| 2021年10月22日(金) |
あいにくの雨。しとしとと降る。どんよりとした雲が垂れ込める空、それだけで重怠い。そんな中宿根菫が咲いてくれている。薔薇も二輪蕾が綻び出している。そこだけぽっと灯りが点ったようでちょっと嬉しくなる。 今日はY先生と会う日。雨でも会いましょうということで待ち合わせ先へ急ぐ。 Uさんへ書いた手紙ももちろん持参する。先生に読んでもらい、アドバイスをもらう。 Y先生は白血病に冒されてもう何年。でも気持ちいいくらい煙草を吸う。今日も「もちろん待ち合わせは煙草吸えるところよね?」。というわけで、喫煙席のある珈琲屋でしばし時間を過ごす。 Y先生の率いる会の活動に、ほんの少しだけれど関わるようになって久しい。でも私は、そんなに積極的に関わっているわけでは、ない。でも、先生とは非常に馬が合う。呼吸のテンポが似ている。 きっと、先生が私ぐらいの年頃だったら、間違いなく私たちは親友になっていたに違いないと思えるほど。
本当は。 先生の今の言葉はすべて、遺言に違いないから、聴くべきひとが聴くのが一番いいと思う。 でも、何だろう、先生曰く、「私の言い方も悪いのかもしれないんだけど、否定されてるって受け止めるひとが多いのよね。そうじゃないのよ、議論したいだけなんだけど!」と。 ああ、そうだろうなぁ、と思う。別意見をはっきり表明してしまうと、即座に人格否定されたと受け止めるひとのなんと多いことか。そうじゃない、このテーマについて議論しているだけなんだけれど、と、そう言っても、一度人格否定と捉えてしまったひとはもう受け止めるどころじゃなく。結果、議論にならない、という具合。 「でももう私もじきに逝くし、伝えるべきことは伝えておかないと、と思ってるんだけどねぇ」、先生が煙草を吸いながらぽつり、言う。
自分より先に生きているひとの言葉を聞けるのは、本当にありがたいことなのだ、と、そのことをちゃんと弁えるまでに、私も何年もかかったな、と今更だけれど思う。若い頃は、人格否定までは思わなかったけれども、でも、怖いと思ったことは多々ある。 拒絶されたように感じてしまう感覚はだから、私にもよくわかる。でも。 対話をしたい、議論をしたい、そういうところにいるとき、発せられる言葉を「それは人格否定だ」と捉えてしまったら、何も話ができない。 あなたは赤色が好きで、私は青色が好きで、その違いはこれこれこうだよね、と話すことを、人格を否定された、と捉えてしまったら、本当に何も話が進まない、のだ。
「あなたと私はお互い日本人っぽくないみたいだから!」と先生はがははと笑われたが、私は小さくしか笑えなかった。きっと先生は少し寂しいに違いない。伝えて遺してゆきたいことが本当はたくさんあるに違いない。だから、「あなたはあの活動に深く関わらないかもしれないけど、でも、私がこんなこと言ってたってことは聞いておいてくれると嬉しいわ」なんて言葉がこぼれてくるのだ。 私の胸がぎゅう、と、締め付けられるように啼いた。
恩師にしろ、Y先生にしろ。間違いなく私より先に逝く。その先人たちの言葉をどれだけ私はこの体にしみこませられるだろう。 本当は、一粒残らず呑み込んで、血肉にしたい。そのくらい、彼彼女の言葉は切実なんだ。
「またお茶につきあってね!ごはん一緒に食べましょう!」とY先生はにっこり笑った。もちろんハイ!と応えた。 その日が必ず来ますように、と私は先生を見送りながら思った。先生、まだ逝くには早いですから。まだ、逝かないでください。 |
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