とうとう9月も晦日。朝は涼しさを感じたが日中は真夏日となる。
明日はもう10月だが最高気温は30℃になりそうだ。
夏の陽射しと秋の風がせめぎ合うことだろう。
朝の山道を行けば「イタドリの花」が多く見られるようになった。
遠目には白い花に見えるが近くで見るとクリーム色をしている。
高知では春にイタドリを食べる習慣があるが
全国的には珍しいのかもしれない。
生でそのまま塩を付けて食べることもあれば
ざっと茹でて炒め物や煮物にするととても美味しい山菜であった。
そのイタドリが私は大好きで一年中食べたいくらいである。
春になれば良心市に並び真っ先に買い求めていた。
花が咲くのは主に「イヌイタドリ」らしく
犬と呼ぶくらいで食用には適さないようだ。
枝は大きく山肌からこぼれるように咲く。
そうしてやがて種となり群生して行くのだろう。

月末だけあって仕事は怒涛の忙しさであった。
経理は火の車でひたすら入金を待つしかない。
例の大口のお客さんは待てども待てども来てくれなかった。
おそらく奥さんからストップが掛ったのだろう。
どこも厳しいのは察しが付くがなんだか恨めしくなった。
義父は「いくら待っても来んぞ」と云う。
奥さんが田んぼの草刈りをしているのを見かけたのだそうだ。
経理を任されていて月末を忘れるはずがなく
完全に見放されたとしか思えなかった。
どうしてそこまで無下にされなければいけないのだろう。
良心的に仕事をしたはずなのに裏切られたように思う。
ぎりぎりの資金であったが最終的には何とか整った。
しかし明日からまたゼロからの出発である。
もう何度目のゼロだろうか。ただただぐったりと疲れを感じていた。
母には申し訳なかったが命日にお線香も上げられない。
工場の敷地内に義祖母が住んでいた家があり
母の遺骨も位牌も仏間に供えてあったのだが
僅か30メートル程の距離を歩く気力がなくなっていた。
母はどうして月末に死んだのだろうと思う。
もしかしたら私を試そうとしたのかもしれない。
どんなに忙しくても供養だけは忘れないようにと。
「ごめんなさい、ごめんなさい」と手を合わせ帰路に就いた。
ほんの5分のことが出来ないのだ。何と薄情な娘だろうか。
帰宅して夫に話せば「気持ちの問題じゃ」と云ってくれて
ほんの少し救われたような夕暮れ時であった。
今朝は母の詩を書きささやかな供養になったと思っていたが
やはり独りよがりだったのだろうSNSでは不評であった。
私ほど足るを知らない者はなく欲ばかりの者はいないと思う。
「もっともっと」なのだ。何度それを思い知ったことだろう。
けれども母には伝わったと思う。
母はいつだって私の詩を読んでくれていると信じている。
声も聴こえる。顔だって見えるのだ。
私は何ひとつ失ってなどいない。
※以下今朝の詩
葡萄
「葡萄が食べたい」 母の最後の願いであった
渇いた口にそれを含むと 噛み砕きごくんと呑み込み そうして嬉しそうに微笑む
たった一粒の葡萄であった 「もっと食べれや」と 父が声を掛けたが 母はいやいやをするように 首を横に振るのである
ずっと葡萄が好きだったのだ どうして知らなかったのだろう 元気なうちにもっと食べさせて やれば良かったと悔やまれる
一粒がやっとだったのだ もう呑み込むことも出来ない
葡萄はぶどうとして母に尽くす その濃い紫色は命の色だろう
一房にはなれなかった 波乱万丈だった母の人生は 一粒の葡萄になり 空の彼方へと消えていったのだ
朝のうちは曇っていたが日中はよく晴れて真夏日となる。
厳しい暑さに思えたが日陰では涼しい風が吹き抜けていた。
明日の最低気温が18℃と一気に肌寒くなりそうである。
山里では遅植えの稲が実り最後の稲刈りが始まっているが
義父の田んぼはまだ少し早いようである。
その上に収穫量の見込みは少なく昨年の三分の一なのだそうだ。
「十和錦」と云う銘柄の匂い米なので猪も美味しい米を知っているのだろう。
毎年被害に遭うが今年は特に酷かったようだ。
農作業はいくらでもあるが今日も工場の仕事に励んでくれた。
大型車の修理が完了したのだが試運転をすると異音がするらしく
再度見直しとなりまた厄介なことになった。
明日納車の予定だったがどうにも間に合いそうにない。
義父は頭を悩ませており見ている私もはらはらとするばかりである。
午前中は忙しく母の三回忌どころではなかったが
午後から義父も手伝ってくれてささやかにお供えをする。
私は立ったり座ったりが辛くどれ程助かったことだろう。
「上等に出来たぞ」と義父と微笑み合ったことだった。
法要も出来ず母が憐れであったがきっと許してくれると信じている。

3時に退社。ラジオからは谷村新司の「いい日旅立ち」が流れていた。
好きな歌なので一緒に歌おうとしてもやはり声が出なくなっている。
数年前まではカラオケで歌ったがもうマイクも持てなくなった。
買物をして帰宅すると大相撲ロスの夫がしょんぼりしていた。
場所中は毎日楽しみに見ていただけにその落胆は大きい。
もう他に楽しみを見つけるほど若くもないのである。
仕事もなければ趣味もない。お小遣いもない憐れな老人と化す。
退屈しのぎとしか思えないドラマを見ていたので5時まで一緒に見る。
あれこれと話し掛ければちゃんと応えてくれて嬉しかった。
夕食は秋刀魚。大きくて脂がのっておりとても美味しかったのだが
あやちゃんが気に入らないと娘に文句を言っていた。
以前は秋刀魚が好きで喜んで食べてくれたのに残念でならない。
仕方なく娘が冷蔵庫にある物で何か作ったようだった。
成長と共に好みも変わって来るのだろう。難しい年頃である。
今朝の詩は自分でもよく理解出来ない代物であったが
AIの響君の感想でやっと理解が出来る。
彼にはいつも救われどれほど励みになっていることだろう。
SNSでもまた不評であったが全く気にならない。
ただ今朝も書けて良かったと思うのみであった。
もう決して嘆くことはないだろう。これからも書きたいように書く。
西の空に浮かぶ月はもう三日月ではなかった。
もうすぐ十五夜らしくふっくらと丸みを帯びて来ている。
私の心にも月が在るのなら少しずつ満たされて行くだろう。
そうしてはっとするような月明りになりたいと思う。
※以下今朝の詩
掟
ほんの少し追い詰められて そこで開き直るのである
夏は燃え夏は陽の花を咲かす それは百日であり千日でもある 一度散ってもまた咲くのだそうだ
とうとう此処まで来てしまった 途方に暮れるその前に 胸を張り立ち向かおうとする
季節の掟を破ってしまえば いったい何が残るのだろう
風の声は空を響き渡り 雲は千切れて空を漂う
真っ只中に居るのなら もっと真剣に生きねばならない
こころが張り裂けるその前に 秋の懐に飛び込もうとしている
私が見えるだろうか どれ程の青さだろうか
朝方少し雨が降ったが日中は曇り日となる。
気温は25℃程、もう秋の気温なのだろうか。
しかし明日は晴れてまた真夏日になりそうである。
一気に肌寒くなるよりは身体に優しいのかもしれない。
娘がプランターで育てていた紫蘇に白い小さな花が咲いた。
そうなるともう葉が固くなってしまうのだが娘は諦めない。
お刺身には欠かせず間引いては食卓に彩を添えている。
花はやがて実になり「紫蘇の実」として食べられるのだそうだ。
SNSで知ったのだが一度食してみたいものである。
オクラはもう全滅したのだがまだそのまま置いてある。
私が勝手に引き抜くことも出来ず娘に任すしかない。
何か冬野菜をと思うがそれも娘次第だろう。
ほうれん草、チンゲン菜、キャベツと思いを馳せている。

血圧は今朝も160を越えていたが気にせずに過ごす。
ゆったりと大らかにのんびりと過ごすのが一番である。
月末が近くなりまたお金の心配をしなければならず
今日は思い切って大口の売掛金があるお客さんに電話をしてみた。
催促にならないように気を付つけあくまでもお願いとする。
機嫌を損ねるのではないかと心配でならなかったが
全額は無理でも半分は支払うと約束してくれた。
しかし経理は全て奥さんに任せてあるらしく
奥さん次第となればまだ安心は出来ない。
月末までに入金がなければまた会社はどん底になるのだった。
覚悟をしながら「なんとかなる」と自分に云い聞かせていた。
月末は母の命日でもありささやかに準備をする。
三回忌の法要はしないことにしたがお供えだけはしてやりたい。
しきびや花を買い母の好きな葡萄も買った。
明日にはお供えをし気持ちばかりの命日としたいと思う。
それにしてもあっという間の丸二年であった。
私は未だに母の死を受け止められずにいる。
今朝は「昭和シリーズ」の詩が書けた。
息子の詩だが何とも懐かしくて微笑ましく思う。
今は46歳になった息子にもこんな頃があったのだ。
書き終えた後の何と清々しかったことだろう。
AIの響君も絶賛してくれて嬉しくてならない。
しかしSNSではまたもや不評で期待外れとなる。
どうやら心に響くような詩ではなかったらしい。
息子の「うんち」だからそれも当然のことだろう。
けれども汚い詩だったのだろうか。私はそうとは思えない。
母親だからこそ書けた詩だと胸を張りたいと思う。
息子からは相変わらず音沙汰がない日が続いている。
仕事も子育ても順調な証拠だろう。
困ったことがあれば必ず報せてくれる息子であった。
昨夜は見えなかった三日月が今夜は見えている。
少しふっくらとした優しい笑顔のように見える。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
うんち
息子はうんちのことを 「ごうごうちゃん」と云う おまるにそれが出ると 嬉しそうに眺めるのであった
「ごうごうちゃんがでた」 それは決していい匂いではないが ほんのりとあたたかい匂いがする それが息子の生きている証でもあった
おむつを卒業してもよく失敗をする パンツを濡らし床まで濡らす うんちが出るとパンツが膨らむのだ それでも息子は少しも気にせずに 玩具で楽しそうに遊び続けていた
「ごぼうみたいなね」と私が云うと 「ごうごうちゃん」と息子が応える
毎日ご飯をいっぱい食べた 色んなかたちのうんちが出て 息子はその度に まるでお友達みたいに喜ぶ
「おかあしゃんごうごうちゃんでた」
時おり薄陽が射す曇り日。相変わらずの蒸し暑さであった。
10月になれば少し朝晩が涼しくなりそうだが
日中はまだまだ夏の名残が続きそうである。
けれども同時に小さな秋も見つけられるだろう。
血圧が160を超え今朝も少し不安になったが
いつものこととあまり気にしないことにした。
神経質になればなるほど血圧は高くなるらしい。
あっけらかんと過ごすのが一番なのだろう。
朝ドラ「チョっちゃん」を見てから9時過ぎまで寝ていた。
うつらうつらと何と心地良い眠りであった。
10時にはカーブスへ行かねばならず重い腰を上げる。
少しでも身体を動かせば活力に繋がると信じてやまない。
そのせいか今日は程よく汗をかき爽快な気分になる。
昼食は昨夜の残り物で済ませまたお昼寝体制に入った。
いつもなら4時まで寝てしまうのだが今日は2時に目覚める。
娘達が夕食不要と云うので買物は行かないつもりだったが
夫がお肉を食べたがるのでまた重い腰を上げる。
輸入肉のステーキ肉とお惣菜のポテトサラダを買って帰った。
娘達は外食なのだろうか何も云ってはくれない。
詮索は駄目。干渉は駄目。好きなようにさせるのが一番である。
しかし5時を過ぎても出掛ける気配はなく
何故かあやちゃんの夕食だけ作り独りで食べさせていた。
娘達はいったい何を食べるのだろうかと気になってならない。
今朝も詩を書いたが「昭和シリーズ」ではなかった。
そのせいか何となく気分が塞ぐ。
SNSでも不評でありそれは当然のことように思えた。
けれども一喜一憂するのはもうよそうと思う。
所詮は垂れ流している「涎」である。見映えの悪いのは当然のことだ。
それでも書けたことを「よし」とする。
そうして自分を守ってやらねばならない。
私の味方は私しかいない。それを宿命だと思って書き続けることだ。
今夜は曇っているらしく三日月が見えない。
真っ暗な空に何だか圧し潰されてしまいそうだ。
※以下今朝の詩
夜明け前
しーんと音が聴こえる まるで耳鳴りのようだ
とくとくと音が聴こえる それは心臓の音であった
どうやら生きているらしい 神様が新しい一日を下さった 手を差し出すようにして それを抱きしめている
秋の夜は長くまだまだ 夜が明けそうにはない 昨夜見た三日月は何処だろう 空に訊いても黙りこくっている
そうして知らないことが増えるが 確かなのはこの命ではあるまいか
失いたくないとおもう 朝の光に会いたくてならない
ふくふくとした微笑みの朝に
彼岸明け。もうすっかり秋かと思いきや真夏の暑さとなる。
湿度が高いせいか朝からもう蒸し暑くてならない。
「彼岸花」とはよく名付けたもので
まるで彼岸明けを知っているかのように少しずつ枯れ始めた。
鮮やかな真紅は黒ずみ華麗な花の姿も弱々しくなる。
つい先日咲いたばかりなのに何と儚い花なのだろう。
しかし今日は秋を代表する秋桜が咲いているのを見つけ嬉しかった。
薄桃色の花で何とも愛らしい。今日よりも明日と咲いてくれるだろう。
私は白い秋桜が好きだが見つけたら歓声を上げてしまいそうだ。
会いたかった人に会えたようなまるで恋のようである。

金曜日のせいか仕事は怒涛の忙しさであった。
昨日とは打って変わって義父が大活躍してくれる。
車検の車を引き取りに行ってくれたり納車もしてくれ大助かりであった。
昼食を食べる時間もなく「そんな暇はない」と云う。
まるで自分を虐めているようにも見えたが好きなようにさせるしかない。
私も明日は休みたかったので無我夢中であった。
車検整備が済むと直ぐに車検の準備を始める。
義父がスムーズに動けるように段取りをしなければならない。
車検が完了するともう4時になっており帰宅が遅くなりそうだった。
娘に電話して夕食の買い物を頼んだ。今夜のおかずもまた楽しみである。
帰り道は「やり切った感」でいっぱいだった。
明日休めるのも嬉しく疲れも吹き飛ぶような心地よさを感じる。
朝の峠道を下ればお遍路さんを二人見かけた。
もう夕方であり山里の民宿に泊まるのかもしれないが
もし延光寺まで行くのならすっかり夜になってしまうだろう。
話し掛けることも出来なかったので余計に気になってならなかった。
5時前に帰宅。10分だけ横になっていたが直ぐに夕食の支度である。
娘はクリームコロッケを揚げて私はソース焼きそばを作った。
夫には葱トロを買って来てくれていて大喜びである。
心配していためいちゃんは熱は出なかったが学校を休んでいた。
そっと部屋を覗いたら眠っていたので声も掛けられない。
夫に訊いたら昼間は元気そうだったと聞きほっとする。
あやちゃんは特に変わりなく笑顔で夕食を食べていた。
くくっと鳩ぽっぽのような笑い声にはとてもほっとするのだった。
今朝の詩も「昭和シリーズ」であるが我ながら微笑ましく思う。
娘は昭和56年生まれなのでやがて時代は平成に変わるのだが
「平成シリーズ」は書けないかもしれないと思っている。
しかしその日の気分次第で発作のように書いてしまうかもしれない。
この先長生きが出来れば「令和シリーズ」だって夢ではあるまい。
そう思うと楽しくてならず書く意欲がどんどん湧いて来るのだった。
今朝の詩にはいつも読んで下さっている人が共感してくれて嬉しかった。
何度も何度も読み返してくれたのだそうだ。
それが励みでなくて何だろう。
今にも枯れてしまいそうな花に恵みの雨が降ったような気がする。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
内職
アイロンがけの内職をしていた ワイシャツの襟やポケットなど 予めアイロンで形を整えるのである
一枚仕上げて3円とか5円だった 一日に200枚が限度である
幼い娘と遊んでもやれない 可哀想でならなかったが 私はアイロン職人である
夏は過酷であった エアコンなどありもせず 扇風機の風で暑さを凌いだ 5円10円100円と 頭の中はお金でいっぱいになる
娘はお人形さんで遊ぶ ミルクを飲ますとおしっこが出る そのお人形が友達みたいだった
ワイシャツの襟やポケットが 縫いあげられて立派なワイシャツになる そうして店頭に並ぶ姿を想像すると わくわくと嬉しくてならなかった
娘は甘えることをしない やけを云って泣くこともしない
縫製工場のお兄ちゃんが来ると 真っ先に玄関へ駆け出して行った
曇り日。今日も夕方少しだけ雨が降った。
気温は30℃に届かなかったがやはり蒸し暑さを感じる。
今朝は通勤途中の国道で冷っとすることがあった。
ツーリングと思われるバイクが2台走行していたのだが
路肩が広くなった所で道を譲ってくれたので
軽く頭を下げて追い越したのだった。
その時大きなクラクションの音がし対向車がすれすれに通過する。
どうやら私がセンターラインを越えていたようだった。
その自覚が全くない。対向車は危険を知らせてくれたのだろう。
私はあくまでも真っ直ぐ走っているつもりであった。
高齢者の事故が多い昨今であるが私もその一人になるところだった。
通い慣れた道だからこそ気を引き絞めなければいけない。

仕事は急ぎの車検が一台入庫していたが不具合もなく午後には完了した。
義父は休養日と決めていたのか居室に籠り切りであった。
声を掛けると車検は済ませてくれたがまた直ぐに居室に戻る。
よほど疲れが溜まっているのだろうとそっとして置くことにした。
明日はまた忙しくなりそうである。義父の助けが必要となるだろう。
2時半に退社。3時半にはもう帰宅していた。
夫と大相撲を観ていたがそのまま5時まで眠っていたようだ。
娘と夕食の支度をし夫の好きな「とろろ汁」も作る。
めいちゃんが喉の痛みを訴え娘が風邪薬を飲ませていた。
おそらく娘の風邪がうつったのだろう。元を正せば私のせいである。
熱が出なければ良いが明日の朝まで様子を見なければいけない。
いつも元気なめいちゃんが弱ると心配でならなかった。
家族皆が健康でとどれ程祈り続けて来たことだろう。
今朝もいつものように詩を書いたが
その日の気分次第でどんな詩になるか全く分からない。
情緒不安定の時もある。そうして意味不明の詩を書いてしまう。
今朝の詩も上出来とは云えなかったが満足感はあった。
自分の詩に酔うと云うことはそう云うことである。
とある詩人さんが過剰に褒めてくれひたすら恐縮する。
その上に励ましの言葉まで頂き身に余ることであった。
伝わる人には伝わるがそうでなければ全く伝わらない。
SNSに垂れ流した「涎」のようなものである。
そんな涎を拭いながらまた明日の私に会いに行くのであった。
※以下今朝の詩
曼珠沙華
雨だれの音が切なく響く 夏はそうして去っていくが 涙とは誰も気づきはしない
野には血の色の花が咲き その根には毒があるのだそうだ 手折るにも怖ろしくてならず 触れることも出来ずにいる
それはやがて黒ずんで来るが 死とはそう云うことなのだろう いつまでも鮮やかではいられない 姿かたちは滅ばねばならないのだ
秋が静かに深まっていく いのちもそうして心細くなる まさか最後の秋ではあるまい
花ならば花として尽きよう 根ならば根として生きよう
雨の予報だったが日中は全く降らず夕方から本格的に降り始めた。
気温の割に湿度が高いのだろうじめじめとした蒸し暑さを感じる。
もう汗はかかないだろうと思っていたがそうは行かなかった。
朝の山道を行けばイガ栗があちらこちらに落ちている。
拾う人もいないのだろう車に轢かれてしまうばかりだった。
栗を見れば祖父を思い出し荒れ果てているだろう栗山を思う。
毎年栗を送ってくれたのはもう随分と昔のことになった。
私は栗の皮を剥くのが苦手で半分に切ってスプーンで食べていた。
それも茹でたばかりだと柔らかいが冷えると固くなってしまう。
一度に20個くらい食べたこともある。それも遠い思い出となった。

毎朝職場に着くなりパソコンの電源を入れるのだが
今朝はどうした訳か電源が入らず大いに焦る。
コンセントを抜いたり差したりしても起動する気配がない。
困り果ててシステムサポートのO君に電話をしたら
午前中に様子を見に来てくれることになった。
とにかく待とうと思いつつもしやと停電時のバッテリーをいじってみた。
そうしたらまるで奇跡のように電源が入りパソコンが起動したのである。
知識はなく機器には疎いが何でもやってみるものだなと思う。
おかげで急ぎの事務仕事は午前中に片付きほっと肩の荷を下ろす。
高齢のお客さんから電話があり異音がするとのこと。
義父が直ぐに対応してくれて何と助かったことだろう。
異音の原因を調べるのは義父の最も得意とするところである。
早速に部品の手配をし明日には直りそうだった。
他にも大型車の車検が入庫しており不具合の部品も手配してくれる。
義父でなくては出来ない仕事が沢山あるのだった。
しかし同僚や私を振り回すのが玉に瑕である。
口煩いのも今に始まったことではないが精神的にかなり疲れるのだった。
3時までに整形外科に行かねばならず逃げるように帰路に就く。
今日はリハビリ後に診察もあり待ち時間の何と長いこと。
医師はいつも親身になってくれるが今日も「手術」の話だった。
「10年は持たんぞ」と云う。私は笑いながら「持つけん」と応える。
診察のある日は帰宅が遅くなるので娘に買物を頼んであった。
今夜のおかずは何だろうとわくわくしながら帰る。
「天婦羅」だった。茄子と太刀魚と海老で何と豪華なことだろう。
食費は三千円と決めており娘のやり繰りも大したものだなと思う。
海老の天婦羅が大好きなあやちゃんがにこにこしながら食べていた。
その笑顔を見ただけで私は幸せいっぱいになる。
今朝は「昭和シリーズ」の詩を書いたが
私の少女時代はあまりにも「お涙頂戴」になってしまうので
幼い頃の息子の詩を書いてみた。
ほのぼのと懐かしい。心温まる詩だと自分でも思う。
息子は全く音沙汰がないのだがそれが元気な証拠だろう。
そう思うと音信不通も「安心」に繋がるのである。
昭和、平成、令和と歳月は流れたが
息子はいつまでも私の「こども」であった。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
猫まんま
息子は「猫まんま」が好きだった ぬくぬくのご飯に鰹節を載せて お醤油をちょっと垂らして食べる
父親と一緒に喫茶店へ行っても ココアではなく「猫まんま」と云う もちろんそんなメニューはなかったが もう常連になっておりそれが出て来る
歳月が流れ息子はシンパパになったが 毎晩何を食べているのだろうとおもう カレーを作っているかもしれない 鶏の唐揚げを揚げているかもしれない
電話をすれば「なんぞ?」と云うので そうそう電話も出来ないのだった
ご飯は炊けているだろうか 鰹節は買ってあるだろうか
「おかわり」とお茶碗を差し出した 息子の笑顔が忘れられずにいる
夜明け前にはぽつぽつだった雨がしとしとに変わり
如何にも秋らしい雨の一日となった。
気温も一気に涼しくなり随分と過ごし易い。
エアコンはもちろんのこと扇風機も不要であった。
彼岸の中日、「秋分の日」でもあり次第に夜が長くなる。
秋の夜長を愉しむような余裕はないが
この日記を書けるだけで幸せだと思う。
あと何度秋が訪れるのだろう。まさか今年が最後ではあるまい。
お墓参りに行くでもなくだらだらと怠惰に過ごす。
娘が仕事だったのでめいちゃんが買い物に付き合ってくれた。
私が食料品を買っている間にセリアで買い物をする。
お財布が入ったバックを首からぶら下げ何と頼もしいことだろう。
重い荷物も提げてくれて車まで運んでくれて大助かりだった。
以前はよく一緒のことが多かったが最近では滅多にないことである。
それだけ成長したのだろう。もう11歳の少女であった。
今日も寝ないでいようと思っていたが午後は睡魔に負ける。
夫と録画してあった「ポツンと一軒家」を見ていたのだが
いつのまにか寝てしまい目覚めればもう3時である。
夫は大相撲を見ていたが私は自室で過ごすことにした。
そうなればまた煙草である。ひっきりなしに火を点けてしまう。
これはれっきとした依存症で病と云っても過言ではないだろう。
悔しくて情けなくてならないがどうすることも出来なかった。
血圧が高いのも煙草が原因かもしれず自業自得しか云いようがない。
夕飯はめいちゃんのリクエストで「しゃぶしゃぶ」だった。
娘の体調も良くなっており下準備をしてくれる。
カセットコンロを出せば如何にも秋の夜らしい。
これからは鍋調理も多くなることだろう。
家族みんなで鍋を囲むことはないが夫と二人鍋も良い物である。
今朝も夜明け前に詩を書いたが「昭和シリーズ」は敢えて書かず。
静かな雨音を聴きながら書きたいように書いてみた。
なんだか自分の言葉に酔っているとしか思えない。
自分は感動しても誰にも伝わらない「曲者」であった。
けれども心は満たされる。自分らしさとはそうでなければならない。
満たされないのなら書く意味など無いに等しい。
雨は降り止まず今もしとしとと降っている。
秋の雨は切なくもあるが不思議と心が癒されるようだ。
※以下今朝の詩
秋分
ぽつぽつと小雨が降っている ひび割れた空から滲むように それは落ちなくてはならない
彼岸と此岸の真っ只中にいて 亡き人たちは彷徨うのだろう あちら側の夢やまぼろし こちら側の現とかなしみ
生きて在ればこそと思うが 引き裂かれるような痛みがある
夏の背が遠ざかっていく いったい何と声を掛けよう
秋が深まっていく もうどうしようも出来ない
彼岸に入ってから朝晩が一気に涼しくなった。
不快な汗に悩まされることもなくなり快適に思う。
日中も今日は30℃に届かず空は「秋晴れ」であった。
このまま秋が深まれば良いのだがどうなることだろうか。
一気に冬になってしまうのも戸惑うに違いない。
真紅の彼岸花に寄り添うように白い彼岸花も咲き始めている。
そのコントラストは見事で思わず歓声を上げる程だった。
白い彼岸花は最初は純白だが次第に薄桃色に変わって行く。
それが寿命のようだが何となく切なく感じるのだった。
真紅の彼岸花は黒ずんで来る。それはとても憐れでならない。
今年は猛暑のせいで全国的に一週間ほど遅れて咲いたようだ。
その分長く咲き心を和ませてくれることだろう。

血圧は150と今朝も高目であったが至って元気であった。
先日医師は薬を増量してくれたが効いているとは思えない。
また受診することも考えているが原因は分らぬまま増量となるだろう。
それも考えもので薬漬けになるのにも抵抗がある。
「まあ元気だから良いか」とにかく大らかに過ごさねばならない。
月曜日で仕事は忙しかったがそれも午前中だけのこと。
義父は仕事の段取りを済ますと田んぼを耕しに行った。
明日は雨の予報なので今日中にと少し焦っているようだった。
母の命日も近づいており三回忌の段取りもあったが
もうお寺さんには頼まず命日に私と義父だけで済ますことにした。
大掛かりな法要となれば伯母達に迷惑をかけてしまうので
ひっそりとささやかに供養だけするのが最善と思われる。
午後は宿毛市の銀行へ母の預金口座を解約に行っていた。
残高も僅かなので2年間ほったらかしにしていたのだが
先日銀行から葉書が届きこのままでは手数料が発生するのだそうだ。
僅かの残高から手数料とは何と理不尽なことだろう。
手を打たねばならず今日は意を決し解約の手続きをした。
アパート暮らしをしていた頃の水道光熱費等が記帳されており
母の独り暮らしを垣間見るようで何とも切ないものである。
3750円、それが母の全財産であった。
暗証番号は7171、「ないない」と如何にも母らしい数字である。
今日は母方の祖母の20年目の命日でもあった。
何の供養も出来ず心苦しいばかりである。
お墓に続く小道には今年も彼岸花が沢山咲いていることだろう。
以前に「紅い道」と云う詩を書いたことがあったが
それも祖母の供養になったのだろうか。
とある文芸賞に応募したが紙屑のように落選してしまった。
今朝も祖母を思い出し心を込めて書いた。
しかしSNSでは不評でまたまたダブルパンチである。
決して「お涙頂戴」ではなかったはずなのだが心に響かなかったのだろう。
大いに共感してくれたのはAIの響君だけであった。
私は何度も読み返し泣いた。ひっくひっくと泣きじゃくった。
よく書いたものだと思う。これ程の感動があるのかとさえ思う。
誰にも伝わらなくても祖母にはきっと伝わったことだろう。
それが一番の供養に思えた。今日しか書けない詩である。
「紅い道」が目に浮かぶ。祖母に会いたくてならなかった日。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
おはぎ
十年一昔と云うけれど 二十年だと二昔なのか なんだか昔話のようだ
祖母の愛ちゃんのおはぎ 美味しくて大好きだった 小豆をことことと煮て 甘い餡子が出来上がると 蒸しあげたもち米を丸め ぬったぬったと餡子を塗る
それはこどもには難しく 愛ちゃんは天才のようだった 「ほうれ出来たよ」と 手渡された大きなおはぎ 口の周りが餡子だらけになる
「いっぱい食べや」 でも二個も食べたらお腹が膨れる 本当は五個くらい食べたかった
二十年目の命日である 昔話にするにはあまりにも切ない
愛ちゃんのおはぎが食べたい 愛ちゃんの笑顔に会いたい
今朝は涼しさを感じたがそれもつかの間のことだった。
日中は真夏日となりまだまだ厳しい残暑である。
隣町の宿毛市では33℃を超えていたようだ。
山里もおそらく暑かったことだろう。
血圧は変わらず今朝も160を越えていたがもう気にしないことにした。
自覚症状は全くなく元気そのものである。
おや?と気づいたのは先日からの難聴でどうやら治ったらしい。
電子レンジの音が聴こえ換気扇の音も聴こえるようになっていた。
どれもこれも神経質に考え過ぎていたのかもしれない。
昨日の寝溜のせいだろうか昨夜は熟睡出来ず辛かった。
隣のベットで寝ている夫の手を確かに握ったのだが
それも夢だったらしくうなされていたようだった。
もうこりごりと今日はなるべく寝ないようにする。
とにかく横になってはいけない。かと云って自室で過ごしていると
煙草ばかり吸ってしまいそれにも嫌気が差して来る。
いったいどうすれば良いのだろうと途方に暮れるのであった。
とうとう昼食後には一時間程寝てしまう。
そうしてまた自室で過ごすと煙草三昧になってしまうのである。
机の上には読みかけの詩集が山積みになっているのだが
どうしても読む気にならず困ったものである。
心のスイッチが何らかの原因で壊れているようであった。
夕食はカレーの予定だったので早目に作ることにした。
いつもなら娘が作ってくれるのだがまだ体調が思わしくない。
幸い熱は下がったようだが咳が辛いようだった。
「よっし、作るぞ」と気合を入れて台所に立つ。
じゃが芋の皮を剥き玉葱を刻んだ。
以前は甘口と辛口の両方を作っていたのだが
孫達が中辛を食べられるようになり大いに助かる。
家中にカレーの匂いが漂い美味しそうなカレーが出来た。
「鰹のタタキ」も作りもう準備万端である。
夫は風邪の名残で胃の調子が悪かったがカレーは大好物である。
何よりもあやちゃんが喜んで食べてくれたのが嬉しかった。
頑張って作った甲斐がある。今日は「カレー日和」になった。
今朝も「昭和シリーズ」の詩を書いたが
SNSでは不評でダブルパンチを食らう。
原因は分っておりやはり「お涙頂戴」なのである。
幼い頃の詩は微笑ましいかもしれないが少女時代となるとそうは行かない。
だからと云って嘘は書けずありのままの記憶を辿るしかなかった。
母を恨み続けた日々をどうして忘れることが出来ようか。
母の命日を直前に控えこれだけは書いておきたい詩だったのだと思う。
書き終えてから母の遺影に手を合わせたのは云うまでもない。
母を心から赦すことは私の永遠の課題なのだろう。
今日は母が死んだ2年前の9月の詩を読み返していた。
そこには母に対する恨みなど少しも書かれてはいなかったのだ。
「ばいばいまたね」母の最期の言葉である。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
手紙
学校に母からの手紙が届く 先生は手渡しすることをせず 職員室へ来るようにと云う
私はそれが嫌でたまらない 「特別」だと思われている 先生たちの目が怖かったのだ
母はいったい何を書いていたのか 手紙の内容は全く記憶になかった
母に返事を書いた記憶もない だからと云って 破り捨てた記憶もないのである
父に見つかったら叱られる そればかりを思っていたのだろう 一番憐れなのは父なのに違いない 大きな背中が震えているように見えた
母は罪を背負い生きているのか それでいて愛情を込めようとする
ゆるすものかと私は思った
父の運命を大きく変え 私も運命の歯車に巻き込まれた どれほどの傷なのか母は知らない
そんな母をどうして赦せようか 半世紀以上の歳月が流れ 母はもうこの世には存在しない
手紙はもう届かないのだ
私は未だに母を赦せずにいる
「彼岸の入り」曇り空で暑さは和らいでいた。
おそらくもう猛暑日になることはないと思うが
夏の名残は10月まで続くようである。
今朝も血圧が下がってはいなかったが
あまり気にせずに大らかに過ごすことにした。
夫のように全く気にしないのも考えものだが
神経質になるとよけいに高くなるのだろう。
二週間ぶりのカーブスは頑張ることをしなかった。
軽く筋トレをしストレッチをしただけである。
汗も殆どかかなかったがまあ良いかなと思い帰って来る。
少し左肩が痛む。ついに上半身まで弱ってしまったのだろうか。
昼食に久しぶりに「塩ラーメン」を食べた。
それも秋の兆しである。もう冷やし中華の季節は終わったようだ。
午後はひたすら寝て過ごし目覚めればもう4時である。
「洗濯物が乾いちょったぞ」と夫が取り入れてくれていた。
娘は微熱が出ており咳も酷く辛そうである。
今日はPTAのリサイクルごみの回収があり無理をしたようだ。
風邪薬を飲むように勧めたが使用期限が過ぎていた。
どうしても嫌だと云って聞かず飲まず仕舞となる。
娘の体調が悪いと火が消えたような我が家であった。
今朝も「昭和シリーズ」の詩が書けたのだが
SNSでは不評でいささかショックであった。
自分では書きたいことを書けたつもりだったので尚更である。
それこそが自己満足に他ならない。
母に捨てられた可哀想な少女である。
しかしそれも結局は「お涙頂戴」なのだと思う。
これは今後も教訓にしなければならないが
私は自分が可哀想でならないのである。
同時に未だに母を赦せずにいる愚かな娘であった。
書いて浄化するならばいくらでも書こうと思う。
しかしそこにはいつも「殻」のようなものがあり
その殻を打ち破らなければ本物の詩が書けないような気がする。
そうしてそれが死ぬまでの目標となれば立ち向かうしかない。
死んでも死にきれないと云っても過言ではないだろう。
ならば生きてとことん尽き果てねばならない。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
くろねこのタンゴ
確かにこどもであった頃 嬉しかったこと 悲しかったこと 時が経てば全てが思い出になる
初めて買って貰ったレコードは 「くろねこのタンゴ」であった 嬉しくって何度も何度も聴いた
まだ誕生日には早かったのに 「もうすぐだから」と母は云う 私が口ずさむと母も微笑みながら 一緒に歌っってくれて楽しかった
13歳の誕生日の朝である とても寒い冬の朝のことだった ストーブが点いていなくて 部屋はしんしんと冷え込んでいた
「おかあさん」と何度呼んだことだろう 家の外を探しても母は何処にも居なかった
泣いてはならない ぎゅっと歯を食いしばって耐えた
母はもう決めていたのだろう どうしてもその日でなくてはならない
「くろねこのタンゴ」が聴けない 私はもう歌えないこどもになっていた
薄日が射していたが山里ではにわか雨が降る。
暑さが和らぎずいぶんと涼しさを感じた。
全国的にも猛暑日となった地域はなく
一気に秋らしくなったようである。
暑さ寒さも彼岸までとはよく云ったものだ。
そんな季節を知っているのだろう彼岸花が咲き始める。
田んぼの畦道に多く咲き何とも鮮やかであった。
「死人花」とも呼ばれ血のように紅い花であるが
根に毒があり昔から「モグラ除け」として植えられていたようだ。
私は子供の頃から怖くてならず未だ触れたことがない。
それは祖母からの教えで大人になっても忘れることが出来なかった。
しかし祖母が死んだ日に見た「紅い道」は心に焼き付いたように目に浮かぶ。

昨夜は安定剤を服用し8時にはもう床に就いていたが
熟睡したにも関わらず今朝も血圧が下がってはいなかった。
170を超えると流石に怖ろしくまた安定剤を服用する。
そうしてしばらくしてから計測したら少しだけ下がっていた。
夫からは神経質になり過ぎだと叱られどうしようもない。
もっと大らかな気持ちでのほほんとしているべきなのだろう。
気にし過ぎると血圧は上がる。それは精神的なものであった。
仕事は忙しくもう血圧どころではない。
義父が精力的に動いてくれて全てのことが順調であった。
一日車検も入庫しており3時には整備が完了する。
明日の予約のお客さんも早めに来てくれて受け入れも済んだ。
義父が「明日は休めるぞ」と云ってくれて何とほっとしたことだろう。
自分では仕事のつもりで覚悟を決めていたのだった。
残業になり帰宅が遅くなってしまったが心地よい達成感である。
娘に夕食の買い物を頼んであったらあれこれと買って来てくれていた。
しかし娘も風邪気味となり鼻水が止まらなくなっている。
元を正せば私の風邪であるが感染力の強さに驚くばかりであった。
たかが風邪ではなかったのだ。孫達にまで及ばなければ良いがと願う。
今朝は久しぶりに「昭和シリーズ」の詩が書けた。
幼馴染の「まやちゃん」の詩である。
しかしこれも書こうと思って書いた詩ではなかった。
ただ何となくまやちゃんを思い出したのだった。
書いてしまえば懐かしくてならず会いたいものだなと思う。
60年の歳月が流れた。まやちゃんは元気にしているだろうか。
私のことを忘れずにいてくれたらそれだけで十分に思う。
思い出は一生残るが再会は叶わないのが世の常なのかもしれない。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
みつあみ
まやちゃんの髪は長くて いつもみつあみにしていた 毎朝お母さんが編んでくれるようだ
くりくりっとした瞳に長い髪 まやちゃんはお人形さんみたいに 可愛らしくてたまらない
私はいつもおかっぱあたま ちびまる子ちゃんみたいだ 刈り上げにしていたから 首筋のあたりがすうすうする
夜になったらまやちゃんは みつあみをほどくのだろう くるくるっとなっているのか 一度見てみたいなと思った
「おはよう」の朝が来る まやちゃんと一緒に学校へ行く みつあみに小さなリボンをしてあり 何だか自分のことのように嬉しい
みつあみが揺れている スキップをしているようだった
まやちゃんはお人形さん 私はこけしみたいな朝のこと
概ね晴れ。相変わらずの暑さであったが猛暑日には届かったようだ。
しかし関東や東海では37℃を超える猛暑日が続出している。
ゲリラ豪雨もあったよう茨城では道路の冠水や竜巻の被害もあったそうだ。
日本中で一日たりとも平穏な日がなく何とも気の毒でならない。
耳の調子は少し良くなったように思うのだが
今夜は血圧が異常に高くなっている。
仕事が忙しかったのでおそらく疲れが出ているのだろう。
今夜は早目に切り上げて床に就いた方が良さそうだ。
今朝の詩も相変わらずでいったい何を書こうとしていたのか。
ただ私には珍しく少し明るい詩になってしまった。
書き終わった時の何と清々しいことだろう。
毎朝こんな詩を書きたいものだと思った。
例の詩人さんが今日もリポストをしてくれており励みになる。
とある詩の雑誌の選者をしていたこともあるのだそうだ。
私のような無名の者でも目に留まるのなら奇跡のように思える。
少なくとも「嘆き」からは救われているのだろう。
だからと云って背伸びも出来ず私はありのままを貫くしかない。
明日も書きたい。意欲は高まるばかりであった。
そうして私は試されているのに違いない。
自ら墓穴を掘るようなことだけはしたくなかった。
とにかく今夜は早目に安み明日に備えようと思っている。
まさかこのまま死にはしないだろう。
生きたい生きたい明日も生きたい。
※以下今朝の詩
道
道は未知である 知ってしまえば つまらないではないか
野道はたのしい わくわくとする でこぼこであれば尚更 色んなかたちの石があり 拾うことも出来るのだ
野花は愛らしい 優しい気持ちになる たんぽぽや母子草 見つけてほしくて 待っているだろう
曲がり角には銀杏の木 夏は緑が風に揺れ 秋は黄金色の風が吹く
何処に辿り着くだろう 誰が待っているのだろう
その道は空に続いている
曇りのち晴れ。午後から雷雨の予報だったが上日和となる。
ここ数日より気温が高くなり今日は猛暑日となった。
全国的にも厳しい残暑だったようだ。
週間予報を見ていると彼岸の中日頃から朝の気温が下がりそうである。
20℃を切ると一気に肌寒くなることだろう。
彼岸花も咲き始める頃。やっと秋らしくなるのに違いない。
耳の調子は変わらず特に機械音が聴き取り難い。
例えばガスコンロを点火する時のカチカチと云う音。
換気扇の音も聴こえず電子レンジの音も聴こえないのだった。
ネットで調べてみると日が経てば自然に治ると書いてあったが
このまま耳の遠いおばあさんになってしまうかもしれず不安でならない。
一日でも早い方が良いだろうと思い耳鼻科のある病院に電話してみたら
医師が非常勤のため来週まで診察が出来ないのだそうだ。
市内に個人病院もあるのだが水曜の午後は休診だと云う。
仕方なく今日は諦め来週まで様子を見ることにした。
治っていればそれに越したことはなく我慢するしかないだろう。
以前に声が出なくなった時に親身になってくれた医師に頼りたい。
仕事は昨日とは打って変わって順調に捗る。
義父が待機してくれており車検が二台完了したのだった。
大型車の一般修理も入庫しており義父が部品の手配をしてくれる。
何と心強いことだろうか。目の前が一気に明るくなった。
既に来月の車検予約も入り始めておりしばらくは忙しくなりそうである。
仕事さえあれば入金があるはずだがそうは問屋が卸さない。
即金で支払ってくれるお客さんもいればなしのつぶてのお客さんもいる。
「ある時払いの催促なし」がまかり通るのであった。
ひたすら耐えるしかないがそそろ大口の支払いが迫っており
「細腕繁盛記」にも限界の影がチラつき始めている。
言葉は悪いが「なにくそ」と思う。ここで負けるわけにはいかない。
とにかく毎日自転車を漕ぎ続けていかなければならないのだった。
2時半に退社。サニーマートまで帰り着くとお財布が見当たらない。
確かにバックに入れたはずだが忽然と消えているのである。
事務所に置き忘れたかもしれず義父に電話したが見つからなかった。
焦りまくっていたがはっと思い出したのは帰り道の自販機である。
あまりの暑さに「いろはす」を買ったのだった。
お財布は助手席の足元に転げ落ちていたのである。
「さあ半額、半額」と勇ましく店内に突入したのは云うまでもない。
今日は蛸とサーモンのお刺身をゲットし嬉しくてならなかった。
5時になれば娘様さまで今夜も率先して作ってくれる。
夫は蛸の刺身でビールとハイボールも復活しもうほぼ完璧である。
しかし「大の里」が負けてしまいしょんぼりと肩を落とす。
「あーあ」と嘆いて茶の間に引き籠ってしまった。
さあお風呂と浴室へ行けばお湯が溜まっていないのである。
シャワーで済まそうかと思ったが給湯しながら入ることにした。
5分もすれば溜まるので少しずつの掛け湯である。
洗髪は苦手で今日も足を踏ん張ることが出来ない。
やっとの思いで髪を洗えばそれなりにさっぱりと気持ちが良かった。
今朝の詩も昨日と同じで書いてしまうまで意味不明である。
いったい何を書こうとしているのか全く分からないのだった。
だからと云って途中で投げ出すことなどどうして出来ようか。
自分を信じるしかなくきっと辿り着くと思うしかない。
書き終えてから題を付ける。「身分」と云う詩になった。
私のような日陰の身にも相応しい花がきっとあるのに違いない。
※以下今朝の詩
身分
きらびやかな衣を纏い それは静々とやって来る
何と気高いことだろう 畏れ多いことこの上なく 私はかしづかねばならない
一輪の花をそっと手向けた 野で見つけた秋の花である 清楚であることはうつくしく 相応しく思えたからであった
花影に寄り添えば花と咲く 花びらとなればそれは儚い 一生のことだと思うからこそ 精を尽くさねばならないのだ
貶められ蔑まれても 同じ「いのち」なのに違いない
私にも相応しい花がきっとある
晴れたり曇ったり。山里ではほんの少しだけにわか雨が降った。
そのせいか何と蒸し暑かったことだろう。
気温は33℃だったが江川崎では今日も36℃近くあったそうだ。
秋らしさと云えば「黄花コスモス」で今が見頃である。
朝の道でもあちらこちらに群れ咲いており心が和む。
お遍路さんがふたり、もう「秋遍路」と云っても良いだろう。
真夏の間は少なかったお遍路さんも少しずつ増え始めている。
しかしまだ熱中症の危険があり命がけの旅にも思えるのだった。
今朝は目覚めるなり耳がよく聴こえない。
鼻風邪の後遺症で耳に何らかの炎症が起こっているようだった。
「突発性難聴」やもしれず耳鼻科を受診したかったが
三連休明けでどうして仕事を休むことが出来ようか。
幸い風邪の症状は治まっているので数日様子を見ることにした。
早ければ明日にでもと思うが仕事はどうなることだろう。
半日でも休めばまた義父が慌てふためくに違いない。
仕事は車検が入庫しており順調に整備は完了したが
義父に来客があり車検どころではなくなってしまう。
同じ米農家仲間さんで「百姓談義」のそれは長いこと。
義父も話し相手が欲しかったのだろう延々と話し続けていた。
昼食も摂らずに3時前まで。これは駄目だなと諦めて退社するしかない。
明日も車検の予約が入っており義父次第であった。
何としても助けて貰わなければにっちもさっちも行かなくなる。
4時過ぎに帰宅。夫と一緒に大相撲を観ていたが
いつの間にか寝てしまい「おい5時だぞ」と起こされる。
三連休の間、目が腐るほど寝たのにいったいどうしたことだろう。
5時になれば娘が率先して夕食の支度をしてくれ大助かりである。
今日は半額品のオンパレードで娘も驚いていた。
夫は戦利品のベビーホタテで早速ビールを飲み始める。
いつもはハイボールも飲むのだがまだ飲みたくないそうで
本調子ではない様子に少し心配になった。
風邪は万病の素である。夫だけではなく私も用心しなければならない。
難聴が長引けばと思うと少し不安になった。
夜明け前の詩は相変わらずで「昭和シリーズ」が書けなくなっている。
おそらくもう限界だと思うのだがある日突然もあるだろう。
書こうと思って書いていないのでまるで「びっくり箱」であった。
今朝も何も考えずに書き始めてしまったら「ゆでたまご」になったのである。
「なんじゃこりゃ」と書いた本人もびっくり仰天であった。
詩作は面白い。愉しくてならない。
古希のおばさんは詩を書きながらいつも生き生きとしているようだ。
※以下今朝の詩
ゆでたまご
こつんと音をさせて それは剥がれていく
つるつるとした膜があり ぬるりと絡みつくのだが そのような執着を 一気に剥がさねばならない
私はもう茹でられてしまった あの熱さは言葉には出来ない
苦しくても叫べない 痛くても泣けはしない
運命だとしたらいったい 誰が決めたのだろうか
いのちがまあるく固まる すべすべとした手触りに 満たされてしまえば もう何も怖いものなどない
晴れのち曇り。午後には雷雨予報だったが降らずに済んだ。
9月も中旬だと云うのに全国の28地点で猛暑日だったとのこと。
江川崎も含まれており36℃を超えていたようだ。
今週末には彼岸の入りである。せめて朝晩だけでもと涼しさを願う。
「敬老の日」であったが私達夫婦にはまだ少し早いようで
地区の「敬老祝い」は75歳からであった。
お赤飯もしくは商品券を配るのが習わしである。
高齢者の多い地区のことで今日は笑顔の一日になったことだろう。
夫はまだ咳が続いており本調子ではない様子だったが
食欲はあるようでお昼には「ところてん」を食べた。
高知のところてんは鰹出汁のつゆを掛けて食べるのが一般的で
全国でも珍しい食べ方のようである。
私は冷凍炒飯をこじゃんと食べてお腹がいっぱいになっていた。
らっきょうも食べられるようになりすっかり本調子である。
午前中に2時間、午後は4時間も寝て我ながらよく寝ること。
夢に姑さんが出て来て気になったがお線香を上げには行かなかった。
「敬老の日」には菓子折りを届けていたので思い出したのだろう。
折り合いの良くなかった姑さんであるが夢の中ではいつも笑顔である。
大相撲を観ながら娘と夕食の支度をする。
娘がお素麺を湯がいてくれて私は鰹のタタキを作った。
夫はビールを飲み始めて大相撲に釘付けである。
まるで平和を絵に描いたような夕暮れ時であった。
そんな絵を塗りつぶしたくないと誰だって願うのに違いない。
今朝は百歳の詩を書いた。目標は88歳の米寿であったが
あと20年足らずだと思えば何と儚いことだろう。
日々をひたすら織り続けているが糸が足らなくなるかもしれない。
若い頃の20年と老いてからの20年は雲泥の差に思える。
若い頃なら好きな色の糸を買い求めることも出来るが
今となっては手元に残った糸を使い切らなければならない。
そうして一枚の布に仕上げていくのが私の使命だと思っている。
穴が開いていれば繕わなければならない。
みずぼらしい最期であってはならないと苦労を惜しまないのであった。
一日が終われば一日が縮む。織り進む布をそっと広げて見れば
もう十分に生きたようにも思えるこの頃であった。
※以下今朝の詩
百歳
「百まで生きたらいいだろな」 敬老会で園児たちが歌ってくれた あやちゃんとめいちゃんの声もする
その頃の私は長生きをすることより ぽっくり死ぬことばかり考えていた
ある日突然の死ほど不安なことはなく 何ひとつ心構えが出来ないのだった
身体から魂がすうっと抜けていく いったいどんな感覚なのだろう 戻りたくても戻れないことは 生きたくても生きられないこと
春だろうか秋だろうかとおもう 桜の花が溢れんばかりに咲いて 秋桜が風に揺れているのがいい
「おばあちゃーん」と声がする その時にこそ振り向かねばならない
百を数えるのはむつかしい 途中で間違えてしまいそうだ
もう十分に生きたのかもしれない 記憶の波が押し寄せて来て 足元の砂がすうっと引いていく
午後7時、外気温はまだ30℃あり昼間の暑さを物語る。
日中は蒸し暑さの上に35℃を超す猛暑日であった。
そんな暑さの中、市内では「不破八幡宮」の大祭が執り行われ
同時に「よさこい四万十」の催しもあった。
大祭は昔から「八幡さん」と呼ばれており
日本でも珍しい神様の結婚式があることで有名である。
男神輿と女神輿がぶつかり合う様は結婚とは云い難いが
その「ふれあい」を結婚としたのだろうと思われる。
古くからの伝統行事でとても縁起が良い祭りであった。
「よさこい四万十」は「よさこい祭り」のミニバージョンであるが
県内各地から59チーム3200名もの踊り子が参加していたそうだ。
一目見たかったが出掛けることは出来ず残念であった。
どんなにか多くの見物客で賑わったことだろう。

今朝は幸い夫の熱が下がっておりほっと胸を撫で下ろす。
しかしまだ食欲がなく朝食は食べられなかった。
寝ていることを勧めたが起きて茶の間で過ごすと云って聞かない。
昼食には少し食欲が出て来て冷やし中華を食べることが出来た。
咳と鼻水は続いているがゆっくりと恢復しているようで何よりである。
買い物に行った時にめいちゃんの好きな「シャインマスカット」を買い求めた。
バースデーカードを添えてテーブルの上にそっと置いておく。
それを見つけためいちゃんの何と嬉しそうな顔だったことだろう。
「おばあちゃんありがとう」と笑顔溢れるめいちゃんに会えた。
早いものでもう11歳の誕生日であった。
やがてめいちゃんも少女の階段を上り始めることだろう。
今日から大相撲秋場所が始まり夫には元気が戻って来る。
目を輝かせて観戦している姿はまさに「風邪知らず」であった。
お刺身用の「びんよこ」で「ひっつけ寿司」を作る。
夫は大喜びで何とビールまで飲むのであった。
これにはびっくりで一気に風邪が吹っ飛んだようである。
娘達はてっきり外食だと思っていたのだが
あれこれとご馳走を買い込んできており部屋でパーティーをしている。
私と夫は部外者でありその疎外感はやはり寂しいものであった。
しかし娘達にとっては家族水入らずが一番なのだろう。
先ほどめいちゃんがお皿にケーキを載せて持って来てくれた。
娘が気を遣ってくれたのかもしれないが思いがけずに嬉しくてならない。
娘達には守り抜きたい暮らしがある。私達は踏み込んではいけないのだ。
荒らすことは容易いがそれをしてしまえば後悔しかないのだと思う。
それぞれの暮らしを尊重することそれが一番の安泰に繋がるのである。
今朝はめいちゃんの詩を書いた。
胸に熱いものが込み上げて来てほろりと涙がこぼれそうだった。
※以下今朝の詩
めいちゃん
11年前の今日のことである 娘が二人目の女の子を産んだ
名前は生まれる前から決めており トトロの「めいちゃん」であった
めいちゃんはミルクをいっぱい飲んで 元気にすくすくと大きくなった
少し癇癪持ちは娘譲りで 泣き始めると火が点いたように泣く よしよしと何度抱きしめたことだろう
乳児保育園から保育園へ そうして小学校へ通うようになる 薄紫色の大きなランドセルが やがて小さく見えるようになった
絵を描くのが好き手紙を書くのが好き レモンが好き葡萄が好き梅干しが好き
「家族」の絵を描くと真っ先に おじいちゃんとおばあちゃんを描いてくれた
何と優しい子に育ってくれたのだろう 目に入れても痛くないと思うのだけれど もう目に入れられないほど大きくなった
どんな未来が待っているのだろう 二十歳になっためいちゃんに会いたい
早朝には小雨が降っていたが日中は思いがけずに晴れる。
真夏日となりとても蒸し暑い一日だった。
しかし吹く風のなんと心地良いことだろう。
ささやかな秋の気配を感じほっと空を仰いでいた。
体調はまずまず。食欲はあまりなかったが
熱もなく鼻水が治まっただけで随分と楽になった。
義父からも連絡がなく心置きなく休むことが出来た。
カーブスも休み10時頃までごろごろと寝て過ごす。
夫がお昼に「ばってら寿司」を食べたがり買い物に行く。
サニーマートのばってらは柚子が効いていて美味しいのだ。
ばってらだけでは物足らないと云うのでお蕎麦も湯がいた。
夫はお昼からビールも飲み上機嫌である。
昼食後もひたすら寝て過ごし目覚めればもう4時であった。
すると夫の様子がおかしい。鼻水と咳が出始めており倦怠感を訴える。
熱を測れば38℃あり夫にとっては高熱であった。
「俺はもういかんぞ」とすっかり弱気になっている。
私の風邪薬と解熱剤を飲み直ぐに寝室に向かったのだった。
たかが風邪と思っていたのでまさかうつるとは思ってもいなかった。
夫も高齢になり抵抗力も薄れていたのだろうと思う。
それにしてもお昼にはあんなに元気だったのにと驚くばかりである。
娘達は夕食不要とのことで何も作らず独りで細々と夕食を食べた。
昨夜のロールキャベツが一個だけ残っておりとろとろと美味しい。
ノンアルビールで喉を潤しそれだけでもう十分に思う。
汗で髪の毛がねばねばしていたのでお風呂で洗い流した。
もうこれで完璧だと思う程さっぱりと気持ち良い。
弱り切っている夫には申し訳なかったが
せめて私だけでも元気にならなければと思う。
3連休で何よりである。夫も連休明けには恢復しているだろう。
どうやら一心同体の夫婦であるらしくそれも愉快に思える。
コロナの時もインフルの時も二人で寝込んだことを思い出す。
それだけ仲睦まじいのだろう。辛い時はいつも一緒であった。
思い起こせば苦労の多い人生だったが
言葉で励まし合うことはなくても寄り添う心があったのだと思う。
貧乏のどん底で二人して耐え子供達を育てたことが忘れられない。
夫はいつも逞しかったのだ。そんな歳月が「宝物」のように思える。
以下は今朝の詩だが書きたくてならなかった割に出来が悪かった。
SNSでの評判も悪く少し落ち込んでいる。
お目汚しになるだけですが読んで頂けたら幸いです。
河口
深いようで浅いのである 重いようで軽いのである
それを持て余してしまえば あっけらかんと生きるしかない
大雨が降れば大河は濁る 強い風が吹けば白波を立てる その流れに逆らってはならない
上流から河口へと流れ着けば 押し寄せて来る海があるのだ
潮が香り沖からの風が吹いている その真っ只中に立ってみるがいい
全てのことが些細な事だったのだ あっけらかんと生きるしかない
昨日は雨、今日は曇りの予報だったが思いがけず晴れて真夏日となる。
猛暑が和らいだだけでも秋が近づいているのだろう。
昨日は出勤前に何となく怠さを感じ熱を測ったところ
38℃もありそのまま病院へ向かった。
いつもの内科だが発熱外来に回されインフルとコロナの検査をする。
車中で待機していたらどちらも陰性だと連絡があった。
先日からの鼻水はやはり風邪だったのだろう。
咳も酷かったが喫煙のこともあり医師に相談出来ない。
主治医なら事情を把握してくれているのだが残念であった。
血圧のこともあり主治医に診てもらいたかったがそれも叶わず
若い医師は電子カルテを見ながら血圧の薬を増量してくれた。
高ければ増量である。それは主治医でも同じことだったろう。
義父に連絡をして仕事は休ませてもらったが
例の如くで段取りが狂ったと機嫌が悪かった。
もしコロナだったらパニックになっていただろう。
昼食も食べられずそのまま薬を飲み夕方まで寝ていたが
一度下がっていた熱がぶり返し夕食も食べられなかった。
入浴も出来ない。もちろんこの日記も書くことが出来なかったのだ。
身体の辛さよりもそれが一番に辛い事であった。
毎日読んでくれている人達にどれほど心配をかけるだろうか。
「ついに死んだか」とは思わなくても何かあったのかと思ったに違いない。
今朝は平熱になっており仕事に行っていたが
思った通りの忙しさでお昼休憩も出来なかった。
義父は散々私を振り回しておいてさっさと畔の草刈りに行く。
それが3時になっても帰らないので鬼の居ぬ間にと逃げ帰って来た。
明日も仕事のつもりでいたがもう限界に思える。
帰宅するなり今度は眩暈に襲われる。
最悪の気分になり頓服薬を服用し5時過ぎまで寝ていた。
娘が気遣ってくれ寝ているように言ってくれたが
もう大丈夫と肩を並べて夕食の支度をする。
薬が効いたのだろう眩暈は治まっており夕食も食べられた。
しかしあんなに大好きだったらっきょうを食べたくないのだった。
まだ本調子ではないのだろう。ロールキャベツを一個だけ食べる。
お風呂の何と気持ち良かったことか。生き返ったように思う。
風邪も洗い流したようにさっぱりとし今こうして日記を書いている。
何だかもう思い残すことはないような気分であった。
猛暑続きだった夏の疲れだろう。
季節の変わり目でもあり体調管理には気をつけていたつもりだが
身体は正直なのだろうと思った出来事であった。
無理をし過ぎないのが一番であるがその無理の限界が分からない。
独楽鼠のようにぐるぐると同じ処を回っているような日々であった。
※以下昨日の朝の詩
雷雨
ぐるぐると定まらないので じっとしていることにした
窓の外は雷雨である そう近くはなさそうだ 地響きのような音がして 激しい雨音が聴こえている
書けない時は書けないと 記せば良いのだそうだ どうせ詩人でも在りはしない 古希を迎えた老人の戯言である
苦労話はもうよそう 誰も聞きたがりはしない 思い出したいのは私だけである 何と見苦しいことだろうか
雷がだんだんと遠ざかっていく 私はいったい何を記したのだろう
雨になりたかっただけかもしれない
雨が降ったり止んだり。午後には雷を伴いけっこう強く降った。
各地で線状降水帯が発生しており冠水の被害が起きているようだ。
今朝は九州、夕方には東京都心が豪雨となり気の毒でならない。
昨今の雨の降り方は異常で昔のように「秋の長雨」とは行かないようである。
いつ何処で線状降水帯が発生するかも分からず不安がつのるばかりだった。
「明日かも知れない」常に心構えが必要に思う。
仕事はさほど忙しくなかったが鼻水が酷く辛い一日となる。
おまけに血圧も異常に高くなっており踏んだり蹴ったりであった。
慣れてはいてもやはり不安でならない。倒れたら一巻の終りである。
自覚症状が全く無いのも厄介なもので計測してから驚くことが多い。
近いうちに内科の通院を控えているのでよく診てもらおうと思っている。

義父は朝のうちに「加地子」(かじし)を届けに行く。
田んぼは全て借物なので「加地子」は小作料であった。
全部で10軒程だろうかそのお米の量の何と多いことだろう。
米作りを諦める農家が多く年々義父に矛先が向かって来るのだった。
私のような素人考えでは苦労は一切せずにいて
収穫した新米を貰える方がずっと良いように思う。
それを云えば義父に叱られるが義父が大損をしているように感じるのだった。
そうして自分の所有する田んぼが一切無いことが憐れに思えてならない。
2時まで待っていたが義父は帰らず整形外科へと向かった。
3時の予約であったが直ぐに名前を呼ばれ助かる。
療法士のU君の施術は今日も完璧で痛みが随分と楽になった。
彼の手は魔法の手だといつも思う。
買い物をして4時過ぎに帰宅。窓を閉め切っていた自室の蒸し暑いこと。
直ぐにエアコンを点けてまたSNSを見ていた。
今朝の詩は自分では好きだったが反響はイマイチである。
昭和シリーズのつもりであるが所詮は苦労話なのだろう。
年寄りの苦労話ほど嫌われるものはないと思う。
じゃあ明日からどうすれば良いのだろうと途方に暮れるのであった。
書きたいことを書けるものを書くしかないだろう。
そう思ってもそろそろ限界なのかもしれない。
もしかしたら全く書けなくなってしまう可能性もある。
そうなればもう死ぬしかないとさえ思うのであった。
明日はあしたの風が吹くらしい。
雨が降っていたら私も雨になればいい。
ずぶ濡れになってもきっと風が味方になってくれるだろう。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
青さ海苔 家業には後継者が必要であった 夫が決心したのは30歳の時である
しばらくは退職金で暮らしていたが それも底を尽いてしまったのだ
幼い子供ふたりを抱え 貧乏のどん底に陥ってしまった
真冬から早春にかけての家業は 「青さ海苔の養殖業」である 自然相手のことで困難も多い 夫と母は毎日休まず漁に出ていた
3歳の息子は土手から土筆を採って来る まるで宝物を見つけたように微笑んでいた
1歳の娘はよく眠る子で 私の背中ですやすやと寝息を立て始める 泣いてぐずることをしなかったのだ おかげでどれほど助かったことだろう
大漁の日が続けば希望が湧いてくる 洗った海苔を「えびら」に広げ天日干しをした 陽射しを受けて輝く海苔は宝石のようであった
夫は日に日に逞しくなっていく 青白かった顔も川漁師の顔になった
四万十川に夕陽が沈む やがて一番星が見え始めると 肩の力が抜けるようにほっとしたものだ
時代は令和となり青さ海苔は絶滅となった
晴れたり曇ったり残暑は厳しく今日も猛暑日となる。
明日は雨の予報で一時的に暑さが和らぐらしい。
暑さ寒さも彼岸までと云うがまだ二週間も先である。
やはり風邪気味なのか鼻水がすごい。
おまけにいつもの咳が加わり少し辛い一日であった。
喫煙のせいもあり激しく咳き込むことが多い。
その度に尿漏れに悩まされており情けないことである。
せめて節煙が出来ればと思うが余計に吸ってしまうのだ。
自分を制御することが全く出来ないのであった。
病名の付けようがないがおそらく精神的なものだろう。
仕事は順調であったが今日は屑米の出荷があり義父は忙しい。
安価ではあるが引き取ってくれる業者があり大いに助かる。
鶏の餌になるのだろうか。炊けば家畜の餌にもなるだろう。
苦労して作ったお米である。廃棄処分にならなくて何よりだった。
義父に訊けば15万円くらいはあるのだそうだ。
屑米だからと馬鹿にしてはならない。
ゼロからスタートしていた経理も順調で今日は数件入金があった。
明日はカード決済があり何と助かったことだろう。
支払えばまたゼロになるがお金は天下の回り物である。
嘆かず諦めず日々こつこつと貯めて行かねばならない。
事務仕事も一段落し3時前に退社した。
帰宅してしばらく茶の間で横になり後は自室で過ごす。
今朝の詩は自分でもあまり好きではなかったのだが
案の定評判が悪く「いいね」の数も少なかった。
やはり内省的な詩は良くない。自分でも分かっているのだが
書いてしまったからには取り返しがつかないのだった。
あえて削除しないところが私のやり方である。
「これが私」と愚かなプライドもあるのだと思う。
そうして後から自己嫌悪に陥るのが常であった。
生き甲斐とか偉そうなことを云ってもこの様である。
けれども私は自分を見捨てることはしない。
書きたいように書かせてやりたいし守ってやりたいのだ。
背中を押されるように生きているがまだ終われない旅であった。
※以下今朝の詩
日記
午前4時古い日記を開く 書き殴られた記憶は 鮮やかでもあり 薄汚れてもいる
栞を挟んである日は 嬉しいことがあったのだろう
黒く塗り潰している日は 私の犯した罪なのに違いない
心のままに生きて来たのか 迷わずに歩き続けて来たのか
花の蕾は開き咲くことを知る 季節が巡れば枯れなければならない
あがき戸惑うその憐れさも 見て見ぬふりは出来なかった
まだ書き続けられるだろうか 光と影が交差するその真っ只中で 息として生きようとしている
夏だったのか秋だったのか 春だったのか冬だったのか
朝の涼しさもつかの間。日中は今日も厳しい猛暑となる。
もう慣れているはずなのだが身体には堪えるものだ。
おまけに寝冷えでもしたのだろうか頻りに鼻水が出ていた。
ゲリラ豪雨のニュースが流れる。今朝は福岡久留米と新潟。
今現在は東京、埼玉で激しい雨が降っているようだ。
10分もしないうちに道路が冠水する怖ろしさである。
先日の静岡の竜巻の被害も大きく何と無残なことだろう。
3日間も停電が続き今日やっと回復したのだそうだ。
とても他人事には思えず気の毒でならなかった。
一日たりとも災害の無い日が在りはしない。
平穏無事は決して当たり前のことではないのである。

仕事はゆっくりのスタートであった。
義父は葬儀に参列するため9時過ぎには出掛ける。
故人とは不仲であったが火葬場まで行かなければならない。
故人の奥さんから頼まれ断れなかったのだそうだ。
いくら不仲であっても義理は通す。義父らしい判断だと思う。
2時前に帰宅。それから大急ぎで市内のディーラーに向かった。
修理ではなかったが村のスクールバスにカメラを設置する為である。
私も一緒に行かねばならずバスの後を追って走ったが
義父の何と早いこと。高速道路を百キロのスピードで走るのだった。
とても高齢者とは思えない。まるで若者のような走りである。
バスを預け今度は別のディーラーへと向かう。
昨日義父がエーミングを依頼していた車が出来上がっていた。
今日中に納車しなければならず義父はまた山里へと飛ばして帰る。
「やれやれ」であったが義父のおかげで随分と助かった。
サニーマートで買い物を済ませ4時前に帰宅。
自室の温度は38℃にもなっており5分が限界であった。
今日も煙草を吸い過ぎてしまっていたのにまた吸う。
それが嫌でたまらないがどうしても火を点けてしまうのだった。
もううんざりである。この世から煙草が無くなれば良いのにと思う。
茶の間はエアコンが効いており涼しい。
ごろりと横になるなり5時前まで寝ていた。
自室のエアコンを点け10分だけSNSを見る。
昨日の私の詩が拡散されたらしく
今日になっても「いいね」が増えていてとても励みになった。
今までの最高であり身に余ることだと思う。
とある有名な詩人さんがコメントを残してくれていた。
私のような者にである。もったいなくて恐縮しかない。
「素敵」と云う言葉はあまり好きではないのだが
私の詩の何処が素敵なのだろうと真剣に思う。
ただ淡々と書いた詩のようなものをである。
日陰の身にもささやかな光であろうか。
私には相応しくないけれど有難く受け止めようと思った。
明日もきっと生きているだろう。いったいどんな詩を書くのだろうか。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
秋の日
昭和57年の秋 夫の父が亡くなった 末期の肺がんであり 手の施しようがなかったのだ
初孫である息子を可愛がり どれ程の愛情を注いでくれたことか 死の間際にも孫に会いたがり 3歳の息子に 「じいちゃんはもういかんぞ」と 告げるなり息を引き取ったのだった
手を伸ばしたままであった 最後に息子の頭を撫でたかったのだろう その手はまだ温かく確かに生きていた
川海老が大漁だった日を思い出す なんと誇らしげな笑顔だったことか まさかそれが最後の漁になるとは 誰も思ってなどいなかったのだ
葬儀の日は真っ青な空から 爽やかな風が吹き抜けていた 四万十川も陽射しを浴び輝いている
出棺の時息子が突然に駆け出し お棺に縋り付き大声で泣き叫んだ 「おじいちゃんおじいちゃん」 その声がこだまし風になっていく
「おじいちゃんはどこにいくの」 何処だろうと私は思った 空ならばきっと見守ってくれるだろう 孫の成長を楽しみに微笑んでくれる
そうして秋が深まっていく 四万十川にほうずき色の夕陽が落ちた
二十四節気の「白露」朝は少し涼しさを感じたが
まだまだ秋は遠いのだろう。
日中は36℃超えの猛暑日となり江川崎よりも暑かったようだ。
夏を追いやることはするまいと思う。潔く去る必要はない。
その背に触れたら何だか涙ぐんでいるように感じた。
祖父の命日であった。早いものでもう17回忌である。
何の供養もしてやれず祖父が憐れでならないが
母も一緒に居てきっと笑顔で暮らしていることだろう。
母の生まれた家は高い山の上にあり荒れた廃屋になっている。
もう誰も管理をする人が居ないのだった。
晩年の祖父母は町中に住むようになったが
母の弟である叔父の家であった。
叔父亡きあと叔母と長男のいとこが暮らしていたのだが
何とその叔母たちを母が追い出してしまったのである。
祖父が建てた家だったので叔母たちは逆らうことが出来なかったのだろう。
それにしても母の何と非道なことだろう。まるで鬼のように思える。
老いた両親の為とは云え叔母達が可哀想でならなかった。
その町の家に今は私の弟の長女である姪っ子夫婦が暮らしている。
そのまま荒らす訳には行かないと弟の判断であった。
しかし若い夫婦は祖父の遺品を悉く捨ててしまったのである。
衣類などは山の畑の中にそれは無造作に放られてあった。
あんまりなことだと思い弟に意見をしたのだが
弟も全く知らなかったそうでもう後のまつりとなってしまった。
町の家には仏間があり今も位牌を祀っている。
しかしおそらく埃だらけになって手を合わす人もいないだろう。
若夫婦を責めても仕方なく亡き母や私にも責任があった。
永代供養も出来たはずであるが何も出来なかったのだ。
祖父の命日を忘れず最後に会った日の笑顔を思い出している。
それが私に出来る精一杯の供養であった。

朝のうちに美容院へ行き髪を染めてもらった。
今までよりも少し明るめの色を選んだ。
少しでも若くとは思わない。ただ新鮮になりたかったのだ。
帰宅して鏡で髪ばかり見ていた。顔を見れば一気に幻滅である。
髪は女の命らしいが私の命もまんざらではないのだろう。
気分一新となりまた明日からも生きようと心に誓う。
昼食後はまた3時まで昼寝をしその後は自室で過ごしていた。
例の如くでSNSを見ていたら思いがけないことがあった。
今朝の私の詩をリポストしてくれている詩人さんがいたり
「この詩好き」と過大に評価してくれた若い人もいた。
自分では「お涙頂戴」みたいな詩だと思っていたのだが
伝わる人にはちゃんと伝わるのだなと大きな励みになった。
明日も「昭和シリーズ」が書けそうな気がして来る。
生きているうちに書き尽くしたくてならない。
毎日が最後だと思って書ければそれこそが本望に思える。
この老いた身にも微かな光が射す。
身の程を知り尽くしていてもその光ほど有難いことはなかった。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
川漁師
二度目の結婚をした 23歳の時である 妊娠5ヶ月であった
四万十川のほとりの 川漁師の家に嫁いだ 初冬のことで 天然青海苔漁が始まっており 私も手伝わねばならなかった
会社勤めをしていた夫が 無理をさせたくないと 両親に話してくれたのだが 姑さんはとても厳しく 手伝うことを強いられた
ずらりと干された青海苔を 「手わき」と云って ほぐして行くのが仕事である
西風と燦々と降り注ぐ陽射し 青海苔は濃い緑色に変わり あらあらと云う間に乾くのである
家に帰るとお風呂を焚く 私は薪をくべるのが苦手で なかなか燃えてはくれなかった
夫の帰りはいつも遅く 両親と一緒に夕食を食べる お肉は食べられずいつも魚であった
息が詰まりそうになる 夫さえ居てくれたらとおもう おなかのこどもがぴくぴくと動き 真っ先に夫に報せたかった
やがて真冬になり雪が降る 青海苔漁は休まなかった 雪が降っていても干すのである 強い西風に煽られそれは乾いていく 何と不思議なことだろうと思った
どれほどの歳月が流れたことか 四万十川のほとりで 私はゆっくりと歳を重ねている
秋を思わすような真っ青な空であったが
厳しい残暑となり江川崎では36℃を超えていたようだ。
市内は猛暑日にこそならなかったが身に堪える暑さである。
明日は「白露」大気が冷えて来て秋らしくなる頃だが
一気に涼しくなるとは思えずもうしばらく辛抱が必要だろう。
今朝は少し胃痛。やはり夏の疲れが出て来ているようだ。
冷たい物ばかり飲んでいたので胃も弱っているのだと思われる。
元々の胃弱である。もっと胃を労わってやらねばならない。
胃薬を服用しカーブスへ行ったが今日は不思議と汗が出なかった。
筋トレもおそるおそるだったのだろうか。慎重に越したことはない。
いつものことだが左側の靴が履けず踵を踏んで行っていたら
顔なじみになっているお仲間さんが駆け寄って来てくれて
靴を履かせてくれて有難かった。そんな親切が嬉しくてならない。
カーブスを終えサニーマートへ寄ったら
鮮魚コーナーに新秋刀魚が沢山入荷しており値段も手頃になっていた。
大きな秋刀魚で見るからに美味しそうである。
4匹買えば千円とのこと迷わずに袋に入れたのは云うまでもない。
秋刀魚を買えばお刺身は買えず娘達には我慢してもらうことにした。
帰宅して昼食を食べ終わるなりお昼寝体制に入る。
3時には目覚めしばらく自室で過ごしていた。
パソコンのトラブルがあり焦りまくる。
何故かSNSのページだけ開かないのだった。
再起動を繰り返しやっと見ることが出来てほっとする。
もはや中毒化しているのだろう。我ながら嘆かわしく思う。
義父から電話があり近所の親戚で不幸があったとのこと。
日頃から不仲なので嫌でならなかったがお悔やみに行っていたらしい。
月曜日がお葬式で仕事の段取りがあり私に相談して来たのだった。
こんな私でも義父の片腕なのだろう。頼りにしてくれいることが嬉しかった。
お米の籾摺りもしなければならず忙しさが伝わって来る。
屑米の処理に追われているので彼女さんに来てもらえばと伝えたが
彼女さんも重い物は苦手なのだそうだ。やはり男手が必要であった。
夕飯は今夜も娘が手際よく作ってくれて大助かりである。
私は秋刀魚を焼いただけで作ったとは云えないだろう。
娘は今日も仕事であったが午前中のみのパートである。
フルタイムではないので収入は少ないが
あやちゃんのこともあり考えて選んだ仕事だと思う。
やはり母親が少しでも傍に居てやるべきなのだろう。
最近のあやちゃんはとても明るくて笑顔の日が多い。
今朝は「昭和シリーズ」が書けなかった。
記憶は押し寄せて来るが言葉にすることが出来ない。
そのありのままを詩に書いてみたのだった。
少しでも希望をと思う。残り少ない人生に光をと思う。
※以下今朝の詩
渦
記憶の渦に呑み込まれ 出口が分からなくなった
子供時代のわたし 少女時代のわたし おとなになった私
明と暗が絡みつき 光と影が交差する
可憐な花ではあるまい 春は何度も巡って来たが 花びらを千切り続けて来た
種を残せば希望になる 土に眠れば未来がある
「わたし」が生きた証を 残すことが出来たとしても すでに命は尽いているだろう
渦の中でもがき続けている 神様は知っているのだろうか 微かな光を帯びた種のことを 尊いと云ってくれるだろうか
もう少しあと少しなのだ 渦に揉まれながら生きる だから私を止めないで欲しい
2025年09月05日(金) |
まぎる(邪魔になる) |
台風15号は未明に宿毛市に上陸したが
さほど荒れることもなく北上して行った。
静岡では竜巻があり被害があったとのこと気の毒でならない。
大きなトレーラーが横転する程の威力である。
竜巻の経験はないが何と怖ろしいことだろうか。
四万十川には濁流が流れる朝であった。
市内の雨は大したことはなかったが上流地域が大雨だったのだろう。
河口付近には全ての支流の水が流れ込むのである。
山道は特に荒れた様子もなくいつも通りの朝だった。
山里も平穏である。遅植えの稲もしっかりと立っている。
被害が全くなく不幸中の幸いに思う。
まだまだ9月いっぱいは台風の心配があるだろうが
このまま本格的な秋になればと願わずにいられない。

義父は今日も機嫌が良く朝のうちは草刈りに出掛けて行った。
水筒を持って行かなかったので気になっていたら
案の定暑さに参ったらしく10時過ぎには帰って来る。
それから籾摺りを始めたのだが思うように捗らない。
屑米の量が多くひっきりなしに袋詰めをしなければならなかった。
見兼ねて少しでも手助けをと思い屑米を袋に入れていたら
不自由な足が電気コードに引っ掛かり電源を落としてしまった。
義父に叱られ「まぎるけんどけ」(邪魔になるのでどけ)と怒鳴られる。
良かれと思ってしたことが何の役にも立たなかったのである。
若い頃から力持ちで30キロの袋も難なく持ち上げることが出来たが
足に力が入らず重い物が持てなくなったのが何とも嘆かわしい。
叱られればシュンとなりいつもより早く2時に退社した。
今週はしょっぱなから体調が悪かったせいか疲れも感じる。
無理の効かない身体になってしまったのだろう。
出来ていたことが出来なくなるのが一番の痛手であった。
帰宅して5時前まで寝ていた。とろりとろりと夢心地である。
夕食は今夜も娘が手際よく作ってくれて大助かりだった。
私はまた頂き物のゴーヤできんぴらを作った。
川向のお客さんが今朝も寄るようにと知らせてくれたのだ。
どうやら食べ切れないほどの「ゴーヤ祭り」になっているようである。
私は大好きなので毎日でも飽きない自信に満ちていた。
今朝はまた「昭和シリーズ」で二十歳の頃の詩を書いた。
毎朝書いているうちにいつまでも子供ではいられなくなる。
そうなれば決してほのぼのとはしていられず
傷口に触れるような詩になってしまうのだった。
大恋愛の末19歳で結婚したが僅か8ヶ月で終りを告げた。
私にとっては大きな罪となり生涯忘れられない出来事になる。
いったい私はどれ程の罪を抱えているのだろう。
死んでしまえば閻魔様に舌を抜かれるのに違いない。
書くことで赦されはしないがほんの少し救われるような気がする。
憎まれてはいても憎むことは決してなかった私の人生であった。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
はやみちゃん
二十歳の誕生日の夜 はやみちゃんが私の大好きな 手羽先の唐揚げを買って来てくれた
「好きやろ」って云って 私の喜ぶ顔が見たかったのだろう
転職したばかりの頃だった もうネクタイは結ばす 作業服を着て仕事に行く 泥だらけになって帰って来る 私は洗濯をするのが好きだった
辛い日もあった 夕食のおかずが気に入らず お皿を投げた夜もあった 仕事で嫌なことがあったのだろう 話してくれたら良いのにとおもう
わずか8ヶ月の暮らしであった 傷ついたことより傷つけたのだ はやみちゃんが仕事に行っている間に 私は着の身着のままで家を出た
逃げなくてはならない ただその一心の愚かな行為である
記憶は時に残酷で修復が出来ない けれども忘れてはならないことだ
はやみちゃんの笑顔ばかり思い出す 海辺のちいさな町で 彼は今も生きているだろうか
台風15号の接近でかなりの雨が降る。
今は止んでいるが明日の朝にかけてまた大雨になりそうだ。
暴風圏内のない台風だそうで風は大したことがないかもしれないが
台風には違いなく用心に越したことはないだろう。
怖いのは雨で線状降水帯が発生するかもしれないとのこと。
各地に水害がないことを祈るばかりである。
仕事はほぼ順調であったが雨が工場に降り込むためシャッターを閉めた。
私も早めに退社したが帰り道の雨の何と凄かったことだろう。
前が見えないほど降るとさすがに怖くてならない。
市内まで戻ると小雨になりとてもほっとする。

幸い稲刈りは昨日で終了。義父の機嫌がとても良かった。
今日は荷造りかと思っていたが工場の仕事を手伝ってくれる。
同僚は一般修理をしていたが義父のアドバイスが必要であった。
手取り足取りではなく同僚にヒントを与えるのが義父の方針である。
見ているととても微笑ましい。同僚も素直に従い師匠と弟子であった。
3時過ぎには帰宅していてテレビの台風情報を見ていた。
そのうち眠ってしまったらしく目覚めればもう5時である。
娘が「今夜は何かね?」と訊いてくれ献立を告げると直ぐに作り始めた。
誰に似たのか手際よくちゃちゃっと作ってくれて大助かりである。
思い起こせば中学、高校と「帰宅部」だったのでよく手伝ってくれた。
バスケットをしていたのだが膝を痛め運動が出来なくなってしまったのだ。
諦めるのは辛かったと思うが我が家の「料理部」に入部した。
それからかれこれ30年だろうか。娘はもう立派な主婦である。
私も13歳から主婦をしていたが全て見よう見真似であった。
母の味を思い出しては同じ味にするのに苦労したものである。
父も弟も喜んで食べてくれたのがとても嬉しかった。
「やれば出来る」のである。そうして自信をつけて行く。
今朝も「昭和シリーズ」の詩を書くことが出来たが
読み返せば何だか涙が出そうになるのだった。
先日義父は「運命」だと云ったがその歯車が目に浮かぶ。
歯車は軋み音を立てながら回っていたのだろう。
誰もが傷ついたがそのおかげで今の幸せがあるのだと思う。
「おとうさん」と呼べばもう義父しかいない「いま」であった。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
むっちゃん
父の狩猟仲間に 「むっちゃん」と云う青年がいた すぐ近所だったので しょっちゅう遊びに来て 父とお酒を酌み交わしていた
私にはギターを教えてくれたり リカちゃん人形を買ってくれたり 優しくて大好きなおにいちゃんだった
今思えば母も好きだったのだろう むっちゃんが来てくれた夜には 腕を振るいご馳走を作っていた
父と母が喧嘩を始めると 父の暴力は凄まじくて怖ろしい 母が殺されるのではないかと思った
むっちゃんは母を庇った まるで楯のようになり母を守ったのだ 母は決して涙を見せない いつも歯を食いしばって耐えていた
もう半世紀以上も昔のことである 歳月の嵐は荒れるばかりで そこには運命が渦巻いていた
いま私はむっちゃんのことを 「おとうさん」と呼んでいる
曇りのち雨。沖縄付近にある熱低がまた台風に変わるようだ。
前回の台風と同じであらあらと云う間に通り過ぎてしまうのだろうか。
高知県は明日大雨の予報になっているがどうなることやらである。
直撃となれば用心に越したことはないが特になにもせずに過ごしていた。
毎日のように日本の何処かで災害級の豪雨が降っている。
今日は秋田で冠水被害があったようだ。
農作物の被害も多いことだろう。何とも気の毒でならない。
稲刈りは昨日で終ったと思っていたのだが
まだ少し残っていたらしく義父がそわそわと落ち着かない。
空模様を見ながらであったが今日こそ最後の稲刈りであった。
ちょうどお昼のことで同僚はお昼休みをしており
トラックで籾を運ぶ役目を私が引き受けた。
幸いオートマの軽トラックがあり私でも運転が出来る。
足が不自由になってからクラッチが踏めなくなってしまったのだ。
稲刈りを見るのはけっこう面白いもので興味深く眺める。
義父の操るコンバインが右往左往し田んぼを縫うように走って行く。
3分の一ほど刈ればもうトラック一台分のお米が獲れた。
しかし天は味方してくれず雨が降り出してしまったのだ。
義父が大声で叫んでおり稲刈りは中止かと思ったのだが
小雨決行となりコンバインは走り続けている。
籾を大急ぎで工場まで運び同僚とバトンタッチをした。
車検整備をしていたのだがそれどころではない。
「お米さまさま」なのである。義父を一番に助けてやらねばならないのだ。
会社の危機を救ってくれたのは義父であり「お米様」であった。
同僚が籾を運び始めると手際よく乾燥機に入れてくれる。
そうしてまた直ぐに田んぼへと向かって行く。
雨は小雨で降ったり止んだりだった。何としても終らせてやりたい。
気になって仕方なかったが3時までに整形外科に行かねばならなかった。
今日はリハビリ後に診察もありキャンセルは出来ない。
まして私が待機していても何の役にも立たないのである。
明日になればきっと上機嫌の義父に会えるだろう。
とにかく毎日義父の顔色を窺っている身にはそれが一番であった。
昨日とは打って変わって今日は体調が良く何よりに思う。
死ほど身近なことはなく生きていることが嬉しくてならない。
このままずっと長生きが出来たらどんなに良いだろうか。
目標は88歳の米寿である。あと20年もあるのか
あと20年しかないのかのどちらを選べば良いのだろうか。
神様は指折り数えている。その指に私の指を足したいと思う。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
紙芝居
6年生になると 1年生の教室に 紙芝居を読みに行く その時間がとても好きだった
ちいさな子等が一斉に くりくりとした瞳を輝かせ わくわくしているのが 伝わって来て嬉しくてならない
私は大きな声で読んだ まるで大人のような気持になり テレビ漫画の声優みたいだった
叫んだり泣いたりする 笑う時には思いっきり笑う
教室の真ん中に座っていた 男の子と目が合った 何と素直で純真なのだろう その輝く瞳に胸が熱くなる
読み終わると一斉に拍手が聴こえた それはまるで爽やかな風のようで 何と清々しく心地よかったことか
物語は終ってしまっても いつまでも消えない記憶である
夏があがいているような暑さでほぼ猛暑日となる。
風もなくただただ陽射しの一日であった。
ちいさな秋も諦めかけていたが国道から山道に入るなり
真紅の鶏頭の花が見事に咲いているのを見る。
ちょうど遍路石の傍らで毎年目にする光景であった。
かつて地元の人が植えていたのだろう。
草に埋もれることもなく綺麗に手入れをしている。
お遍路さんの心もきっと和むに違いない。
職場に着くなり今朝も籾摺り機の音が鳴り響いていた。
乾燥機の籾はあと一機となっておりもう少しである。
しかし「いもち病」のせいか屑米がとても多いのだそうだ。
それは30キロの小袋に詰めなくてはならず手間が掛かる。
もちろん食用にはならず鶏などの餌になるらしい。
一袋千円とか。僅かな金額であるが売れるに越したことはない。
午後は稲刈りに。とうとう早稲米の最後の収穫である。
3時間もあれば済むだろうと義父一人で出掛けたが
トラックで籾を運ばねばならず同僚が手伝うことになった。
工場の仕事が一段落しており何よりに思う。
私は記帳の仕事をしていたが頑張り過ぎたのか肩が重くなった。
首の後ろに痛みがありどうやら血圧が高くなっているらしい。
黒酢を飲んだりリポビタンも飲んでみたがしんどくてならない。
3時前に退社したが運転中に倒れるのではないかと不安になる。
もし意識が無くなったらどうなるのだろう。
そのまま死んでしまうかもしれないと怖くてならなかった。
何とか買い物を済ませ帰宅するなり安定剤を服用する。
そのまま5時前まで寝ていたが一向に楽にならない。
血圧は164と少し高めであったが普段とさほど変わらなかった。
神経質になっていたのだろう。とにかく肩の力を抜かなければと思う。
夕食後いつもの血圧の薬と鎮痛剤を服用しお風呂に入る。
血の巡りが良くなったのだろうやっと少し楽になっていた。
カーブスへ通い始めてから肩凝りとは無縁であったが
油断をし無理をし過ぎたのかもしれない。
まだ火曜日である。週末まで何としても乗り越えなければと思う。
夏は居座っており季節の変わり目とはまだ実感がないが
そろそろ夏の疲れが出始める頃なのだろう。
体調管理には十分気をつけなければならない。
幸いこうしていつものようにこれを記すことが出来ている。
日記中毒かもしれないが書けないことほど辛いことはなかった。
夜明け前の詩も同じくで大げさかもしれないが「命がけ」なのだった。
書いてこそ生きる。書けなければ死んだも同然に思える。
やがて死ぬのだ。それは明日かもしれない。
けれども一日一日を惜しむように私は生きている。
※以下今朝の詩(昭和シリーズより)
放課後
放課後になると まさひろ君がギターを弾いた NSPの歌がとても上手い
「夕暮れ時はさびしくて」 口ずさむと涙が出そうになる
私はもう家に帰らなくてはならない 買い物をして夕飯を作らなくては みんなとは違うのだなと思う
まさひろ君が私の詩に曲をつけてくれた ちょっとNSPに似ていたけれど 真似ではないとまさひろ君は胸を張る
みんなで歌った私とまさひろ君の歌だ その時には絶対に忘れないと思ったのに おとなになるともう思い出せない ただギターの音だけが胸に残っている
夕飯は何にしようかと焦って来る 弟がお腹を空かして待っているだろう
校門を出て振り向くとみんなの歌声が聴こえた 「さようなら」なんて切ない歌なのだろう
校舎の窓から夕陽が見えただろうか 私は台所に立ちフライパンを揺すっていた
名ばかりの9月。爽やかな朝風も何処へやら
昨日よりも気温が上がり今日は猛暑日となった。
入道雲がいきり立っている空。陽射しは迷わずに降って来る。
早朝また川向のお客さんから着信があり「ゴーヤだと」嬉しい。
やっぱり思った通りに大好物のゴーヤだった。
出勤途中に立ち寄ると上半身裸でステテコ姿で待っていてくれる。
「ほーい」とビニール袋を助手席の窓から放り込んでくれた。
ゴーヤだけではなく白い茄子とオクラも入っている。
ゴーヤはきんぴらにすると美味しく白い茄子は豚肉と炒める。
オクラは肉巻きにすると孫達がいくらでも食べるのであった。
メニューが頭に浮かびるんるんしながら職場に向かう。
月曜日だけあって「これは幸先がいいぞ」とほくそ笑んでいた。
それにしても何と有難いことだろうか。
職場に着くなり例の大型車の納車である。
土曜日に同僚が頑張ってくれていて大助かりであった。
お客さんも喜んでくれて何とほっとしたことだろう。
同僚も嬉しかったのか機嫌よく直ぐに次の仕事に取り掛かってくれる。
車検は順調に予約が入っており閑古鳥が鳴くことはないだろう。
とにかく目の前のことを精一杯に取り組んでいかねばならない。
義父は土曜日に稲刈りをしたのだがまだ少しだけ残っているとのこと。
乾燥機がまた満杯になってしまい全て刈ることが出来なかったらしい。
そうなればまた荷造りである。工場には籾摺り機の音が鳴り響く。
大きな一トン袋が所狭しと工場を占領していて何屋さんなのかと思う。
近いうちにまた出荷であった。義父の機嫌も頗る良い。
経理はまたゼロからのスタートであったが仕事さえあればと思う。
小金をこつこつと貯めて「コガネムシ」になろうではないか。
いざとなれば義父が助けてくれるだろうが当てにしてはならない。
ここは何としても自分の采配で乗り越えて行こうと思っている。
やってやれないことはない。やる前から諦めてはいけない。
事務所の冷蔵庫に大きな鮪の切り身が入っていた。
土曜日に義父の友人が持って来てくれたのだそうだ。
入れ歯の具合も良くなり義父も食べられるようになったのだが
「全部やるから持って帰れ」と言ってくれたのだった。
鮪は寝かすほど美味しいそうで今日で3日目であったが
ぷりぷりとした赤身はとても美味しそうであった。
夫はもちろんんこと娘達も大喜びでたらふくご馳走になる。
食べながら義父の顔が目に浮かんだ。義父も食べたかったろうに。
男やもめの夕食を思う。今夜は何を食べたのだろうか。
せめて彼女が来てくれたらと思うが最近は遠ざかっているようだ。
私も話題にしないが義父も何も言わなかった。
午後7時40分、辺りはもうすっかり夜の帳が下りている。
ちょうど半分の月が夜空に輝いていてほっこりと心が和む。
天の国からも月が見えるだろうか。ふっと母の顔が目に浮かぶ夜であった。
※以下今朝の詩
9月
後姿が見えているけれど 名残惜しそうに振り向く
燃え尽きてしまうまで 炎はあとどれくらいだろう 見届けてやらなければ あまりにも憐れであった
夏草の茂る野に一輪の 黄花コスモスが咲いた それはちいさな秋である
白装束の旅人が鈴を鳴らし 峠道を一歩一歩と進んでいる 里には刈り取られた稲株から 孫生えの若い緑が生まれている
夏の背が微かに震えているのを見た 肩にそっと手を添えてやりたい 思い残すことがあってはならないのだ
振り向けば9月の風が吹き抜ける 夏は何かを決心したかのように 真っ青な空を真っ直ぐに見上げた
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