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■ BLACK×WHITE��
ばしゃばしゃと頭から水を被る。
誰もいない手洗い場は、しんとしていて余計惨めな気分を押し付ける。ちかちかと点滅する照明さえ、おれを笑っている気がした。 古びた蛇口を閉める、自分の手が視界に入る。抗うことも知らない、ひ弱な掌。
何で。こうなったんだろう。自問するけれど、答えなんて見つかる筈もなくて。
最初は仲良く出来ていたはずなのに。何でこんなことになったんたんだろう。何でおれは。どこへ行っても、こうなんだろう。
俯いたままにしていると、目頭が熱くなりそうで。人の気配が失せた校舎を背にして、感情のままに委ねる。
「なに笑ってるの?」
正直、心臓が止まるかと思った。おれは勢いよく顔を上げて周囲を見る。拭ってもいない水の滴りが、首を伝って制服の中に流れ落ちていった。
「ひ、さかわさん」
あまりにも突然すぎる現れ方に、凝視してしまった。本当に、彼女なのかって。それくらい、久川涼子という同級生が、おれの目の前にいることが驚きで。
「まだ残ってたの? もう七時よ」
時計に視線を落としたのを良いことに、その長い睫毛や綺麗な髪を見つめる。こんなに間近に寄ったのは、多分初めてだ。
「あ……う、うん」
髪につけられたのは輪ゴムだったり、クリップだったりして、思いの他外すのに時間がかかってしまっていた。あんな頭じゃ、外にも出れないから。
久川さんは無表情のまま、おれを見た。その目は河原の石ころを眺めるように、とても静かだった。でも逸らされない視線に、居心地が悪くて堪らなくて。
「ひ、久川さんこそ、こんな時間まで、」
何で残ってたの、と言いかけてやめる。関係ないって言われる気がした。彼女から話しかける権利はあっても、きっとおれには無い。
「告白されてたの」
「え」
「三年の人に告白されたの。付き合ってくれって。でも断ったわ、私、好きな人がいるから」
あると思わなかった返事。だけど何でもないことのようにそう言ってから、こちらに歩いて来るシルエット。
ちょっと変わったところはあるにしても、人目を引く美人で秀才の彼女が放って置かれるはずもない。告白なんて日常的なことなんだろう。おれと違って。
唐突に話し出したプライベートな部分は、久川さんにとっては世間話程度でもないらしく、薄く浮かべた笑みのまま小首を傾げる。そんな仕草の一つ一つさえ、おれを強く惹きつけた。
けれどすぐに自制する。こういうの何て言うんだったっけ。身の程知らず。そう、そんな言葉。好きな人がいるから。確かにそう言った。
そういったことに興味なんかないって見えるのに。見えたから、安心してたのに。更に手が届かなくなる相手。最初からおれが届くわけない。
「そ……なんだ」
やっと答えたわりには何も気の利いたようなことは言えいまま、黙って俯いた。グラウンドの砂を踏み付ける音。話は終わったらしく、久川さんは何も言わない。当たり前だ。おれなんかと話すだけ無駄だって、誰だって知ってる。
迷いのない歩き方は彼女によく似合う。だらだらとしか歩けないおれと正反対。そしてそのまま、おれの横を素通りして。
行ってしまうはずだったのに。
「あなた、いつも笑っているのね」
俯いた先に見える、綺麗に爪先を揃えた黒のローファー。それは随分と近くで、おれの心臓を跳ねさせるには十分な距離だった。
括られてたせいで、変に型がついた髪。化粧の痕がまだ残る顔。これは水で洗っても全部はとれなかった。さんざん引っ張られてるせいで着崩れた制服。でもたぶん、おれの顔は笑ってる。わかる。何されても、へらへら笑うように、出来てるから。
でも笑うしかない。
こうやって我慢すれば、いつか、皆飽きて。皆おれのことなんて、構わなくなる。だからそれまで。
勿論、久川さんがそんな深い意味で言ったんじゃないって、わかってるけど。わかってるから、ぎこちなく笑いながらその場から逃げ出そうとして足を踏み出した。
これ以上、向かいあっていたら、おれの中の久川涼子が大きくなる一方だと思った。そんなのは怖い。彼女にまで蔑まれた目で見られたら、おれはきっと立ち直れなくなる。
「待って」
不意に進路が立ち塞がれ、彼女とおれの距離がさらに狭まる。どうして行ってしまうの。そんな質問をされても困る。心の中まで覗き見るような、澄んだ瞳。
彼女は、おれの考えてることが、わかるのかもしれない。
馬鹿みたいだけど、足が動かない。ねえ、とか、それで、とか言われた気がした。でも頭の中は耳鳴りがしたみたいに、がんがんと嫌な音をたてて、ちゃんとした言葉では聞き取れなかった。
柔らかそうな唇が、何かを形作る。何度か。でも何を言われてるのか、破裂しそうな心臓のせいで、全く理解が出来ない。
肩に触れる、白くて細い指。俯いていても目に入る久川さんの唇。それがさらに近づいて。
「……つ」
おれの唇に、触れた。
有り得ない。顔を上げる。でも彼女の唇は離れない。間近にあり過ぎてぼやけて見える彼女の顔は、それでもとても綺麗で。少し冷えた、柔らかな感触。
キスされている、ということがリアルに認識出来てしまうと、一気に頭に血が上った。頭の内側から、激しく殴られたような衝撃。
何で?
「――ッ」
反射的に、突き飛ばしていた。
距離が空く。でも思ったよりも近くて。女の子相手に無意識に力加減したと言うよりも、おれがそれだけ軟弱なんだと思った。
こめかみが酷く痛んだ。ぐちゃぐちゃになった思考の片隅で、目の前に立つ彼女を認識した。
「酷いわ」
欠片も思っていない口ぶり。でもとても冷たく見える視線に後退りして、
「だ、だって」
「何なの?」
「あんなこと、するから」
「キスしただけでしょう?」
涼やかだけどその目は僅かに不快を交えていて。したほうが怒るなんて、理不尽だと思う。けど、そんなこと言えるはずもなく、黙り込む。「だけ」だって言われたって。
「ご、ごめん」
どこがごめんなんだ。自分が何かしたとは思ってないけれど、謝るしか選択肢を持っていない。何で。そう、何でキスなんか。そう何度も自問する。その言葉は、いつのまにか口に出ていたらしく、久川さんが首を傾げたまま薄く微笑した。
「何でって。私のことが、好きなのかと思って」
無意識に唇をなぞっていた俺に、落とされる小さな笑い声。慌てて目だけ向ける。何て?
「いつも私を見てるから、好意を持たれているのかと思ってたんだけど。違うの?」
息を呑む。気付かれてるなんて、思ってもみなかった。誰も気付かなかったのに。見てたことを知られたら、と思うだけで怖かったのに。
膝に力が入らない。動かない。動けない。
「私はあなたの事、好きよ」
「は、」
「好きよ。少なくとも馬鹿に騒がしいここの学校の人達よりはずっと」
形の良い唇が、弧を描きながら淀みなく動く。
「帰りましょうか」
久川さんが微笑して、俺の手を取る。滑らかな掌が重なり、華奢な指が滑り込むようにして絡みつく。
されるがままに、呆然と引かれる手に視線を落とす。彼女が何を考えているのかわからない。 今まで人と関わるのを拒絶していたような、彼女がおれに関わろうとする理由なんて。 理由付けをするなら、彼女もまたクラスメイト達の『ゲーム』に参加したのかということだけ。
「俺…」
そんなこと、考えたくもないけど。だって彼女には似合わない。誰かの考えに従うなんて。でもどうして?自問に答える声は、当たり前だけど存在しなかった。
「さあ、早く」
グランドに落ちる校舎からの照明が、薄暗さの中でぼんやりと彼女の輪郭を浮かび上がらせる。透けるような白肌に赤い唇。それが僅かに歪んで。次の瞬間には消えた、ように見えた。
砂利を踏みつける足音に、俺に背を向けて歩き出したのだと気付いて一人赤くなった。
暗闇の中に、溶け込んだみたいだった。指通りの良さそうな髪は、中途半端な薄闇よりよっぽど闇の色をしていた。
2008年07月07日(月)
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