かたほうだけのパンプス
敦子



 八重山連合会



Screenmemo_2013-04-30-13-55-00
きっと日曜日27日に東京八重山郷友連合会があったんだと思う。3月に東京八重山郷友連合会長から会の案内を直接いただいていた。家にも封書が届いていた。現会長はそろそろ引退するという。次期会長、そして一番なり手がいない幹事長を探していると言っていた。

東京竹富郷友会も会長は早々に決まったが、幹事長はなかなか、なかなか・・・。
私にどうか?と今相棒のようにいつも隣に座っている伯父に小声で言われた。でも私は、身体がこうだから、自宅での事務的な作業ならやれるけど会合に出たり、会場借りに動くとか実務ができない!とぶつぶつ・・・。
父は何度も幹事長をしていた。沖縄に住んでいたときは西塘会でもやっていた。ちなみに竹富郷友会は、沖縄では、西塘会。東京は、東京竹富郷友会と言っている。石垣では、石垣竹富郷友会だったはず・・・。石垣では、さらに仲筋郷友会と玻座真会とか細かくあるらしい。
あ、突然読む方ごめんなさい。もともと竹富島オンリーのブログをつくりはじめていたのを無理やりこのブログに融合させたのでわけがわからない方もいらしゃると思いますが・・・。
私は、11年後の東京竹富郷友会の100年記念誌の編集委員をやりたいと思っている。まだ周辺の人にしか伝えていない。元会長だった人や現郷友会の役員のひとりの方だけに・・・。121_7_2013071611210000(1)八重山郷友連合会ってよくわかんないんだけど、会長さんは、よく知っている人だからそんなこと言うと「なんだったらよく教えてあげるから知りたければ幹事長やったら、よくわかるサー」みたいなことを言われてしまうだろう。

たぶんね、八重山は、石垣島以外の島は小さくて人も少なく周辺の島全体で支援しないとだめだからだ。今は、島々の芸能が文化財指定になっても人数がいないとどうにもならないし、八重山の芸能とくくられているし。
沖縄っていっても大半の人は、島を出て行く。というか出ていく仕組みになっているんだ。そのあたりのことをなぜ大学の研究者の人は、著書では書き落とすんだろう。まあ、そういう現状を書いちゃうとつじつまが合わなくなってきちゃうからかもしれない。
でも、誰かが、残しておかないといけないと思う。
郷友会を東京で発起したのは、大正時代の頃。明治時代中期に人頭税が終わってくれて、当時日本統治だった台湾にみんな渡るか、九州だったけどもなかでも東京へ行くという人もいて。東京竹富郷友会に関しては、錦芳氏の系譜の流れの慶来慶田城の流れの子孫・・・といっても妾の子供になるんだけどもその子孫のひとりの「用枝」という青年がかりゆし会という会を作ったのがはじまり。
「用枝」錦芳氏の子孫とか流れをくんでいる人は明治時代くらいまでに生まれた人や継がせたい子の名前に「用」を付いている。
今回の東京八重山郷友連合会の会長のお父様の名前も「用」という字が入っている。252_1_2014022019060000この方は「用次」さん。台湾に渡って南洋に渡って戦争が終わって竹富島に帰って来た。これは、その頃の話を聞きに行ったときのもの。以前、八重山新聞でこの方のことが連載された。当時の竹富、八重山全体と台湾、南洋を知る今生きておられる数少ない帰還者だ。
で、この方は竹富といっても西表島の方の竹富町にて生活されている。
そういうことを今追っているのでこれからどんどん書いていく。


2014年04月30日(水)
初日 最新 目次 MAIL HOME


My追加