2022年06月18日(土) |
加害者プログラムに出席する日。今日は大船の方へ。Jさんの希望で、オブザーバーとして会に参加する日でもある。 Jさんと大船で待ち合わせして出掛けるのだが、ふたりとも商店街が大好きで、もう近くを通っただけでわくわくどきどき、ふたりしてあれも安いこれも安いあああっちも!なんて状況に陥ってしまう。果ては、お芋のソフトクリームなるものを見つけてしまい、ああ食べたいねぇ、と話す。 でも、これからプログラムに出ることもあり、何となく地に足がついていないような、そんな感覚を覚える。落ち着かないんだろう。今日はひとりひとりから、自分の加害行動について語ってもらうことになっている。もうひとりひとりから、という時点でしんどい。何人出席かまだ分からないけれども、ひとりひとりの話に全力で耳を傾ける、ということがどれほどエネルギーを要することか、もう考えただけで頭を抱えたくなる。でも、彼ら加害者は自らのことを語る言葉を持たない、というか、自らを語る場がそもそもないし、ないからこそ語る機会がほとんどないから、「語る」というのはとてもとても大切な行為なんだ。 彼らにはもともと、説明責任、というものも、ある。しかし彼らは通り一遍の謝罪しか思い浮かべられなかったりする。そもそも自分の罪を語ることができない。だからこそ、こういう「語る」機会は大事なのだ。
会が終わった時には、頭は沸騰状態だった。それでも、彼らはすべてを語っていない、きれいな上澄みしか語っていない、という実感がある。でもこれはまだ出だしなのだ。それも仕方がないかもしれない。これをどう、彼らの語りたくないところにまでもっていくか、ってことなんだろう。 語りたくないこと、自分でさえ目をそむけたくなること、そういったものこそ語られなければならないと私は思う。そういったものに日の光を当てる。彼らに目を背けさせない。そういったところにまで至らなければ、この対話の意味は半減する。 被害者の被害その後を知ってもらうことも重要なポイントだ。でも、それだけじゃ、だめなんだ。彼らはぺこぺこすみませんすみませんと頭をさげるばかり。一体何にすみませんと頭を下げているのか、考え及んでいなかったりする。すみませんと言うしか術がない、というところで頭を下げている彼らがいる。
Jさんははじめて参加したからか、目が飛び出さんばかりの勢いで驚いていた。みんな見事に病人じゃないか、と。これはもう病気としかいいようがない、そういうのを目の当たりにして、Jさんは、もう圧倒された、とぼそり言った。こんな現実があるんだね、と。私は苦笑するばかりだった。
それともうひとつ。 誰もが、すべてのひとびとが、加害者にも被害者にもなり得る、と。私はそう思っている。だからこそ、そこから目を背けてはいけないとそう信じている。 そう、まさに。 今日この後、あなたが、あるいはあなたの大事な人が、被害者になるかもしれない。はたまた、加害者になるかもしれない。誰もに等しくその可能性がある。
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