歯医者さんの一服
歯医者さんの一服日記

2009年05月15日(金) 説明責任に対する違和感

最近、マスコミを賑わせている言葉の一つに“説明責任”という言葉があります。具体例では、民主党の小沢一郎元代表の秘書が政治資金規正法違反で逮捕されたから頻繁にあちこちで使われています。小沢元代表は、記者会見で秘書の逮捕について自らの思い、考えを述べていましたが、その発言に対し、与党、野党の政治家やマスコミ、有権者の多くに“説明責任”を果たしていないとの批判が集まっていました。先日、小沢元代表が代表を辞任した際にも、“説明責任”が不充分のまま辞任したとの批判が集まっていました。

この“説明責任”に対し、ひねくれた僕は何とも言えない違和感を覚えます。
この違和感は一体何か?“説明責任”とは、相手が行った言動、行動に対し、何か不審な点、疑惑を持たれることがあった際、説明を求める時に用いられる言葉ではあります。言葉足らずで相手の誤解や理解を充分に与えていない場合、更なる説明が求められることは僕も充分に理解できます。

ただ、“説明責任”を連発されると、露骨に相手を信用していないことを表明しているようなものです。“説明責任”を言っているうちに、言葉の意味が本来の意味から断罪、謝罪を求める意味に変わってきているように思えてならないのです。単に相手に充分な説明を求めているのに、使っているうちに感情的になってくる変化に僕は怖さを感じます。

最近、冤罪事件が取沙汰されていることも多いのですが、もし、ある人が何らかの罪に対する疑惑を持たれた場合、その人が無実であればどうでしょう?自らが無実であることを訴えても、周囲は“説明責任”を求め続けるのでしょうか?もし、その人の無実が証明された場合、“説明責任”を求め続けた人はどのように“説明責任”を果たすのでしょう?

僕は“説明責任”連発する現在の風潮をウォッチしていきたいと思います。果たして、“説明責任”を大きな声で唱えている人が本当に自らの言動に対し、“説明責任”を果たすことが出来るのか注目していきたいです。少なくとも、僕は軽々しく“説明責任”を果たすなんて言いたくない、言おうとしても言えないと肝に銘じています。


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