ゆらゆら日記
風に吹かれてゆらゆらと気の向くままに生きていきたいもんです。

2025年08月19日(火) 男と女

厳しい残暑が続いており今日もうだるような暑さであった。

今週末には「処暑」だが少しでも暑さが和らいでくれるだろうか。

朝の山道を行けばもう鉄砲百合が枯れ始めている。

純白の花だけに茶に染まれば憐れな姿であった。

それでも折れることはない。何と逞しい花であろうか。


同僚宅のお葬式。義父が出掛け私は留守番をしていた。

来客はなかったが車のトラブルの電話が2件ある。

訳を話し午後まで待ってもらうことにした。

お昼過ぎには義父が帰って来て出張修理に行ってくれる。

開店休業とはいかないのだ。義父が行ってくれてとても助かった。

幸い大きなトラブルではなく直ぐに直ったようである。


今朝は姿の見えなかった「みい太」が子猫を連れて帰って来た。

しきりに鳴いて餌をねだるのだが子猫には餌を与えてはならない。

仕方なく心を鬼にしたが何とも心が痛む。

義父は子猫にはとても厳しかった。情けをかけてはいけないと云う。

昔母にも同じことを云われたことがあり私も鬼にならざるを得ない。

Kちゃんが里親を探しているようだが未だ報告はなかった。

いつまでも可愛い子猫ではいられないのも切ない現実である。



県税事務所に用事があり2時過ぎに退社した。

全ての書類が整ったので明日は県に郵送出来そうである。

一番苦手な事務仕事だったのでほっと肩の荷が下りた。


サニーマートに着くなり同僚から電話があり

無事にお骨上げも済み帰宅しているとのこと。

喪主としての務めも果たしほっとしたのだろう。

真っ先に私に報せてくれたことが嬉しかった。

お兄さんに孫がいるらしく故人にとってはひ孫である。

その幼い子供たちが先を争うようにお骨を拾ったのだそうだ。

その光景が微笑ましかったのだろう同僚も笑い声であった。

亡くなったお母さんもどんなにか嬉しかったことだろうか。

仕事のことは気にせずに落ち着くまで休むように告げて電話を切る。


帰宅して同僚のことを夫に話していたら何だか機嫌が悪い。

私がまるで姉のように親身になっているのが気に入らなかったようだ。

心の広い人だと思っていたが夫も「男」なのだなと思う。

今日を限りにもう同僚の話はしないほうが良さそうである。


今朝は父と母の喧嘩のことを詩に書いたが

それがきっかけだったのだろう。父と母は増々険悪になって行った。

毎晩のように訪ねて来る若い青年こそが今の義父だったのだ。

子供の私にはおとなの男女のことなど何も分からなかった。

しかし母が家出をした時に真っ先に義父の顔が浮かんだのだった。

母は「母親」よりも「おんな」を選んだのである。

運命の糸は私まで絡めたがその結果が今の幸せなのだと思っている。

その青年が義父で良かったと思う。母が心から愛した人であった。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     喧嘩

 一編の物語のように思い出す
 記憶には確かな「カタチ」があった

 優しいはずの父は厳格であり
 か弱いはずの母は強情である

 喧嘩が始まると弟と一緒に
 押し入れに逃げるのが常であった
 私は父の猟銃をしっかりと抱き
 その重みの何と悲しかったことか

 押し入れの戸を少しだけ開けて
 一部始終を見ていた
 怖くてならなかったが
 子供心に見届けなければと思う

 父は鬼のような形相であったが
 母は決して涙を見せなかった
 歯を食いしばり耐えようとする
 ぎゅっと握り絞めた拳が震えていた

 まるで嵐のような夜であったが
 朝になるとお味噌汁の匂いがし
 母の「おはよう」の声がする

 夢だったのかもしれない
 それなのにどうして忘れられないのだろう



2025年08月18日(月) 陣痛

今日も厳しい残暑であったが山里ではお昼前に土砂降りの雨が降った。

一時間程で止んだが工場の庭には水溜まりが出来る。

そうして一気に暑さが和らいだがそれもつかの間のことであった。

陽が射し始めるとむんむんとした熱気が辺りを包み込んでいた。


何処からか雉が一羽舞い降りて来て庭で遊び始める。

どうやら稲刈り後の籾の粒を食べているらしい。

その姿を見た義父はとても穏やかな笑顔になり

「もっと食べさせちゃるぞ」と云って

籾を手にすると庭にばら撒いているのだった。

義父の優しさを感じ胸がほっこりと温かくなる光景であった。


同僚が忌中のため工場は開店休業となる。

小さな村のことで誰もが知っているのだろう。

来客は一人もなく義父も助かったようだった。


午後から稲刈りの予定だったが大雨が降り中止となる。

夕方にはお通夜に参列しなければならずその方が良かっただろう。

お盆休み中に粗方の稲刈りを済ませており焦りもない様子であった。


事務仕事も特になく2時に退社し市内の葬儀場へと向かう。

同僚は気疲れした様子も見せずきりりっとしていた。

お母さんのことはいつも「おばちゃん」と呼んでいたので

そう声を掛けたらまるで生きているように穏やかな笑顔である。

天寿を全うしたのだろう。何とも安らかな眠りであった。

同僚に「寂しくないね」と告げると「うん」と笑顔で頷く。

末っ子の同僚はきっとお母さんっ子だったことだろう。

寂しくないはずはなかったがその笑顔に救われるようだった。


お通夜、明日の告別式にも参列できないことを告げて帰る。

不自由な足のせいもあるが喪服がもう着れなくなっていた。

同僚もちゃんと理解してくれており「無理せんでもええよ」と言ってくれた。

とうとう私も人並みのことが出来なくなってしまったのだ。



ケーキを買って帰る。今日は娘の44歳の誕生日である。

生まれた日のことを話していると「毎年おんなじことを」と

娘に制止され私だけの記憶になって行く。

それも寂しいものだが娘に母親を押し付けてもいけないだろう。

確かに私は娘を産んだが娘にはその記憶が無いのであった。


この先どんなに老いても娘に負担を掛けてはならない。

それは大きな危惧であり不安でもあった。

もしそうなれば死んだ方がマシだと思う。

寝た切りになったりせずにぽっくりと死にたい。

それが叶うのなら命など惜しくないと思っている。


歳月は「宝物」だろうか。44歳になった娘が愛しい。

西日の当たる産室で痛みに耐え続けたあの日をどうして忘れられようか。



※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     初恋

 初めての恋はふんわりと
 春の風のようであった

 「遊ぼう」の一言が云えない
 名前を呼んだだけでどきどきする

 横顔が好きだなとおもう
 だから真っ直ぐではなかった
 少し離れた処から見ていたのだ

 音楽の時間に縦笛を吹く時
 彼はふざけて横笛にした
 その姿はとても美しくて
 まるで絵のように映る

 音楽の時間が楽しみになったが
 彼はもう二度と横笛を吹かない
 美しいと云うことは儚いことだった

 校庭を駆けている風のような少年
 そのさりげない仕草が胸に焼きつく

 それが恋だとは知らないまま
 もう60年の歳月が流れた

 晩夏となった山里には
 蜩の声がせつなく響き渡っている




2025年08月17日(日) ふるさとは遠からず

お盆の切なさも何処へ。ただただ燃えるような陽射しであった。

早朝に同僚から電話があり昨夜お母様が亡くなった報せ。

施設に入居していたが持病の悪化が原因らしかった。

90歳の高齢でありもう仕方ないことだと同僚は云う。

いつも明るくて話し好きの朗らかな人であった。

「やはり人は死ぬのだな」と漠然と思う。

お盆の送り火と共に逝った魂の行方に心が痛んだ。


その数分後のことである。地震があり一瞬身構える。

日向灘を震源とする地震で宮崎では震度4だったそうだ。

高知県西部は幸い震度2と弱い揺れであったが

南海トラフが頭を過り不安にならざるを得なかった。

茶の間に居た夫はまったく気づかなかったそうで

呑気な人だなあと思う。夫にとっては平和な朝で何よりである。



朝食時に私の生まれ故郷である「江川崎」に行く話が持ち上がっていた。

久しぶりのことで嬉しくてならなかったのだが

朝から訃報や地震があり気分がざわざわと落ち着かない。

夫に中止を申し出たら「気分転換をせんといかん」と云ってくれて

予定通りに出掛けることになった。

「江川崎」は四万十市内であるが道路の整備が遅れており悪路が続く。

それでも国道添いの百日紅の花が見事に咲いており心が躍った。

眼下の四万十川ではカヌー遊びをする人も多く楽しそうである。

「道の駅よって四万十」の直ぐ隣は幼馴染の哲郎君の家であったが

姿は見えず洗濯物が干してあるだけでほっとするのだった。

もう60年近く会っていない。彼は元気にしているだろうか。

生家があった駅の近くにも行きたかったが夫に却下される。

「何度も行っただろうが」と何と意地悪なことだろう。


車は四万十川沿いに東へ向かう。大正、昭和と小さな町がある。

昔は村であったが今は「四万十町」の一部となっていた。

お昼も近くなり七子峠のラーメン屋さんを目指していたのだが

夫が近道を選んだのが最悪の結果となってしまう。

国道439号線に入り有名な「酷道」であった。

道幅は狭くくねくねとした山道ばかりであった。

対向車が来てもすれ違うことも不可能に思われる。

どうやら道を間違えたらしい。ナビを頼るととんでもない道であった。

「下津井」と云う集落を抜けひたすら前進していたのだが

何と目の前の道が崖崩れで大きな石が道を塞いでいるのである。

流石に夫も諦めたらしくやっとの思いでUターンをし引き返した。

お昼時はとっくに過ぎており私は空腹で気が狂いそうである。

「道の駅大正」まで戻りやっと昼食にありつけたのだった。

奮発して「鰻の混ぜご飯定食」を食べる。

鰻は少ししか入っていなかったがとても美味しかった。

ミニうどんもあり出汁が効いており大満足である。

散々な目にあったが夫は「面白かったな」とご満悦であった。

私の生まれ故郷はつかの間で酷道がメインのドライブとなる。


子供達がまだ幼かった頃のことである。

初めて夫が「江川崎」に連れて行ってくれた時のことを思い出していた。

その頃にはまだ私の生家もあり何と懐かしかったことだろう。

「また来ような」とその約束通りに夫は何度も連れて来てくれたが

ある日には生家は取り壊され更地になっていたのだった。

生まれ故郷でありながら何と寂しかったことだろう。

もちろん父の姿も母の姿も弟の姿も何処にもなかったのだ。

遠いようで近いその場所は私にとっては永遠に「ふるさと」である。


※以下今朝の詩(感傷的な詩で申し訳ないです)


     断片

 つつつつつと落ちていく
 若き日の記憶はせつない
 あふれてしまえば零れる
 添える手のひらがあつい

 もう「きみ」とは呼べず
 歳月の重みに耐えられない
 いっそ潰れてしまえと思う

 あれは罪だったのだろう
 どれほどの傷だったのか
 困惑でしかなかったのだ

 圧し掛かる記憶をまるで
 糧のように食してきた
 わたしは私でなければならず
 きみは君以外の何者でもない

 真っ青な海である
 私は胸元まで海になっていた

 孤独ではなかったのだ
 大声で私の名を呼ぶきみが
 海になる瞬間を見た



2025年08月16日(土) 茜色の空

午後7時、西の空が燃えているように紅い。

まるで空で「送り火」を焚いているようだ。

日も短くなったのだろう。夕暮れが随分と早くなった。


日中は厳しい暑さに感じたが猛暑日ではなかったようだ。

午後には突然のにわか雨が降り少しだけ気温が下がる。

夫は洗濯物を取り入れるのに大わらわだったそうだ。

私はお昼寝をしておりまったく雨に気づかなかった。


朝の内にはカーブスへ行っていたが時間を一時間も間違える。

朝寝をしていたので寝ぼけていたのだろう。

ラジオで9時だと知りそのままサニーマートへ行った。

開店直後でもあり店内は随分と空いている。

帰省客も既に帰ってしまったのだろう。


一度帰宅し今度こそはとカーブスへ向かう。

筋トレを始める前からもう汗だくであった。

カーブス推奨のプロティンを毎朝飲んでいるのだが

今月限りで飲むのを止めることにする。

あれこれと調べていたら運動してこそのプロティンなのだそうだ。

私のように週一の筋トレではとても運動とは云えないのだと思う。

たんぱく質の過剰摂取となれば肥満にも繋がるのだそうだ。

いわばアスリート向けなのである。私などとんでもないことだった。

筋肉を付けようと意気込んでいたが脂肪を蓄えていたのだろう。

カーブスの商法に乗せられていたと思えばそれまでだが

調べてみれば目から鱗で早く気づいて良かったのだと思う。


午後もひたすら寝て過ごす。もう寝るのにも飽きてしまった。

明後日には仕事に行ける。もう少しの辛抱である。


自室のエアコンを早目に付けしばらくSNSを見て過ごす。

今朝は例の詩人さんが私の詩をリポストしてくれていた。

昨日はそれが無かったのですっかり落ち込んでいたのが嘘のようである。

反応は決して評価ではないが日々一喜一憂が常であった。

共感あってこそのリポストであるとAIの響君は云う。

ずっと長いことどん底であったが微かな光が射し込んだように思った。



夕食後、義妹宅で「送り火」を焚く。

もう今日でお盆も終りだと思うと何とも切なくてならない。

便乗させてもらうのも心苦しかったが母も見送ることが出来た。

今年は夢で会うことも叶わなかったが母にはきっと伝わったと思う。

永遠に娘である。魂の再会を祈り続けていよう。


茜色の空に母の笑顔が浮かびやがてゆっくりと日が暮れて行った。


※以下今朝の詩


    送り火


 もう帰るのだと云う
 つかの間の再会であった

 黄金色に実った稲穂
 蜩が鳴く山里の空
 故郷に似ていたのだろう
 そこには母の家族が居た

 今年は百日紅が咲かなかった
 母の口紅の色である
 もう紅は差さないのだと
 きりりっとした顔で母は云う

 鰯雲がたなびく空に
 母の声がこだましている
 「もうお終い」と切ない

 何処に帰るのだろう
 母は独りぼっちではなかった
 父がいて母がいて姉も弟もいる

 空が真っ二つに千切れるのを見た
 母の姿はその空に吸い込まれていく

 「ほいたらね」
 炎はゆっくりと燃え尽きていった



2025年08月15日(金) 母の終戦

猛暑日にこそならなかったが厳しい残暑であった。

けれども空を見上げればもう夏の空ではない。

ゆっくりではあるが確実に秋が近づいているのだろう。


今夜は義妹宅でお盆の宴会があり先ほど帰宅したところである。

本来なら長男である我が家でするべきところだが

仏壇は義妹宅にあり日々の供養も任せっ切りである。

独り暮らしの義妹にはそれも張り合いになっていることだろう。


ビールは我が家で準備したがお寿司やオードブル等は

義妹が準備してくれて美味しくご馳走になった。

賑やかな夜となり故人もどんなにか喜んだことだろう。


姑さんは生前から私の般若心経を聞きたがる人だったので

遺影に手を合わせながら拙くも唱えることが出来た。

ささやかなお盆の供養となれば幸いである。


母は昨夜も帰らず。今年はもう会えないのかもしれない。

黄泉の国にもお盆のしきたりのようなものがあり

初盆の時には特別な計らいがあるのかもしれない。

そんなことを考えていると母も自由にとはいかないのだろう。

祖父母や伯母たちのように帰れない魂があれば尚更のことに思う。

自分一人がとはいかない。それも母らしいことであった。

明日はもう送り火を焚かねばならない。何とあっけないことか。


終戦記念日でもあり今朝は祖父と母の詩を書いた。

7歳の母にとって「終戦」をどんな風に受け取ったのか定かではない。

「お父ちゃんが帰って来る」ただその一心だったのではないだろうか。


自分では満足のいく詩であったが結果は不評であった。

やはり「落とし穴」はあるのだなと受け止めずにはいられない。

おそらくあまりにも自己満足な詩だったのだろう。

そんな私のせいで祖父と母に寂しい思いをさせてしまったようだ。


ここに記すのも憚られるがお目汚しをお許し願いたい。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     しなちゃん

 欠片のように落ちて来る
 手のひらをそっと添えれば
 それは光り始めるのだった

 祖父は二度戦争に行った
 中国大陸だったようだ

 昭和13年母が生まれた時
 父である祖父は戦地に居て
 留守を守る家族が名前を付けた

 志那に居る父親の無事を祈り
 母は「しな子」と名付けられた
 その名を背負い母はすくすくと育った

 父親の顔も知らない
 抱かれることもなかった

 その名の願いが叶い
 祖父は無事に帰還したが
 また直ぐに招集令状が届いたと云う

 幼い母のあどけない姿が目に浮かぶ
 「せんそう」とは遠い旅だったのだ

 「おとうちゃん早く帰ってきてね」

 しなちゃんは手を振り続けていた
 真っ青な空はどこまでも続いている




2025年08月14日(木) 廃屋の夏

今朝はほんの少し涼しさを感じたが日中は厳しい暑さとなる。

江川崎では37.6℃と日本一の猛暑だったようだ。

熊本の水害ではエアコンの室外機が水没した家が多くあり

冷房が効かずどんなにか辛いことだろうか。

停電はほぼ解消したそうだがこの暑さを耐えなければならない。

高齢者や幼い子供達も多いことだろうと気遣わずにはいられなかった。


この炎天下に山里の義父は稲刈りに精を出していたようだ。

例の友人達が手伝いに来てくれて心強かったことだろう。

順調に行けばお盆の間に稲刈りが終わりそうである。

義父の清々しい笑顔が目に見えるようだった。


母は昨夜帰らず。夢も見なければ気配を感じることもなかった。

やはり遠慮をしているとしか思えない。

それとも私の願いが伝わらなかったのだろうか。

寂しさはあったがこころの何処かでほっとしている自分も感じた。

お盆でなくてもまた夢で会える日もあるだろう。

魂は永遠である。そう信じることで救われるのである。

薄情な娘だったから尚更のこと。悔いを残してはならない。



朝のうちに買い物に行ったきりで後は殆ど寝て過ごす。

まだ3日もこんな日が続くのかと思うとうんざりである。

余程貧乏性なのだろう。仕事のある日常が恋しくてならない。


SNSを通じて知り合いになった詩人さんから「詩誌」が届いていた。

とても気さくな方で毎号送ってくれるのだった。

その詩人さんからメールがあり最近の私の詩が気に入ったとのこと。

今朝もリポストをしてくれており舞い上がるように嬉しかった。

けれども有頂天になってはいけない。調子に乗ってはいけないと思う。

私には守らねばならない「カタチ」があり

あくまでも自分を信じて書き続けなければと肝に銘ずる。

「落とし穴」は必ずある。自ら墓穴を掘ってはならない。


今朝は祖母の愛ちゃんの詩を書いた。

今は廃屋になった母の実家が目に浮かぶ。

お墓もおそらく荒れ果てていることだろう。

祖父母も伯母も叔父もお盆には帰れない魂であった。

「迎え火」を焚く人がいないのである。

まして崩れかけた廃家にくつろぐ場所も在りはしない。

けれども決して忘れないこと。それが一番の供養なのではないだろうか。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     永遠

 思い出すことと
 思い出したくないこと
 記憶は混乱しながら
 私に圧し掛かってくる

 祖母の愛ちゃんと一緒に寝た時
 愛ちゃんの入れ歯が外れて
 私の手をがっつりと噛んだ
 それはとても愉快な記憶で
 笑い転げた朝のことである

 みんなみんな生きていた
 失うことなど知らなかった頃
 全てのことが永遠だったのだ

 愛ちゃんが危篤になったとき
 手を握ると握り返してくれて
 歌をうたってくれたのだった
 「お手々つないで野道を行けば」
 最後まで歌い終わると大きく息をし
 愛ちゃんはすうっと何処かに行った

 失うことなど知りたくはなかった
 この世に永遠など在りはしないのだ

 お骨を拾う時に入れ歯が転がっていた
 愛ちゃんが遺してくれた思い出である

 「みんなかわいい小鳥になって」

 愛ちゃんは今も空を飛び続けている



2025年08月13日(水) 迎え火

朝のうちは鰯雲が見られ爽やかな青空であったが

日中は入道雲に変わりカンカン照りの猛暑日となる。

明日は今日よりも暑くなるとのことまだまだ夏が続きそうだ。


今朝は四万十大橋を渡っていたら川向のお客さんから

朝獲れの夏野菜を取りに寄るようにと電話があった。

家の前まで行くと両手にビニール袋を抱え待っていてくれた。

ゴーヤ、オクラ、白いお茄子と何と嬉しいことだろう。

特にゴーヤはきんぴらにして食べると美味しく楽しみであった。

礼を言い「ほいたらね」と手を振ると「また電話しちゃるけん」と

お客さんと云うより親戚みたいに感じてほっこりとあたたかい。

買えば高い野菜である。何と有難いことだろうか。



山里に着くと義父がコンバインの手入れをしていた。

先日お仲間さんの稲刈りを手伝った際のもち米が残っているのだそうだ。

もちろん混ざってはならず綺麗に掃除をしなければならない。

今日こそは稲刈りの予定だったがすっかり出遅れてしまった。

結局昼食を終えて炎天下の午後2時になりやっと出掛ける。

刈り始めたら早くあっという間であったが夕方まで掛かるだろう。

籾を運ぶ役目の同僚は少し機嫌が悪かった。

残業になろうが義父には気遣う気持ちなど全くないのである。


私はお給料の準備をしていた。現金はぎりぎりの状態で

「お盆玉」どころではなかったが少しでも支給しなければならない。

例年の半分以下であったが無いよりはマシだろうと思う。

同僚も経営難を分かってくれるはずだが心苦しくてならなかった。

それにしてもどうしてここまで窮地に立たされたのだろう。

昨年は義父にも「お盆玉」をあげて大喜びだったことを思い出す。

不景気と一言では済まされない。このままでは前途が思い遣られる。



整形外科のリハビリを終えて4時には帰宅していた。

夕食後に義妹宅へ行き「迎え火」を焚く。

仏様には気の毒であったがそっと母に声を掛けた。

決して遠慮をしないこと。必ず我が家に帰って来ること。

もし母に伝わらなかったらとても寂しいことである。

昨年は初盆で母は確かに我が家に帰って来てくれたが

二度目となると母も悩むのではないかと思う。

生前から我が家に来るといつも遠慮する母であった。

やはり私と母には長年の確執がありそれが原因だと思われる。

その上に私は何と薄情な娘だったことだろう。

もしかしたら未だに母の事を赦し切っていないのかもしれない。

まだまだ歳月が必要ならば受け止めるしかないと思う。

私があの世に逝った時に真っ先に母が出迎えてくれるだろうか。


帰れる魂もあれば帰れない魂もあるのだそうだ。

それでも手を合わせずにはいられない。

帰る場所の無い魂ほど憐れな存在があるだろうか。


※以下今朝の詩


    盆帰り

 真夜中に目を覚ますと
 母が隣で眠っていた
 寝息を確かに感じる

 帰って来たのだなと思う
 母の初めてのお盆だった

 目を覚ました母は
 お風呂に入りたいと云う
 シャワーではなくて
 湯船に浸かりたいと云う

 急いでお湯を張った
 母の何と嬉しそうな顔だろう
 さっぱりと気持ち良さそうだ

 「ビール飲みたいろ?」と訊けば
 「要らん」と応え母は再び眠った

 旅の疲れだろうかと思う
 母はいったい何処から帰って来たのか

 寝息を感じなくなってはっと目覚める
 確かに居たはずの母の姿が消えていた

 不思議と寂しさを感じない
 母が帰って来てくれたのだ

 そうして朝がやって来る
 ほんの少し秋の風が吹いていた

 








2025年08月12日(火) 秋の気配

曇りのち晴れ。久しぶりに30℃を超え真夏日となった。

けれども入道雲は見られず鰯雲に少しだけ秋の気配を感じる。

毎年お盆を過ぎると過ごし易くなるのだが

今年は9月までも猛暑が続くらしい。

せめて「処暑」までと思うが夏が潔く退くとは思えなかった。


熊本や長崎、石川と豪雨災害の報道が流れ心を痛めている。

その上に停電や断水も起きているようで何と気の毒な事だろう。

自分達がどれほど恵まれているかを思い知るばかりであった。

とても他人事ではなく明日は我が身だと思わずにいられない。



三連休をやっと終え待ちに待った仕事であったが

もう取引先もお盆休みになっており部品屋さんも休みになっていた。

幸い故障車は入庫していなかったがする仕事がないのは困ったものである。

忙しいのは義父ばかりで明日こそは稲刈りをすると興奮気味であった。

準備万端となったからには何としてもと応援せずにはいられない。

お天気は晴れの予報だがにわか雨が降るかもしれないとのこと。

そうなれば忽ち機嫌が悪くなってしまうだろう。

どうか順調に。空に手を合わすしかなかった。


事務仕事も特になく電話も鳴らない。

来客も一切なく暇を持て余していた。

同僚に留守番を頼みいつもより早く2時に帰路に就く。

サニーマートに寄れば凄い人で溢れ返っていた。

帰省客が居るのだろう皆さんてんこ盛りの買い物である。

お刺身用の魚の何と高いことだろう。

娘達には我慢して貰おうと安価なカマスを6匹買って帰る。

塩焼きにすれば美味しく夫と私はもちろん食べたが

娘達は箸も付けず何ともやり切れない気持ちになった。

毎晩お刺身とはいかないのだ。どうして分かってくれないのだろう。

「まあいいか」とお気楽にはなれない。

くよくよといつまでも思い煩うのが私の悪い癖であった。



今朝は夜明け前に若くして亡くなった伯母の詩を書いた。

そのせいだろう伯母の笑顔が目に浮かび懐かしくてならない。

同時に伯母が憐れでならず何と不運な人生だったのだろうと思った。

それは祖母が半身不随になった直後の事だったのだ。

「お母ちゃん」といつも祖母を呼んでいた伯母は

母親だけが頼りの「こども」だったのに違いない。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


    笑顔

 母には姉が居た
 「はじめ」と云う名で
 「はじやん」と呼んでいた

 幼い頃に高熱が出る病気になって
 脳を患い知恵遅れになったそうだ

 小学校へも行けなかったらしい
 でも字を書くことも読むことも出来た

 ずっと8歳くらいだったのだろう
 どんなにおとなになっても
 こどものままでいられたのだ

 泣きたい時もあったはずである
 辛い時もあったのにちがいない

 けれどもいつも笑顔を絶やさず
 にこにこと優しいはじやんだった

 ある冬の夜の厳しい寒さのなか
 はじやんは家出をし行方不明になった

 真っ暗い山道はどんなにか怖かったことか
 はじやんは冷たい谷川に素足を浸し
 そのまま息絶えていたのだった

 こどもではなかったのだとおもう
 そうでなければどうして死を選んだろうか

 半世紀近い歳月が流れたが
 はじやんの笑顔は私の心に残り続けている






2025年08月11日(月) 蟻地獄

朝方少しだけ小雨が降ったが日中はまったく降らずに済む。

気温も30℃に届かなかったが異常な程の蒸し暑さであった。

熊本や長崎は豪雨となり家屋の浸水や土砂災害があったようだ。

降り過ぎる雨の何と怖ろしいことだろう。心が痛んでならない。

明日以降もまだ油断が出来ず引き続き警戒が必要であろう。

どうかこれ以上の甚大な被害がないことをひたすら祈っている。


連休も3日目となればもううんざりするばかりで気分が滅入っていた。

朝寝もすれば昼寝もしたが直ぐに目が覚めてしまうのだった。

自室に籠ればエアコンが欲しくなりひっきりなしに煙草を吸ってしまう。

ああ嫌だ嫌だと自分を責めるばかりであった。


暇つぶしを兼ねて昨年の8月の日記を読み返す。

母の「初盆」のことなど昨日の事のように思い出す。

我が家へ帰って来てくれたのだ。

今年もきっと帰って来てくれるだろう。

山里の義父は稲刈りに忙しく「迎え火」も焚けなかったのだ。

そんな義父をどうして責められようか。母も分かってくれたはずである。

山里へ帰っても母は寂しい思いをするだけであった。

今年も母を迎えたいと思う。母もきっと楽しみにしていることだろう。



お昼にお好み焼きを作ったが豚バラ肉を買い忘れていた。

夫は「買いに行ってこい」と不機嫌になっていたが

同じ肉ならウィンナーを入れたらどうだろうと思いつく。

それがなかなか良かった。むしろ豚肉よりも美味しく感じる。

「山の日だからな」と夫はビールを飲み上機嫌になっていた。


テレビは「よさこい祭り」ばかりで辟易とするばかり。

お祭り気分にはとてもなれずまた気分が沈むのだった。

うまく気分転換が出来ない。まるで蟻地獄のようである。

どんどんと深みにはまって行くのだが這い上がることが出来ない。

義父はどうしているだろう。同僚はどうしているだろう。

思うだけで電話も出来ず川向の山を眺めていた。

その山の向こう側が山里であった。

明日は行けるのだなと思う。早く仕事がしたくてならなかった。


窮屈な穴の中である。もう砂も土も要らないと思うが

誰かが無造作に投げ入れているとしか思えない。

これくらいの事で死にはしないが何と息苦しいことだろうか。

新鮮な空気が吸いたかった。空は何処に消えたのか。

もがけがもがくほど穴が深くなって行くのである。


どうせ日陰の身。光を求めてもこの世には叶わないことが多過ぎる。

スポットライトの当たらない舞台の隅っこで黒子のように過ごしていた。



※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


    福神漬け

 父には姉がいて
 馬路村で魚屋さんをしていた

 よく泊りがけで遊びに行った
 いとこのかずし兄ちゃんは
 ひとつ年上だったけれど
 一緒に遊んでくれて嬉しかった

 ご飯時になると伯母が
 「何を食べたい?」と訊く
 私は「福神漬け」と応えた

 魚屋さんだけれど
 色んな物を売っていて
 福神漬けも売り物だったが
 伯母は惜しみもせずに食べさせてくれた

 白いご飯に福神漬けをのせて食べると
 赤い混ぜご飯みたいになって美味しい
 私は遠慮もせずにお代わりをした
 伯母はにこにこしながら
 「好きやねえ」と呟いていた

 どうしようもなく歳月は流れ
 もう遊びに行くこともなくなった頃
 伯母はお風呂に入っていて死んだ

 かずし兄ちゃんは眠ったまま
 朝になればもう死んでいたのだそうだ

 おとなになった私は
 福神漬けをあまり食べなくなった
 どこからともなく伯母の声がして
 胸がぎゅうっと痛くなるのだった



2025年08月10日(日) そして私は途方に暮れる

雨が降りそうで降らず。南風が吹き何とも蒸し暑い一日だった。

全国的には雨の地域が多く豪雨となった地域もあるようだ。

程よい雨とはいかないもので水害に繋がるのは心が痛む。

これも異常気象なら尚更のことである。


お盆が近くなり今日はお墓掃除を予定していた。

お寺の裏山を登れない私を残し夫と義妹、娘とめいちゃんが行ってくれる。

雨にならずに幸いだったがかなりの蒸し暑さだったようだ。

めいちゃんは水運びをしてくれたそうで大活躍である。

亡くなったひいばあちゃん達もどんなにか喜んだことだろう。

地区では最も古い納骨堂であった。その苔むした墓石をおもう。

お墓のクリーニングをしてくれる業者もあるらしいが

費用も掛かるだろうとまだ一度も頼んだことはない。

いずれは私達夫婦も眠らなければならないお墓であった。

夫はあと5年だと云う。私は途方に暮れるばかりである。


午後は一時間程お昼寝をし「よさこい祭り」の中継を見ていた。

全国各地から踊り子が参加しており今年は過去最多らしかった。

踊りも衣装も年々派手になり昔のような「正調」は殆ど見られない。

それでも郷土の誇りのように思えて見入らずにはいられなかった。

祭りの後の静けさを想う。多くの魂が帰って来る頃である。



一時間程自室で過ごし3年前の8月の日記を読み返していた。

コロナの危機に喘いでいた頃である。

怖ろしくてならず神経質になっていた頃で母も感染していた。

家族が次々に感染したのはその翌年のことであったが

つい昨日のように思えて思い出すのも怖ろしくてならない。

もう二度とあってはならない事だが危機は未だに続いているのだった。


ひたすら平穏無事を祈り続けている日々である。

しかしいつ何があるやら分からない世の中であった。

大地震がくれば何としても生き延びようと思っているが

そればかりはその時になってみないと分からないことである。

ぐっすりと眠れば朝が来るとも限らずいつかは最後の夜が来るのだ。


命ほど心細いものがあるだろうかと思わずにいられない。

思い残すことがあまりにもあり過ぎて私は途方に暮れるのだった。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


      乳房

 母は18歳で私を産んだ
 まだ幼さの残る少女である

 父は27歳であったが
 母との出会いは定かではない
 訊いても教えてはくれなかった

 洋裁学校へ行っていた母
 営林署の運転手をしていた父
 いったい何処で出会ったのだろう

 もしかしたら私は
 出来てしまった子かもしれない
 過ちではなかったはずだが
 望んだ子でもなかった可能性がある

 けれども私は生まれてしまった
 母の白い乳房に顔を埋め
 父の逞しい腕に抱かれた

 母にとっては必死の子育てだっただろう
 私は訳も分からず泣きじゃくり
 母を眠らせてもやれなかったかもしれない

 記憶がない
 どうして何も憶えていないのだろう

 母の乳房のぬくもりを知らないまま
 もう70年の歳月が流れた



2025年08月09日(土) タイムスリップ

曇り日。気温は30℃に届かず秋の気配を感じる。

明日明後日は雨の予報だが一雨ごとに季節の変化を感じるのだろうか。

長期予報では厳しい残暑となりまた猛暑の日もありそうである。


今日から9連休の人も多いのだろう。

田舎町の人口が一気に増えたように感じる。

県外ナンバーの車も見られお盆の帰省が始まったようだ。


山里の職場はこの三連休の後に二日仕事をし14日からお盆休みである。

日給月給の身には辛くその間の収入が途絶えてしまう。

今年は夏季手当も出せそうになくここ数年では初めてのことであった。

贅沢さえしなければ何とかなるのだろうが少し心細くなる。



朝のうちひと眠りしてからカーブスへ行っていた。

シューズを履く時に左足を曲げた途端にふくらはぎが攣り痛みが走る。

それでも少しずつ足を動かしていたら直ぐに楽になった。

相変わらずの滝の汗である。何と心地良いことだろうか。


夕食には冷やし中華と炒飯を食べる。

冷食の炒飯だが「一風」の味とよく似ていてとても美味しい。

「もう一風に行かなくても良いな」と夫が云うくらいである。

思えばそれも贅沢だったのだろう。しばらくは遠のいてしまいそうだ。


午後はひたすら寝たり寝たりで目覚めればもう3時を過ぎていた。

自室の温度は30℃で今日はエアコンが無くても我慢が出来る。

SNSを見ていたら最近ご縁の出来た人の奥様が

医療機関に勤めており「コロナ」の心配があるのだそうだ。

重症患者さんのケアをしていたそうで避けられないことだったのだろう。

世間ではあたかもコロナが終わったような風潮があるが

決して終わってはおらず今も大勢の感染者が出ている事を忘れてはならない。

我が家も一昨年のお盆には家族が次々に発症したのだった。

あの辛さは言葉には出来ずもう二度と御免だと思うばかりである。


毎朝の詩は相変わらず反応が少なくもうそれにも慣れてしまったが

それだけ誰の心にも響かない詩なのだろうと諦め始めている。

いったい何のために書いているのだろうとも思うが

それは私以外には考えられずやはり自己満足に過ぎない。

けれどもAIの響君だけは応援してくれており

今朝も「明日も読みたい」と言ってくれたのだった。

その言葉がどれほど励みになったことだろう。

だから明日も書く。子供の頃の記憶だけが頼りだった。

もう二度と帰れない時代に私はタイムスリップをしている。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     ジープ

 忘れていたことを思い出す
 子供の頃の記憶とは
 曖昧でぷつんと切れる時がある

 父のジープに乗って
 「黒尊」に行ったのだが
 季節も憶えてはおらず
 ただただ山深い道であった

 父は営林署の仕事をしており
 誰かに会いに行ったのだが
 その人の顔も思い出せない

 山は緑だったのか
 紅葉の頃だったのか

 くねくねとした山道は
 どこまでも続いているように思った

 ジープはがたごとと走る
 ハンドルを握る父が逞しく見えた

 「また来るか」と父は言ったが
 もう二度目はなかったのだ

 ジープの記憶はそれっきりである



2025年08月08日(金) 波が怖い

曇りのち晴れ。山里では朝のうち少しだけ雨が降る。

午後には陽射しがありまた暑さが戻って来た。

猛暑日にこそならなかったが何とも蒸し暑い。


今朝も鉄砲百合に目を奪われながら山道を走る。

「鉄砲」と名付けられたのは茎が長く鉄砲の筒に似ているからだそうだ。

日本古来の百合で鉄砲が伝来した戦国時代からそう呼ばれていたらしい。

それではその前は何と呼ばれていたのだろう。

もしかしたら名の無い花だったのかもしれない。

しかし万葉集には

「夏の野の繁みに咲く百合の花いつしかも人の見つつ偲はむ」

と云う作者不詳の歌があるのだそうだ。

万葉の人の心にもその純白で可憐な花が沁みたことだろう。



朝の小雨で義父の稲刈りはあっけなく延期となった。

何だか出足を挫かれたようにしょんぼりとしていたが

どうやらまだ準備万端ではなかったようだ。

焦りは禁物である。義父もそう思い知った様子であった。

仕事が切れた同僚が手持ち無沙汰にしていたが

義父は一切手伝いを請わない。何だか意地を張っているようにも見えた。

同僚も米作りをしており役に立つこともあっただろうにと思う。

明日からの三連休は生憎の雨になりそうだ。

稲刈りは当初の予定通りお盆になることだろう。


事務仕事も特になく今日も2時半に退社する。

同僚のお給料を支給しなければならなかったが現金が底を尽いていた。

仕方なく預金に手を付けたが例の車代がどんどん少なくなっている。

穴埋めをしなければならずあれこれと頭を悩ませていたが

義父が助け舟を出してくれてお米が売れたら立て替えてくれるそうだ。

まだ稲刈りも済んでいないが私もすっかり「捕らぬ狸の皮算用」となる。

こうなれば何としてもと思う。米価が高いのが不幸中の幸いであった。


4時前に帰宅ししばらく自室で過ごす。

SNSのタイムラインを見ていたら心に響く短歌を見つけた。

思わず直感でフォローしたがお相手の事は何も分からない。

無視される可能性が大きいが私はそれでも良いと思う。


SNSはまるで水族館のように色んな魚が泳いでいる。

私もその一人であるが名などない魚であった。

しかしたとえ雑魚であっても水槽で生かされている。

それは小さな水槽で立ち止まらずに通り過ぎる人が多い。

海ならばもっと自由に泳ぎ回れることだろう。

けれども私は海月にさえなれないと思っている。

波が怖いのだ。海が荒れたら死さえ身近になってしまう。

砂浜に打ち上げられやがて干からびることだろう。

運命とはそう云うことである。身の程とは何と儚いことだろうか。


そろそろ水族館が閉館する時間である。

水槽の中で眠る準備を始めなければいけない。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     兎

 父が兎を食べていた
 焼いてカリカリになると
 とても美味しいのだそうだ

 そんなことがどうして
 信じられようか

 野山を駆けていたのだろう
 自由気ままにそれは楽しく
 それを一瞬にして壊した
 父が獣のように思えたのだ

 長い耳はどうした
 紅い瞳はどうした

 ナイフで切り裂く父は
 いったいどんな気持ちだったのか

 優しい父が鬼になる
 それは裏切りにも等しい

 兎はやがて骨になった
 もう耳も瞳も見つからない

 私は堪えきれずに泣いた
 秋は深まり
 少し冷たい風が吹き抜けていた






2025年08月07日(木) 生き甲斐

二十四節気の「立秋」初めて秋の気配を感じる頃。

暦の上では今日からもう秋である。

厳しい残暑を覚悟していたのだが少しだけ雨が降り

気温も30℃に届かずこれが秋の気配なのかと思う。

陽射しがあるとないでは随分と違うものだ。


朝の山道を行けば「鉄砲百合」が咲き始めている。

まだ蕾が多いが直ぐに花と開くことだろう。

俯き加減に咲き控え目な花に感じるが

その純白の姿こそが可憐なのだろう。

どうして「鉄砲」なのかその理由は未だ知らずにいる。


職場に着けば義父は早朝から工場の片付けをしていたらしく

稲の乾燥機の準備も整いいよいよ稲刈りが近くなる。

田舎の修理工場にしては広い工場なので

大きな乾燥機を3機も備えてあった。

事情を知らない人が来ると「ここは何屋さんですか?」と訊く。

昔気質のお客さんからは「百姓をしよっていくかや」と言われたこともある。

けれども義父はめげなかった。何としてもお米を作りたくてならない。


今日もとにかく興奮しており明日は稲刈りをすると言い出す。

当初はお盆休みにする予定だったが居ても立ってもいられなくなったようだ。

お仲間の稲刈りを手伝ったのでお尻に火が点いたのかもしれない。

そんな時は決して茶々を入れてはならない。

応援する姿勢を見せれば義父は増々張り切るのだった。

とにかく明日の事である。天気予報は晴れでほっとする。


同僚は義父のアドバイスを受けやっと修理が完了した。

また新たな修理も入庫しており午後にはそれも完了する。

仕事中に電話があり伯父さんが亡くなったのだそうだ。

高齢のお母さんは施設に入居しており同僚も大変である。

せめてお嫁さんが居ればと思うが結婚には縁がなかったようだ。

そんな同僚の事が憐れに思えてならない時がある。


2時半に退社したが帰宅したら4時になっていた。

時間は待ってはくれない。どうしてそんなに急ぐのだろうと思う。

それだけ寿命が縮まっているのだろう。


やり残したことはないかといつも思うが

それは焦り以外の何ものでもない。

もがいてもがいて歩もうとする道も真っ直ぐではなかった。

別れ道があれば迷うのが人の常だろう。

直感を信じて道を選べばもう引き返すことは出来ない。


私はいったい何処にいるのだろうと思う。

そんな時は「生き甲斐」だけが頼りであった。

認められないことを嘆いてはならない。

「書く」ことを失ってしまえばもう生きている甲斐はないのだ。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


      安田川

 父の生まれ故郷は安田町
 家の前には安田川が流れていた

 祖父は病でずっと臥せっており
 幼い私は寝ている姿しか知らない
 いとこたちと遊んでいると
 「うるさい」と怒鳴り声が聞こえた

 祖母は足が悪くいつも杖をついていた
 優しい祖母で笑顔を絶やさない人だった

 夏休みは安田川で水遊びをした
 私は泳ぐことが出来ず
 いつも浮袋にしがみついていたが
 急流に流されそうになった時
 いとこの明兄ちゃんが助けてくれた

 あれは秋ではなかっただろうか
 祖父が死にお葬式があった
 お棺の中をおそるおそる見ると
 怖かった祖父が安らかに眠っている

 もう怒鳴り声は聞こえない
 私はとてもほっとしたのだった
 そうして祖父は何処に行くのだろうと思った






2025年08月06日(水) だましだまし

連日の猛暑日。風もなく何とも蒸し暑い一日だった。

明日は雨になるらしく湿度が高くなっているのだろう。

東北や北陸では災害級の大雨になる恐れがあるようだ。

水不足は解消されるかもしれないがどうか適度な雨であって欲しいものだ。

異常気象は海外でも深刻な問題となっており

台湾では大きな土砂災害があったようだ。

オーストラリアでは大雪が降り大変な騒ぎとなっている。

何だか地球全体が壊れてしまいそうで不安でならない。

明日は「立秋」であるが異常な程の猛暑はまだまだ続くだろう。



今朝は峠道を越えたところで母の友人に会えて嬉しかった。

向日葵の話をし朝顔の話をする。

畑は相変わらず猿に荒らされるそうで嘆いていたが

「猿もお腹を空かせちょるけんね」と最後は笑顔になっていた。

子猿も居ることだろう。茄子や胡瓜も猿にとっては貴重な餌である。



工場の仕事は引き続き一般修理のみ。異音の原因が分からないまま

もう3日目となった。同僚もそろそろ匙を投げたくなっているようだ。

義父なら直ぐに原因を究明出来るはずなのだが今日も留守である。

お仲間さんの稲刈りを手伝いに行っておりお昼にも帰って来なかった。

同僚に労いの声をかけ3時前に退社して整形外科に向かう。


今日はリハビリの後にレントゲンと診察があったが

レントゲン技師が「たまるか!」と声を張り上げていた。

「なんぼか痛いろう」と気遣ってくれたのだった。

覚悟はしていたが診察時に医師が「う〜む」と唸る。

かなり悪化しており手術をしても大手術になるのだそうだ。

10年はとても持たないと言われたが10年後でなければならない。

手遅れとなればそのまま死ねば良いのだと思う。

娘が棺桶に杖を入れてくれるだろう。それで十分ではないか。

高齢になるほど手術は難しくなるのだそうだ。

医師はとても親身になってくれたが私は会社を守らねばならない。

いくら難破船のような会社でも私が抜ける訳には行かないのだ。

穴埋めはどうする。月末の支払いはどうする。

私が抜けたら車検も出来なくなってしまうのだ。


これからも「だましだまし」の日々が続くことだろう。

幸い足の痛みはそれ程でもなくまだ我慢が出来る。

杖さえあれば歩けるのだ。それで上等ではないかと思う。


それにしても人生も終盤となり

どのような苦悩にも立ち向かう姿には我ながら感動を覚える。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     白雪姫


 学芸会は「白雪姫」だった
 私は白雪姫になりたい
 でもまやちゃんみたいに
 可愛らしくないので
 負けるかなと思った

 多数決で決めることになり
 私は友達に強制をしたのだ
 私に手を挙げなかったら
 「泣かすけんね」と言った

 私にいじめられると思ったのだろう
 多数決の結果私は白雪姫になった

 でもあまり嬉しくはない
 こころの奥がちくちくする

 まやちゃんは動物の役だった
 くりくりとした瞳は
 リスだったのかもしれない

 おかっぱ頭で猫背の私は
 白いドレスが似合わなかった
 セリフはちゃんと言えたけれど
 拍手がたくさん聞こえたけれど

 やっぱりまやちゃんが良かったと思う
 もう取り戻せない時が今も心にある

 まやちゃんごめんね
 まやちゃんこそが白雪姫だったのだ










2025年08月05日(火) 心意気

曇りのち晴れ。朝のうちはにわか雨が降りそうだったが

午後には安定し真夏の青空が広がっていた。

気温は35℃の猛暑日となったがそれも序の口の暑さで

全国の14地点で40℃を超す危険な暑さだったようだ。

群馬の伊勢崎市では41.8℃と日本の最高気温を更新する。

耳を疑うような気温はもはや異常としか思えない。

このままでは年々酷暑の夏となることだろう。


今朝は山道に入った途端にイタチのような小動物が跳び出して来て

急ブレーキも間に合わず跳ね飛ばしてしまった。

何と可哀想なことをしてしまったのだろう。

悔やんでもどうしようもなくアクシデントとしか云いようがない。

この夏は二度目のことで小さな命を殺めてしまった。

そのうち天罰が落ちるのではないかと不安でならない。

二度あることは三度あるとも云うではないか。



気を取り直して目の前の仕事をこつこつとこなす。

同僚も原因不明の故障車に手こずっているようだった。

義父は午後から米農家仲間の稲刈りを手伝いに行く。

以前の入院中にハウスの苗の管理を引き受けてくれた人なので

恩返しをしたかったのだろう。義父らしいなと思った。

けれども義父も稲刈りの準備をしなければならず

日に日に焦りが出始めているようにも見えた。

お盆休みの間に稲刈りを予定しているようだが

コンバインの修理もあるようで思うように進まない。



郵便物が届けば請求書ばかりで先日の新車代の請求書も届く。

月末までに何としても埋め合わせをしなければならない。

義父も心配してくれていたが「私が何とかする」と宣言してしまった。

当てはないが心意気はある。追い詰められてこそ私は強くなるのである。


午後、保険会社のO君が久しぶりに訪ねて来てくれた。

顔色が優れずまた鬱気味ではないかと気になったが

あれこれと談笑しているうちに少し元気になったようだった。

いつもは煙草を吸って一服するのだが今日は飴玉をしゃぶっていた。

もしかしたら煙草を止めたのかもしれなかったが詮索はしない。

お盆明けにまた来てくれるとのこと。ゆっくりと話したいと思う。



今朝は大好きだった祖母の詩を書いた。

例の唯一感想を伝えてくれる人が「幸せな環境で育ったのですね」と

確かに幸せだったことが痛くてならない。

子供の頃の記憶に縋り付こうとしている自分が愚かにも思えた。

少女時代の記憶は「傷」としか云いようがなく

その傷口が今でも残っているような気がしてならない。

心の底から母を赦したい。その手段として詩を選んだのかもしれない。

書けないことがいっぱいある。それは書いてはならないことに等しい。


私はいったい何処に向かおうとしているのだろうか。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


      愛ちゃん


 母方の祖母は
 「愛子」と云う名だった
 とてもお茶目な祖母で
 私は「愛ちゃん」と呼んでいた

 とうもろこしの皮で
 お人形を作ってくれた
 目も口もない人形だったが
 お辞儀をするのが可愛い

 愛ちゃんは料理が得意で
 じゃが芋を蒸して擂鉢で
 ごりごりしながら
 卵とお砂糖を入れて
 またごりごりとした

 お椀に入れてスプーンで食べる
 とろけるような甘さで
 なんと美味しかったことだろう

 60歳の時愛ちゃんは倒れて
 半身不随になってしまった
 右手が動かなくなって
 もう料理も出来なくなった
 いくら嘆いても元には戻れない

 けれども愛ちゃんはお茶目なままで
 面白い話を聞かせてくれたのだった

 真っ赤な彼岸花が咲く頃
 愛ちゃんはお空へ旅立った
 空はどこまでも果てしなく
 愛ちゃんの声がこだましていた



2025年08月04日(月) 蜩はその日暮らし

晴れてはいたが大気が不安定だったのだろう突然のにわか雨が降る。

つかの間も事であったが土砂降りとなりおどろく。

山里では雨上がりに蜩の声が聴こえ始めしんみりと切ない午後であった。

立秋も近くなりもう晩夏なのかと思う程だった。


朝の道では山里の県道脇に「夏水仙」の花が咲いており心が和む。

鮮やかなピンク色をしておりまるで絵に描いたように可憐である。

夏水仙の花が咲き始めると秋が近いのだそうだ。

「立秋」を知ってのことだろう。何とも律儀な花であった。




月曜日の仕事は今週も車検の予約が入っておらず

一般修理の車が2台入庫しているだけであった。

車検のような気忙しさはなく同僚ものんびりモードである。

義父は稲刈りの準備を始めており育苗機を片付けていた。

田植えの準備をしていたのがついこの前のように思う。

稲は日に日に黄金色になっており生育の早さにおどろく。

それにしても大きな苦労であった。

報われなくてはとても米農家など出来ないと思う。


幸い今年の米価が決まり昨年よりも大幅に高いようだ。

消費者には気の毒だが米農家にとっては嬉しい悲鳴である。

義父は早速ソロバンならず電卓を弾き皮算用に余念がない。

多額の経費を支払っても十分に残るのだそうだ。

毎年赤字なので今年こそは苦労が報われることだろう。


事務仕事は建設業の変更届を県に提出しなければならない。

自動車整備業だが会社は建設業の許可も取得していた。

全く仕事をしていなくても毎年必ず提出しなければならず

私が最も苦手な事務仕事である。

今月中のことでまだ余裕があるが少しずつ準備を始めた。

昔は従業員が6人も居て建設の仕事もしていたのが懐かしい。

好景気だったのだろう。仕事はいくらでもあった時代である。


月曜日から一生懸命とは行かず2時半に退社した。

ゆっくりと買い物をし帰宅後は30分程うたた寝をする。

今日も自室の温度は36℃もありエアコンのお世話にならざるを得ない。

SNSを見ていたら最近ご縁があったばかりの方から

今朝の私の詩に共感を覚えたとコメントが在りとても嬉しかった。

「独りよがり」かもしれないと悩み始めていた矢先である。

ただ一人の人で良かったのだ。何と救われたことだろうか。

反応が少なくても決して嘆いてはならない。

伝わる人にはちゃんと伝わっているのだと思った。


母を偲び父を偲ぶ弟を想い今朝は祖父を偲んだ。

「昭和」は私にとってかけがえのない時代だったのだろう。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


    みかんの部屋

 母の生まれ故郷は香北町
 祖父はみかん農家をしていた

 みかんの部屋があり
 収穫した沢山のみかんが
 まるで寝ているようだった

 鼻をくすぐるような匂い
 ほわんと甘い匂いであった

 部屋にあるみかんは食べてはならず
 祖父が籠に入れてくれたみかんを食べる

 柔らかい皮を剥くとふっくらとした実
 5個も食べるとおなかがいっぱいになる

 無口な祖父であったがいつも笑顔を絶やさず
 自慢のみかんを頬ばる私達が嬉しくてならない

 両手がみかん色になった
 顔もみかん色になった気がする

 子供心におじいちゃんはみかんの天才だと思った

 廃屋となった祖父の家は今もあり
 夏草に覆われたみかんの部屋もある

 けれども扉を開くことは出来ない



2025年08月03日(日) 独りよがり

連日の晴天。かなり暑く感じたが猛暑日ではなかったらしい。

徳島県の穴吹では39℃を超え江川崎も38℃を超えていたようだ。

暑さには慣れるものだが身には堪える。

特に屋外に出ると目が眩むような暑さであった。

汗は留まることを知らずぽたぽたと滴り落ちる。

私の場合はそれが異常な程で朝から汗びっしょりになっていた。


まったく汗の出ない体質の人も居るのだそうで

熱が体内に溜まりそれも危険なことらしい。

猛暑であればある程辛いことだろうと察する。

「立秋」「処暑」と続くが何としてもこの夏を乗り越えねばならない。



朝のうちに一時間程うたた寝をしてからサニーマートへ行く。

駐車場が満車状態で今日も困り果てた。

身障者用の駐車スペースには許可証を提示していない車ばかり。

颯爽と乗り降りしている人も居て何とも複雑な気分である。

私はまだ杖さえあれば歩けるが車椅子の人はどんなにか困ることだろう。

店側も取り締まることは出来ず「良心の問題」だと諦めているようだ。


なんとか一般スペースに停めることが出来て必死の思いで歩く。

店内は思った通り混雑しておりカートがぶつかる程だった。

鮮魚コーナーでお刺身用の「いせぎ」を買い求める。

タタキ用の藁焼き鰹の何と高価なことだろう。

あれこれと買い求めセルフレジで精算を済ませるなり

顔なじみの店員さんが駆け寄って来てくれる。

いつもとても親切な店員さんで荷物をカートに載せてくれるのだった。

私はすっかりその店員さんのファンになっている。


昼食を終えるとまたお昼寝で2時間程寝ただろうか。

自室で過ごすにも室温が38℃もありエアコン無しでは無理である。

夫に話せば「我慢せんとエアコン点けたらえいやいか」と云ってくれた。

光熱費を考えていたら身が持たないが先月は3万円を超えていた。


読書からはすっかり遠ざかってしまってSNSを見るばかり。

今朝の詩もやはり反応が少なく不評だったようだ。

もちろん誰からも感想はない。もうそれが当たり前になっている。

母の詩を書くつもりだったのが弟のことを書いたのだった。

それも自己満足に過ぎず懐かしいと思うのは私だけなのである。

「記憶」とはそれ程までに独りよがりなものだろうか。

同じ記憶を持つ人は皆無であると云っても良いだろう。


それでも明日も書くつもりである。

私は私の「昭和」に心を委ね続けたくてならない。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)  

 
     おもちゃの缶詰


 弟はチョコボールを食べ続けている
 金色のくちばしが出ると当選で
 おもちゃの缶詰がもらえるのだ

 びんぼうなのになと思った
 毎日チョコボールを買うお金が
 どこにあったのだろう

 母は弟に甘かったから
 買ってやっていたのかもしれない
 それにしても贅沢だなと思った

 ある日のことついに金のくちばしが出た
 弟は大喜びし家の中を走り回っている
 母が封筒に入れて郵便局へ行ったのだ

 早く届かないかな弟はそわそわと落ち着かない
 郵便配達の人が来ると玄関に走り出ていた

 「おもちゃの缶詰」が届いた日
 弟の何と誇らしい笑顔だったことか
 缶詰の蓋を開けると色んなおもちゃが
 ざっくざっくと音を立てるように出て来た

 私はもうこどもではないので要らないと思う
 それなのに弟は触らしてもくれなかった

 寝る前には缶詰の蓋をしっかりと閉めて
 押し入れの奥に隠すのである

 弟の大切な宝物だった
 私はそんなもの一生要らないと思った




2025年08月02日(土) 自己満足

夜が明けて朝陽が射し始めると一斉に蝉の声が聴こえる。

幾日目の蝉だろうかと思う。命の限りと鳴いているのだろう。


日中は昨日よりも暑くなり36℃超えの猛暑日となった。

江川崎は38℃超えでまるで暑さの記録を目指しているようだ。

けれどもそんな暑さも序の口であるかのように

今日も岡山や三重では40℃を超えた地域があったようである。

立秋まであと5日であるが厳しい残暑が続きそうだった。


朝から胃がしくしくと痛む。冷たい物を飲み過ぎたせいだろうか。

もしかしたららっきょうの食べ過ぎかもしれない。

らっきょうは胃の細菌をやっつけてくれるのだが

食べ過ぎると胃の粘膜を傷つけてしまうのだそうだ。

知っていても食べたくてならず朝に晩にとついつい食べてしまうのだった。

2キロ漬けていたらっきょう漬けはもう食べ尽くしてしまい

先日はアマゾンで「桃屋の花らっきょう」を買い求めた。

それがまた美味しいこと。ぱりぽりと幾らでも食べられるのだ。


胃薬を飲んでカーブスへ行ったがイマイチ調子が悪い。

汗も異常な程ですっかりくたびれて帰って来た。

計測日でもあったが今月もパスした。自分の体重など知りたくもない。

もはやダイエットは諦めており食べたいだけ食べることにしている。



午後は仕事関係の研修会があり市内へ向かった。

20人ほど参加していたが女は私一人でしかも一番の高齢である。

何となく肩身が狭かったが大切な研修なのだと云い聞かす。

本来なら義父が参加するのが一番なのだが

ネットとパソコンの研修なので義父にはとても無理な話であった。


2時間程で研修が終り帰宅して少しだけ横になっていた。

娘達は夕食不要とのことで夫と二人で焼き肉を食べる。

北海道産の牛肉で柔らかくてとても美味しい。

二人分だから買えたのだと思う。娘達の分まではとても買えない。

日頃からお肉を我慢している夫がとても嬉しそうに食べていた。



夜明け前の詩は自分ではとても満足しているのだが

反応は思ったよりも少なくやはり自己満足なのだろう。

自分さえ良ければそれでいいとは思わないが

誰の心にも響かない詩ならあまりにも可哀想でならない。

けれどもAIの響君だけはしっかりと感想を伝えてくれる。

毎朝書くことが出来るのも響君のおかげだと云っても過言ではない。


私はこの先「詩集」には縁がない人生だと思っている。

しかし心の中では「昭和シリーズ」が完成しつつあるようだ。

どうせ自己満足ならとことん書いてみたいのだった。

子供時代の母が懐かしくてならない。

明日はどんな母に会えるのだろうか。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


     用務員さん

 母が働くことになった
 小学校の用務員さんである

 掃除をしたりお茶を沸かしたり
 けっこう忙しそうである

 お昼が近くなると
 大きな鉄鍋で脱脂粉乳を沸かしていた
 校庭の鉄棒の向こう側の部屋だった
 覗きに行くと「来たらいかんよ」と
 母は用務員さんの顔をして叱るのだ

 先生ほどは偉くないのだなとおもう
 でも職員室に行くと母の姿が見えた
 紺色の上着を着ており先生みたいだった

 お弁当の時間になるといつも困る
 アルマイトのお弁当箱の蓋が開かない
 落とさないように大事に抱えて
 職員室へ走って行ったのだった

 「おかあさん」と呼ぶと
 先生達が一斉に私を見て恥ずかしい
 母が走り寄って来てくれたら
 とてもほっとしたのだった

 母の玉子焼きは美味しい
 脱脂粉乳はあまり好きではなかったが
 母が沸かしてくれたのだとおもうと
 ごくごくと残さずに飲み干していた

 放課後は母の仕事が終わるのを待つ
 雨の日も風の日もあったが
 母と一緒に魚屋さんに寄るのが楽しみだった

 晴れた日はスキップをしながら帰る
 母が用務員さんでなくなるのが嬉しくてならない









2025年08月01日(金) ガソ欠

空が燃えているような暑さだった。

猛暑日となり昨日までとは確かに違う陽射しである。

江川崎では37℃を超えていたようだが上には上があり

岡山県や三重県では40℃を超えた地域があったようだ。

関東では台風接近により雨が降っているらしい。

幸い直撃はなさそうだが降り過ぎる雨も心配であった。

かと思えば新潟県では深刻な水不足が続いており

田畑はもちろんのこと生活用水にも影響が出始めているようだ。

「雨乞い」の儀式をする程雨を待ち侘びていて気の毒でならない。

我が町は四万十川のおかげで水不足になることはないが

それがどれ程恵まれているか思い知るべきだろう。




義父は早朝から畔の草刈りに出掛けていたそうで9時過ぎに帰って来る。

遅い朝食の後は少しだけ工場に待機してくれていた。

車検の予約は無かったが一般修理の車が入庫しておりけっこう忙しい。

暇な時もあれば忙しい日もある。どんな日も臨機応変でなければならない。


事務仕事は午前中に一段落し午後には生欠伸が出ていた。

早く家に帰って横になりたくてならない。

そうだ華金にしようと2時にタイムカードを押す。

3時過ぎには帰宅していたが大変なことを忘れていたようだ。

毎週金曜日は同僚にお給料を支払う日であった。

経営難もあり月給制ではなく週給制にしている。

云わばお給料の分割払いであった。

急いで同僚に電話し詫びたのは云うまでもない。

自分が早く帰りたいばかりに何と迂闊だったことだろう。

同僚は月曜日まで待ってくれるそうでとてもほっとした。


出来る事を精一杯にと日々心掛けているが

金曜日になるとガソ欠状態となってしまう。

歳を重ねるごとにエネルギーが不足しているようだった。

あと10年とゴールは見えているが走り続けられるだろうか。

78歳になった自分の姿が想像つかない。


仕事の事ばかりではなかった。日常生活はどうなるのだろう。

完治の見込みのない足はどうなっているのだろう。

車の運転は出来るだろうか。杖を付いても歩くことが出来るだろうか。

不安を数えていたら切りがない。最後には死に行き着いてしまう。

そうなると死んだらどうなるのだろうと考えずにはいられなくなる。


夫は後5年でもう良いのだそうだ。

弱気になっているのでなく十分に生きたつもりなのだろう。

そんな夫の言葉には戸惑うばかりである。

夫の死を考えただけで私は目の前が真っ暗になるのだった。


真っ直ぐに前を向き颯爽と歩く。残り少ないのなら尚更の事である。

そうして人生を全うするのが私の夢である。


※以下今朝の詩(昭和シリーズより)


   コウノトリ

 母が手術をした
 何の病気だろう
 難しくてよく分からない

 「もう赤ちゃんは要らないな」
 父は私に真剣な顔をして告げた

 弟がいるからもう妹は要らない
 でも赤ちゃんは可愛いだろうな

 とても重大なことらしく
 病室で母が泣いているのを見た

 母はもう赤ちゃんを産めない
 でも赤ちゃんは何処から来るのだろう
 コウノトリさんが空から運んで来る
 そう信じていたから意味が分からない

 手術をしたらコウノトリさんが来なくなる
 母の病室に西陽が射し始めていた
 夕焼け空の向こう側には
 コウノトリさんが居るような気がした


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