2007年01月17日(水) |
どうしても忘れられない阪神淡路大震災 |
昨日、午前中の診療を終え、後片付けをしている時のことでした。突然、外から“ゴー”という音が聞こえるや否や診療所の建物がわずかに揺れました。時間にしてわずか数秒の出来事でした。震度1にも満たない揺れだったかもしれませんが、僕はどうしても身構えてしまいます。どうしてのあの時のことが思い出されて・・・。
あの時から今日で12年経ちました。平成7年1月17日午前5時46分。当時僕は28歳でまだ独身でした。この時間帯、僕は寝床にいたのですが、目を覚ましぼんやりと天井を見ていたのです。その時、“ゴー”という地響きが聞こえるや否や突然家全体が揺れ始めました。最初は突き上げるような衝撃があり、その後、家全体が揺れ始めました。しかも、その揺れが尋常の揺れではありませんでした。家の柱が左右に揺れ、振動しているのです。机や本棚からは本やノート、CDやビデオなどが落ちてきます。そのいくつかは僕の顔を直撃しました。僕は避けることができませんでした。避けるどころか動くことができなかったのです。地震が起これば机の下に隠れろと言われていましたが、不意に大きな揺れに遭遇すると、動こうとしても何も動くことができない。そのことを実感しました。
“このままでは家が潰れてしまう!僕の命はどうなるんだ!神様、何とかしてくれ!”
後から考えると実に情けないとは思うのですが、自然が起す大天災に対し如何に無力であるかということを思い知った瞬間でした。僕は死をも覚悟しました。 大きな揺れは数十秒続き、やっとのことで止まりました。九死に一生を得たとはこのことを言うのかと僕は安堵の息をしたものです。僕は直ちに停電になっていた我が家から電池つきラジオを探し出し、ラジオを聴くと神戸を中心とした阪神方面で壊滅的な被害が出ていることがわかりました。 死者数6400余名を出した未曾有の阪神淡路大震災でした。
今から思えば、阪神淡路大震災によって阪神淡路地区の人たちの生活は一変したはずです。 避難人数 : 30万名以上、全壊住家10万5千棟、半壊住家14万4千棟、一部損壊39万棟、火災被害7500棟、道路被害10000箇所、橋梁被害320箇所、河川被害430箇所、崖崩れ378箇所、被害総額10兆円 等々、これら被害の実態がその証拠です。
僕の周囲の環境も激変しました。僕の家そのものは壁にひびが入ったものの何とか持ちこたえましたが、周囲の家の中には半壊、全壊の家がいたるところに出ました。僕がよく知っていたはずのいくつもの光景はむざんにもその姿を一変させていました。過去のいくつもの思い出が一瞬にして無くなったかのようなむなしさを感じざるをえませんでした。 友人、知人の中には帰らぬ人になった人が少なからずいました。僕はいくつもの涙を流さざるをえませんでした。 命は助かった僕でしたが、阪神淡路大震災は、僕の人生も大きく変えるものとなりました。平成9年の4月から僕が仕事をする予定であった病院は阪神淡路大震災によって大被害を受けたからです。その施設では復旧作業で奔走しており、僕を受け入れる余裕などありませんでした。そのことは仕方のないことだとは思いましたが、僕はどのような人生の選択をすべきか考え直さざるをえませんでした。今から思えば、このことはその後の僕の歯医者人生を大きく左右することになったのですが、当時の僕はそのようなことを考える余裕もなくただ絶望するだけだったのです。 そんな時を何とか乗り越えられたのは、友人、知人、そして、家族の温かい励まし、支えでした。ともすると落ち込んでしまう僕を精神的にサポートしてくれた人たち。どれだけ僕は勇気づけられたことでしょう。彼ら、彼女らのことは一生忘れまい。そう心に強く誓っています。
最後になりますが、阪神淡路大震災から12年経過した今日、僕は阪神淡路大震災で被害に遭い、鬼籍に入られた6400余名の方々に哀悼の意を捧げたいと思います。
合掌
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