美しい雁の群れを見た後、
私達は彼が予約してくれたワインと串焼きのお店へ向かいました。
忘れたくても忘れられないあの人のことや
いつも頭の片隅から離れない悲しい運命のことで、
その日の私はひどく敏感になっていました。
彼と食事したり、お喋りするのはとても楽しいことだったけれど、
これは恋ではなく、割り切った大人の付き合いなのだと
心のどこかで自分に言い聞かせていました。
その時の私はまだ彼と手を握ることさえしていなかったから、
自分の気持ちをコントロールすることは容易いことだと思っていました。
「この年で誰かを好きになったとしたら、
それはもうずっと前から決まっていたことなんだよ。」
ワイン二杯で既に酔っていた私に彼はそう言いました。
「ある程度の大人の男と女になったら、
ある日突然誰かを好きになることなんてない。
今まで生きてきた積み重ね、経験で
誰かに惹かれずにはいられないのだから。」
彼は「意地を張らずに俺を好きになれよ。」という
場合によっては身勝手に聞こえるような言葉を
私が受け入れやすい言葉に上手く変えているようにも思えました。
それから、彼は私の悲しみについては何も聞かずに、
彼が小さい頃に病気で亡くなられた母親のことや父親の再婚、
その後の複雑な家庭環境、
そしてその環境が一因であろう彼の性格の特徴について
淡々と語り始めました。
夕方見た雁の群れのせいだったのでしょうか。
それとも、慣れないワインに酔いがまわっていたのでしょうか。
その夜の私はひどく涙もろくなっていました。
目が潤み始めた顔を彼に気付かれたくなくて、私は席を立ち、 洗面所の鏡の前でしばらく泣いていました。
お化粧直しが不可能なほど涙が溢れて止まりませんでした。
席に戻って、待っていた彼に
「もう今日は修復不可能。ひどい顔してるでしょ。」
と私が聞くと、
「ああ、本当にひどいよ。^^」
と彼は優しく笑って言いました。
彼が初めて連れて来てくれたお店で醜態を晒すことは出来ないので、
それからすぐにお店を出ました。
外はひんやりとして空気が冷たく、私達以外は誰もいませんでした。
「大丈夫?」
彼に聞かれて、とうとう私は声を上げて泣きじゃくりました。
彼は私を抱き締めました。
まるで父親が泣いている幼い娘を抱くような抱き方でした。
あの時の彼の態度が父親でなく、男だったら、
私はすぐに彼の腕から離れていたかもしれません。
でも、あの時の彼はただ父親のように
私の髪を撫でながら私を抱いていてくれました。
私が泣き止むと彼はタクシーを止め、
初めてのデートで連れて行ってくれたお店に向かいました。
お店のカウンターに座ると、彼はバーテンダーに
「彼女にトマトジュースを作ってあげて。」
と告げました。
泣き疲れた私に甘酸っぱいフローズンのトマトジュースは
とても美味しく感じられました。
それから彼は若い頃住んでいたスペインやスペイン語の話を始めました。
彼の面白い話に聞き入るうちに
前の晩のナイフのようなあの人の言葉は次第に遠のき、
ぼんやりとした小さな幸せに包まれている私がいました。
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