| 2022年02月18日(金) |
ベランダの植物たちに水やりをしながら、首を傾げる。何故息子が種を蒔いたプランターからは芽がひとつも出て来なかったりするのだろう。一方何故私が種を蒔いたプランターからは芽がわらわらと出て来たりするのだろう。この違いは何故生じるのだろう。不思議でならない。誰か教えてほしい。これは何故? クリサンセマムがぎゅっとした蕾を徐々に徐々に膨らませ始めている。もうじき咲いてくれるのかなと思うとどきどきする。晩秋に芽を出した葡萄は、まだまだちびっちゃいままだ。2センチあるかないかの背丈。それでも何とかそこに立っていてくれている。頑張れよー、と声をかけてみる。いや、そんな頑張らなくてもいいのかもしれない、育ちたいように育てばそれで、いい。
小松原織香さんの最新記事を読む。「私たちに残された「対話」という道」。読み乍ら、まるで自分の心の中の大半を代弁してもらっているような錯覚を味わう。
「「対話をすれば被害者は回復する」「修復的正義のプログラムがあれば、社会がよくなる」などと思えたことはほとんどない。私自身、被害後、加害者には二度と関わりたくなかった。一生、縁を切って、そんな人は存在しなかったごとく暮らしたかった。でも、「なぜ、私にあんなことをしたの?」と尋ねる相手は、加害者しかいない。自分の気持ちを伝えて謝罪を要求する相手も、赦しを与える相手も加害者しかいない。「あなたを赦さない」と宣告する相手すら、加害者しかいないのである。だから、ときに被害者は対話を求める。たとえ、加害者からまともな返答がないと思っている場合でも、加害者がすでに死んでいる場合でも、話す相手はその人しかいない。私も実際に加害者と対話をした経験があるが、相手からはろくな反応はなく、心の平穏は得られなかった。最初から被害に遭わず、加害者と対話しない人生であれば、どんなに良かっただろう。私は、被害者が暴力を受けた後に対話を望まざるを得なくなることは、不条理なことだと思っている。でも、対話しか道がないから、そちらに進むしかない。」 「もし、なにかの被害に苦しんでいる渦中の人に出会ったとき、「そういえば対話がどうこうという話を読んだことがあるな」と思い出してくれればいい。私は「対話すべき」とも、「対話すべきではない」とも結論づけない。ただ、対話という道が私たちにはあることだけを伝えたいと思っている。」 (記事より https://www.moderntimes.tv/articles/20220218-01/)
対話をしたから赦す、赦すべき、と思っているひとたちも中にはいるかもしれないが、対話をしたからとて赦せないこともある。実際、赦す赦さないという地平で対話をしているわけではない私がここにいたりする。
私は。 知りたかった。何故私だったのか。まさに小松原氏の言葉を借りれば「「なぜ、私が? (Why me ?)」という、世界中の被害者たちが抱く疑問」だ。何故私だったのか。どうして。 また、私自身自分の加害者と対話したことがある。一方的に謝罪を繰り返す加害者を前に呆然とし、同時に、その彼の謝罪がまったくもって私に響いてこないことに愕然とした。 それ以来ずっと、私は加害者とのさらなる対話を考えるようになった。 実際加害者となった彼らと対話を続けてきて、絶望に近いものを味わうことが多々ある。じゃあさっさと対話を切り上げてしまえばいいじゃないかと言われるかもしれない。何故それでも私が対話をし続けているかといえば、彼らが被害そして被害後についてあまりに何も知らないことを思い知らされたからだ。同時に私も、彼らの加害そして加害その後について何も知ってはいないことを思い知らされたからだ。 知り合うために。私は対話を続けている。 被害と被害その後を加害者につぶさに知ってもらうこと。 加害と加害その後について被害者が知ること。 過ちを繰り返さないために、それは必要な対話に、私には思えるのだ。だから、対話を今日も続けている。
と書いてきたが。まだまだ私は自分の想いを言語化できるほどには至っていない。書きながら、もっとこう、こんな感じなのだ、もっとああいう感じなのだが、と四苦八苦している。 私がきちんと自分が今為している事柄を言語化し得るには、もう少し時間がかかりそうだ。
対話についてと並行して、私が今気になっている事柄。それは「回復」だ。 回復とは一体どういうものなのか。どういう状態を回復というのか。私の回復とは一体何なのか。 同時に、私が対峙している加害者たちの、回復とは。回復はあり得るのか。
まだ、私のうちはぼんやりしすぎていて、言葉に還元できない。 |
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