2022年06月17日(金) |
どんよりとした雲が空を覆っている朝。天気予報は昼頃から暑くなると告げている。今日は通院日。何となく朝からばたばたしている。いつものことと言えばいつものことだけれど。 息子は朝顔に、私は薔薇たちにせっせと水やり。息子が言う、「カマキリいたらいいのになぁ、そしたらこのアブラムシの大群食べてくれるのに!ばぁばの家でやっぱりカマキリ捕まえればよかった」。なるほど、その手があったか、と私も思うのだが、カマキリがここから飛んでいってしまうことも考えられるし、と私が言うと、だから捕まえるのやめたんだ、逃げられちゃうと思って、と息子。 紫陽花の挿し木は萎れてしまった子も一本あるのだけれど、今のところ順調に育っている。ありがたいことだ。改めて近所の紫陽花をあれこれじっと観察してみると、私がこれまで気づかなかった八重の花弁の子が結構いることに気づく。近所にこんなにもあったのか、と改めて驚き。気づかないって怖い。知らないって怖い。 電車に乗り病院へ向かう。途中席が空いたのでそそくさと座って本を開いてみる。藤岡淳子著「アディクションと加害者臨床」。ようやく古本で少し前に手に入れた。でもなかなか読み始められずにいた。まだ読み始めたばかりなので何とも言えないが、私が加害者と対話を進めるにあたってひっかかっていたあれこれが詳らかにされているような気がする。ちゃんと向き合って読まないと、と改めて気が引き締まる。 あっという間に最寄り駅へ到着。慌てて降りる。カウンセリングは先週の続きゆえのっけから暴力の話に。写真が暴力というのなら、正義も常識もある種の暴力だよね、とカウンセラー。ああなるほど、と思う。扱い方を一歩間違えれば、本当に何もかもが暴力になり得るな、と。 こんなことも話した。日本において対話の文化というのは育っていないのではないか。実際対話すべき場面であっても、言いっ放し聞きっ放しがなかなかできない。必ず最後「納得」が求められる。納得して次に進むという文化。つまり、違いを許さない文化。フランスなどだと結論を求めない対話が当たり前に日常にあったりするよね、とカウンセラーが言う。確かに日本のこの、納得を求める風潮がそもそも、互いの違いを認め合うというものとは相容れないというか、互いの違いを違いのまま置いておくことを許さないという空気をうんでいる気がする。それでは「対話」はいつまで経っても進まない。 それにしても今日は身体が痛んだ。特に午前中、カウンセリング前が酷くて、カウンセリングを始めた時は身体のあちこちを私がぎゅうぎゅう押しているところだった。カウンセラーが、ちょっと酷い痛みっぽいわね、と言うので、うーん、いつものことと言えばいつものことです、と笑って応える。そうなのだ、酷いと思うと酷さ痛さが増して感じられるから、まぁこんなもんさといつも考えるように努めている。このくらいまぁ耐えられる程度よね、と。そういうふうに考えると、不思議と、何とかなる。 改めて訊いていい?加害者との対話はいつから考えていたの? カウンセラーにそう問われたので改めてできるだけ時系列で話をしてみる。改めて話してみると、加害者との対話への流れは十年二十年前からおのずとできていたような気がする。きっかけが2017年のS先生との出会いであったというだけで。 あっという間にカウンセリングの時間は終わりが来てしまった。挨拶して部屋を辞する。次は診察。 主治医に、前も話したのだけれども性器の周囲の痺れがあって、それが最近ちょっと強いんです、と伝える。被害を受けた女性にはそういう症状がよくあるのよねぇと主治医。どういう時にその痺れが強くなる?と問われ改めて考えると、ああなるほど、と思うところが結構あって、つくづく身体というのは心と合わせ鏡の関係というか、もっと直截に言えば密接につながっている、のだな、と、そう思う。 薬を減らしたいのよねぇ、でも今これ以上減らせないわねぇ、と主治医。でもいずれね、減らしていきましょうね、にっこり笑顔を浮かべながら主治医が言う。私はちょっと返事を躊躇う。まだそういう覚悟は私の裡にない。 帰り道、ちょっと遠回りをしてカフェヌックに立ち寄る。モノクロ写真の展示と聞いて楽しみにして来たのだけれど。いや、確かにグレーのトーンは実に美しく、グループ展であるにも関わらずコンパクトにうまく統一されていてなるほどなと思う。でも、何だろう、何と言うかこう、物足りない、のだ。ただグレートーンが美しいというだけで、はっとする面白味やぞっとするような美しさは、何処にもなくて。残念だなと思う。折角ここまで見に来たのだけれど、な。 帰りの電車の中、ぼんやり窓の外を眺める。家人が帰国し、数日が経つ。別に彼が仕事をサボっているわけではないのだが、私は不満を覚えている。何故だろう。改めて考えて、気づく。留守中あれやこれや私の負担が増大したにも関わらず彼からは何もメッセージがない、そのことが私は引っかかっているのだな、と。いまさらだけれども気づく。 いや、そんな大げさにお礼を言ってくれとか手伝いをしてくれとか、そういうのとはちょっと違う。こう、家人が当たり前のように私のことを顎でこき使う、そのことが不愉快だったりするのだ、私には。 嗚呼、人生、日々修行だな。死ぬ日がやって来るまで日々修行。死ぬその瞬間、笑っていられたら、もう万事オッケー、と思っている。だからこそ、一日一日を精一杯生きることが大事なんだよな、と。そう、思う。
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