ささやかな日々

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2021年10月24日(日) 
今日は何曜日なのか、すこんと抜け落ちて目が覚めた。今日が日曜日だと気づくのにずいぶん時間を要してしまった。

洗濯機を廻しながら、この渦の中に身を沈めたらどんな気持ちになれるのかしら、と想像する。そんな馬鹿げたことを想像した自分に、直後、唖然とする。何を考えているのだろう自分は。
このところ自傷の衝動はずいぶん収まってはいるけれども、こういう時が逆に怖いのだと思い出す。ふいにぎゅんっと引っ張られることがある。気を付けないと。
洗濯物を干しながら空を見上げる。明日雨の予報が出ているなんて信じられないほどの青空だ。発光しているかのような白い雲が浮かんでいる。そして私の足元では薔薇たちが緑を茂らせている。植えっぱなしのイフェイオンはもう葉を伸び放題といっていいくらい伸ばしてきている。その陰に水仙のとんがった葉も見つける。アメリカンブルーは相変わらず茂っており、いい加減植え替えてやらないとと思うのだがなかなか手が伸びない。薔薇の挿し木だけを集めたプランターも、もういっぱいになっている。こちらも植え替えをきっと待っているに違いない。そう思うのだが、なかなか実現させられない。
日常を営むので精いっぱいなんだな、と改めて思う。今この日常を日常として過ごすことで、私はめいいっぱいなのだ。余力がない。
そのせいなのか、このところ過食気味。ふと気づくとばりぼりカシューナッツを喰らってしまっている。コンビニに入ると何となく余計なものに手が伸びる。ストレス値高まってるんだな、と反省。いや、反省したってどうにもならんのだが。

たとえば雑穀ご飯を炊く。息子が美味しいといったはとむぎを加える為に、前の晩からはとむぎを水に浸して、翌朝下茹でして、そのうえで米粒やキヌア、雑穀に加えなければならない。それを為すだけであっぷあっぷしてる。
たとえば夕飯の準備をする。夕飯の準備をしながらワンコの散歩の時間をいつにするかを考える。その、両方を考えるだけで私の脳味噌はいっぱいいっぱいになってたりする。
余白がこれっぽっちもない時というのは、いろんなところで軋んでしまう。息子のどうってことのない一言だったり、家人の態度だったり、そういうものにいちいち躓いてしまう。躓いて、躓いたことに自己嫌悪になり、さらに悪循環。

Jさんと、次回の対話の会のプログラムを作る為ビデオ電話。これまでやってきた形のままでは被害者のことを考えるというプログラムが生かされない気がするというJさんの意見。プログラム詳細を見せていただき私も考える。なるほど、これだけの情報で、しかもペアでロールプレイというのは無理があるんじゃなかろうかと私も感じる。Jさんとあれこれ意見交換した結果、無理にロールプレイするよりも、加害者である少年たちに、被害者の立場にのみ立ってもらう方がいいのでは、というところに落ち着く。
こういう時、情報というか条件さえ整えばある程度テキストをすぐ書くことができる自分が役立つ。いくつかの条件下でテキストを書き続けてきた経験が生きる。ありがたいことだ。何とかプログラムの下地を作ることができ、ほっとする。

家人も息子も寝、ひとりになってから、机の中身の整理をする。加害者プログラムの資料が溢れんばかりになっていて、前から気になっていた。整理しながら、あっという間にここまで溜まってしまったなぁと実感する。これを始めた時、こんなこと想像できたろうか。いや、できなかった。こんなに続くとは思っていなかった。でも、今は、ここからだ、と毎回毎回思う。気づきには時間差がある、ということを痛感している自分。今蒔いた種は、五年後十年後に芽吹くのだ、と、経験からそう、感じている。つまり、五年後十年後までこの活動が続くよう、歩いていかなければ、と、そう思う。

それにしても朝晩はずいぶん冷え込むようになってきた。そのおかげで朝は朝焼けの色合いがより鮮やかさを増してきているし、夜闇は闇でその深さを増してきている。私が愛する冬まであともう少し。


浅岡忍 HOMEMAIL

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