受けました。ドクターとしても人間としてもあなたたちにはずいぶんと救われた気がします。──すいません。伝えなくてはならないことだけだと言っていたのに、長くなってしまいましたね。──時間はまだ十分にあります。シドくんのためにお互い全力を尽くしましょう。この子にとって何が一番ベストなのか、また、何を望んでいるのか……。それと、一日も早く犯人が捕まることを祈っています」
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