柊小説

2006年03月28日(火)  アカイヌクモリ  ―――�将機檻押宗�

 静かだ……。天気もいい。雲ひとつないという感じだ。今日は昨日と比べ嘘のように耳鳴りがおとなしくしている。そのせいか、北風、木々が揺れ動く音、鳥のさえずり、家の前を通る人の話し声、車の騒音がよく聞こえる。この静粛が続けば続くほど、僕は見えない心地いい力によってどこへともなく吸い込まれていきそうになる。辿りつく先はあの世なのか、それとも──。わからない。
 今、家には僕と母親しかいない。親父とカオリは仕事へ、仲間は体と心を休めるために一旦帰宅した。──サジは多分仕事に行ってると思うけど。それと、リョウコからの返事も結局なかった。
 突然、背後から母親が無言で抱きしめてきた。その弾みで僕と母親の姿がぼやけながらも正面に置かれている全身鏡に映った。
 もう何年も前に、僕はテレビで末期癌を患った一人の老人のドキュメンタリー番組を見たことがあった。その人は六十過ぎの爺さんで、腰の痛みを訴え検査を受けた時には手のつけようがない状態だった。そして、癌宣告から死ぬまでのおよそ三ヶ月間で体重は二十キロ以上も激減した。放射線治療、モルヒネ、あやゆる抗癌剤投与の副作用だ。けど、当時の僕はその爺さんの枝のように細くなりつつある腕や体の衰弱よりも、日を追うごとに削げ痩けていく顔の方が衝撃的だった。骨に薄っぺらい皮が辛うじて貼りついているだけ、というような……。痛みから解放される三日前には、目の周りが深くえぐられたようにくぼみ、紫に変色していた。年をとってこんな風にはなりたくないと恐怖すら感じた。けど今、鏡に映っている自分はどうだ。あの爺さんなんてもんじゃない。正直、自分でも見るに耐えない。体に関しては衰弱しながらもなんとか洋服でカモフラージュしているけど、顔はマスクを被る以外隠しようがない。頬はスプーンで何度もほじられたような痩け方をしていて、頬骨は以前にも増して出っ張っているように見える。血色も悪い。何も知らない人が僕を見たら、間違いなく死体だと思うはずだ。瞼もここ何年かでかなり垂れ下がった。もしかしたら、視界が晴れないのは突然現れた霧のせいだけじゃないかもしれない。
「シド……もし辛いんだったら、もう無理しなくてもいいよ。楽になっていいよ……。私にはわかるんだ。あんたがヒトミちゃんに会わずに死ねないって思ってるのが。でも、もう苦しまないで……」
�狠里辰討燭里�よ……��
奇跡なんて言葉は、もう何の意味も持たない。悲しそうな母親の表情と言葉からはその気持ちが読みとれた。──すぐにでもあの世に逝くことはできるだろう。ここ三日前くらいからそんな気持ちが僕の心を侵食している。言いすぎかもしれないけど、その気になれば十秒足らずで魂にだってなれる。ヒトミを信じる心を振り払うことさえできれば──。
彼女との�猜未讚瓩箸いΔ發里亘夕�身が何よりも理解している。けど、その気持ちを捨てきれないのだ。身体が苦しくても、楽になりたいという気持ちが強くなっても──。時々、瞼が突然下りてそのまま気を失うことがある──何の前触れもなく。そして、数時間後に必ず何事もなかったかのように目が覚める。執着というものがあるから、どんなに苦しくてもこの世に戻ってきてしまうのだ。彼女の記憶が僕の中から消えていれば、もうとっくに焼かれ骨になっていたかもしれない。そんなギリギリの状態の中を今、僕は生きている。時折、ヒトミという幻覚を見ながら──。
�燹帖帖���

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 ……部屋がうねるように回っている。天井も、テレビも、テーブルも。揺らいで視点が定まらない。鏡には僕と背中を向けた母親がいる。──また意識が飛んだようだ。そして、また戻って来たんだ。
 大きく口を開けて母親が何かを叫んでいる。──耳鳴り。聞こえない。激しく僕の頭を両手で揺らし、頬にビンタを打っている。……狂乱?……殺意?
いや、そうではないみたいだ。何かが起きている。それにしても、まるで音のない映画を見ているようだ。母親は激しくジェスチャーをしては僕の頭を揺らし、顔を叩く。
�牴燭世茵帖帖���
顔をギリギリまで寄せてきた。そしてビンタを一発──。耳鳴りは両耳から抜けていった。
「──いい!?この時間だけは何があっても絶対に目を閉じちゃだめだよ!それと……絶対に死ぬんじゃないよ!後悔だけはしないで──約束……。やっと思いが通じたね。ずっと信じてたんでしょ?本当によかった──」
母親は僕の額にそっとキスをした。そして、ありがとう、と小さく言ってリビングを出た。
�爐△蠅�とう�瓠△修琉嫐�が僕にはわからない。けど、あの時のように気持ちをめかし込む気にもならない。僕の身体はそれほど年をとった。何も望めない身体だ。それでも、これは紛れもない現実。視界も暗い、耳鳴りも遠くの方から戻ってきた、苦しさも増している。けど、この緊張感は何だろう?心臓どころか全身が張り裂けそうだ。もう一度だけ、その言葉をどんなに繰り返してきたかわからない。地球上が静まり返っているような静けさの中、リビングのドアが開いた。背後から彼女の視線を微かに感じる。──それと、不思議なことに自分の唇の震えも感じる。僕は──シドの身体はこの瞬間に全てを注いでいるようだ。
「シド……!」
開いたままのドアの前で震える彼女の──ヒトミの僕を呼ぶ声。寝息のように小さな声だ。早く顔を見たい、もっと声を聞きたい、あの時のように抱きしめてほしい、そしてもう一度──。そんな自分の焦り、欲張りように気づいた時、背後から肩を包み込むように抱きしめられた。白くて小さな手が鏡には映し出されている。これが……僕が待ち続けていたぬくもり……。彼女にしかできない、僕にしか感じることのできない内側のぬくもり。
「ごめんなさい……!」
僕は何も答えることができない。今リビングで僕を抱きしめているのがヒトミだという実感がないのだ。四年というぽっかりと空いた長い時間がそうさせているのだろう。
 彼女が僕の肩に回していた腕を放し、正面で屈みやっと目と目があった。大人っぽくなりつつも、四年前と全く変わることのない大きな目。今にも引き込まれそうになるのは当時のままだ。整った鼻も、弧を描く口も、艶のある髪も、その全てが僕の知っているヒトミだ。軽く塗られた化粧が美しさをより際立たせている。彼女は衰弱した僕から目を逸らすことなくしっかりと見つめている。僕も見られることの恥らいを捨てて彼女を見つめる。そして、痩けた頬に手を伸ばしヒトミは言った。
「会いたかった……」
僕の頭には瞬時に熱いものが溢れ出てきた。
�爐犬磴△匹Δ靴董帖帖���
彼女はそのまま黙って着ていた黒のダッフルコートを脱いだ。細い首には十字架にかけられたキリストのネックレスが胸の辺りで揺れている。
 ヒトミは僕の手を握りそのまま床へ座ると、静かに目を閉じた。四年という空白を今必死に思い返し埋め込んでいるのかもしれない。だから僕もできる限り気持ちを落ちつかせて掘り起こそうとした。けど甦ってくるのは、彼女ともう一度会えることを信じ待ち続けて生きてきたこと、それだけだった。彼女との空白の時間。それは僕にとってただ待つだけで何の動きもないものだった。
「私──」
ヒトミが空白の四年間を埋めようと決心したのか、
�犹筬�
そう声を発した瞬間だった。軽い耳鳴りのせいで彼女の声がまるでこだました山びこのように軽く、深い海の中で��Dear�瓩�ら始まる手紙を読んでいるかのように、それは透明感のある声に聞こえた。

 �犹筺帖津焼�してきて教室入ってシドを初めて見た瞬間、後ろから背中を思いっきり押されたみたいに倒れそうになったの。シドは頬杖をついて全然私なんか見てなかったけど……。奇抜な子って印象だった。今まで見たことないっていう──。どんどん惹かれていった。気づいた時には勝手にシドの体に手が触れてたり、隣にいたり。本当は気づいてたんでしょ?私の気持ち……。でもシドにはユリナさんがいて。辛かった──。ちゃんとつき合ってるんならしょうがないって、多少の諦めみたいなものは持つことができたと思うの。今、あの時の自分をね、目を閉じて思い浮かべると、嫉妬の中で生きてた気がする。だから告白された時はすごく嬉しかった。知ってる?私、図書室から教室戻って、授業中、ずっと嬉しくて泣いてたんだよ。嗚咽も何もなかったけど、涙が止まらなかった。それでそのこと帰り道に話そうと思ってたら、みんなとさっさと帰っちゃって。二人の記念日だよ。もーリョウコに、どういう神経してるんだろうって、ちょっと当たっちゃったよ。でもね、そういうことで怒れるのって幸せだと思った。だってシドが彼になってくれなかったらそんな感情も持てなかったもの……。正直ね、私、すごく肉体(からだ)のこととかの考えが固くて古臭いんだけど……シドだけには抱かれたいと思ってた。学校でも、休みの日のデートでも、顔にはがんばって出さないようにしてたけど、体は湯気が出るくらい熱くなってた。不思議だね、十三、四でもあんな風になるなんて。シドにはハグとかキスよりももっと求めてほしかった。すごく大切にしてくれて愛されてるって実感してたけど、一線を越えたかったんだよ……。私はシドじゃなきゃだめ。だからまだ誰にも許してないの。肉体はもちろん、あの日以来唇も。この四年間で私のことを好きになってくれた人もいたんだ。追いかけたいと思った人もいた。でも……だめだった。シドの顔が浮かんだ瞬間、そんなことを思ってる自分が嫌になった。──シド、四年前にここへ来た時、私が言ったこと、まだ覚えてる?また来るから──ってそういったこと。今、何を言っても信じてもらえないかもしれないけど、あの言葉は決してその場しのぎで言ったんじゃないよ。本当に一緒にいたいって、力になりたいって、そういう気持ちだった。自分はシドの傍にいなくちゃいけない。シドと一緒に戦わなくちゃいけない。けどもうひとつね、もし私がずっと傍にいたとしてもシドの身体が元通りにならなかったら──。自分の人生を犠牲にしてシドの傍にいるべきなのかって。彼女なら当然かもしれないけど、私は悩んだ。ずーっと考えてた。中途半端な気持ちでシドに接していたらそのうち、愛情っていうものが消えて、情でしか見れなくなるんじゃないかって……。でも会いたい気持ちは変わらなかった。シドがどんなに衰弱しても、たとえ体が腐乱したとしても。会いたくて会いたくて、おかしくなりそうになって気づいたら家の前に来てたことは何度もあった。でも最後の一歩がどうしても踏み出せなかったの。愛情でシドを見れなくなるかもしれない自分が恐かった。みんなはそんな私に優しくしてくれたけど、薄情な女って、どこかでそう思ってたよ、きっと……。リョウコだってそういう目で見てたと思う。──シドの余命を聞かされた時、ショックだったけど、決めたの。自分の中で何の偽り、情もなく純粋にシドを愛してるって誓うことができたら会いに行こうって。──それが今日だなんて……。胸張って、自信を持つのに四年もかかるなんて──。バカでしょ?私。愛とか情とか、自分でややこしくして苦しんで。失礼だよね。シドの四年を、二人の四年を私がめちゃくちゃにした。──シドの隣で共に生きる人生をとるか、自分の夢をとるか、それが私の選択肢だった。そして、結果的に私はシドを捨てて自分の夢をとった。正直、自分を犠牲にしてまでシドの傍にいることは、私にはできない……。私には私の人生があるから。シドのことは誰よりも愛してる。それは今でも変わらない。でも、愛より大切なのは現実だと、私は思うの。これから旅館を継ぐために前に住んでた所に戻って、そこで一から勉強しながら生きてくつもり……。こっちにはもう二度と戻ってこないかもしれない。出発は──明後日の早朝。もう会えなくなっちゃうけど、これだけは言っておきたいの。中学生の恋愛なんて儚いっていわれるけど、私はそんな風には思わなかったし、思えなかった。それは一緒にいるだけで運命的なものを感じることができたから。シドにはいろんなことを教わった。シドに会わなければ知ることができなかったこともいっぱいあった。間違いなくこれからシド以上、男の人を好きになることはない。これは誓える。たとえこれから先、大切な人ができてもね。──あなたに会えてよかった。さよならは言わない。だって、シドはいつでも私の傍にいてくれるし、目を閉じてもずっと抱きしめてくれるから。学蘭着て煙草をくわえたシドが笑ってくれるから──��

 ヒトミは絞り出すように泣きながら僕を抱きしめた。彼女のぬくもりが僕の鼓動を静かに溶かしていく。苦しくはない。ただ、気が抜けていくのがわかる。まるで身体の細胞ひとつひとつが天に昇っていくかのように──。鏡に映る姿はもう見えない。見えるのは一面を覆い尽くす真っ黒な霧だけ。
�爛劵肇漾△海梁圓疎海韻浸�間が無駄だとは思わないし、お前がむちゃくちゃにしたとも思っていない。それは今、お前のぬくもりが実感させてくれている。俺は誓ったんだ……。ヒトミを信じる、必ず来るからこの椅子の上で待ち続けるって。それと、ヒトミに全てを捧げるって──��
あの頃と変わらない彼女の髪に染み込んだ甘いシャンプーの香りが、利かないはずの僕の鼻をくすぐる。今、僕の頭の中ではセーラー服姿のヒトミが右手を伸ばして離れ離れになっていた左手を待っている。僕は駆け足でその手をとった。
�猯∪擇蕕譴燭辰討いΦせ�ちで、本気で忘れようと思った時もあった。お前を恨んだことも。でも、もういい。今こうして会えたことでお前の気持ちを知ることができた。後悔はしていない。四年間も俺のことを考えててくれたんだからな。──だからお前も悔やむな。俺はヒトミの全てを受け入れるから��

愛してるぜ、ヒトミ

彼女の頭が微かに揺れた。そして、今まで以上に僕をきつく抱きしめた。心の中で燻り続けていた言葉をやっと今、彼女の前で彼女自身に伝えることができた。もうこれで、本当の意味で何の悔いもない。
──来るべき時がきた。

何躊躇してんだよ……。さっさと連れていけ。


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