ささやかな日々

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2022年02月14日(月) 
アートセラピー講師の日。最初別のテーマを考えていたが、午前中にSさんが「怒り」について扱ったという話を聞き、それはぜひ続けて「怒り」を扱おうと思いつく。自分の中の「怒り」がどんな色、どんな形をしているのか、コラージュしてもらうことにした。
絵を描くより、折り紙をちぎって貼って、とやってもらうことを考え、そのようにしてもらう。
抑えつけることに慣らされた「怒り」を作り出すひともいれば、一度抱くと四方八方に爆発しまくってしまう「怒り」を作るひとも。八つ切り画用紙全部を赤で埋めるひとも。かと思えば「アルコールで靄がかってるからこんな感じ」と、ぼんやりした色を紙面に散らしたひとも。
ああこんなにも「怒り」にはバリエーションがあるのだな、と感心させられる。じゃぁ私は? 私の怒りは? どんな形? どんな色?
ぼんやり、どくどくとした赤黒い色が思い浮かぶものの、それは芯がそうなっているというだけで、そのすぐ外側はもう冷え切って冷たくなっている、そういう殻のような、そう、分厚い殻のようなものが思い浮かぶ。でもどれもこれも、もうはるかかなた昔の、遠い遠い記憶のように感じられる。手を伸ばしてももはや届かないモノのような。
みなでシェアする時、ひとりひとり発表をしてもらうのだけれど、たとえば、グレーは不信感、青は冷めた感じ、とか、そんなふうに色それぞれに想いを込めて説明してくれるひともいれば、一方で、大きな身振り手振りをつけてどれほどこれが爆発すると危険かを説明してくれるひとも。共通しているのは、怒りがどれほど扱いづらいか、というところか。
怒りは。
抱いてもいい感情なのだということ。むしろ、使い方さえ間違えなければ行動を起こす原動力になり得るということを伝える。そして、怒ることは恥ずかしいことでも罪なことでもないのだということも。だから吐き出し方、扱い方を覚えよう、その方法もいくつかバリエーションがあると生きるのが楽になるよね、と。どんなにマイナスに思える感情でも、その感情を今自分が抱いているということに自覚的になると、扱いが楽になれるよ、と。
いつも思うのだけれど。彼らにメッセージしながら私は、自分の内奥を確認しているのだろうなと。そう思う。自分がこれまで生きてくる中で培ったあれこれを、その都度その都度確認し、そして納得しているのだな、と。そう、思う。

息子を寝かしつけて間もなく、彼が寝言を言い始めた。うん、そうそう、とか、違うよーとか。あまりにくっきり言うのでちょっと笑ってしまった。そんなにくっきりした夢を彼は見ているのかと思ったら、想像が膨らんで、楽しくなってしまった。きっと明日の朝訊ねたら、彼は「何それ?」と言ってくるに違いない。でも今、彼は夢の真っただ中。たのしい夢だといいな。カラフルな夢だといいな。そんなことをつらつらと思う。
夜中、Yさんと少しやりとりする。羽生選手の会見の記事を読んだよと私が言うとふふふと笑う彼女に、その記事の中の、9歳の自分というくだりにとても共感した、うれしくなった、と伝える。彼女が「詩人だろ?」とドヤ顔で言う、その言葉に私はちょっと笑う。
淡々と一日が過ぎてゆく。いや、あっという間に過ぎてゆく。私は明日になれば忘れてしまうんだろう。それでも一日一日生きているからこそ過ぎ往くのだということ。私は決して生きていないわけじゃないということ。忘れないようにしないと。

明日15日は母の誕生日。


浅岡忍 HOMEMAIL

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