ささやかな日々

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2022年06月19日(日) 
ふだん、眠れても3時間がせいぜいなのに、昨夜は横になったと同時に意識を失い、気づいたら朝になっていた。目が覚めてびっくり、辺りが明るい。こんなことってあるんだなと笑ってしまう。
よほど昨日の「聴く」ことがしんどかったんだな、と改めて思う。まぁでも、そりゃそうだよなぁとも思う。彼らの認知の歪みの酷さに、Jさんは目をぱちくりしていた。彼らはまだまだ自分のより酷い加害行為を口にしていなかったにもかかわらず、だ。もし、彼らが、もっと正直に、もっと赤裸々に自分を吐露していたなら。Jさんはもう机に突っ伏していたんじゃなかろうか。そう思う。
じゃぁ私は? 私は。いつもここでちょっと途方に暮れるのだ。
私は、彼らの話を、認知の歪み、と一刀両断できないのだ。いつも。何と言うか、一歩間違えばきっと誰もがこういう状況に陥る、私もきっと、と、そう思えるから、だ。それをカウンセラーにちらり話したことがあるのだが、カウンセラーはその時、「あなたはいつだってことを我が事として受け止めるからねえ」と苦笑していた。どうなんだろう、自分で自分を省みると正直よく分からない、ただ、他人事ではない、とは思う。加害性も被害性も、誰もが等しくその裡に秘めているもの。どちらかだけ、の人間なんて、存在しない、と、そう思う。
だからこそ、彼らの話を自分事として聴くと、とてつもなくエネルギーを奪われるのだ。全身を太陽で焼かれているような冷たさ、とでも言おうか。そんな相反するものに引き裂かれてゆく、そんな心地にいつもさせられる。

「聴く」ことは、「待つ」こと、だと思う。特に私のようなせっかちな人間にとって、「聴く」とはまさしく「待つこと、それ以外の何者でもないな、と。そう思う。
たとえば語り手が言い澱み、言葉を探している時。こう言いたいんじゃないかと予想ができてしまう時。それでもじっと待って、相手に語ってもらうことの大切さ。決してこちらから先走って言葉を奪わないことの大事さ。
親子でもよくあることだ。子どもの言葉や行為が、あと一歩のところでもどかしかったりいらいらしたりする時、先走って手を貸してしまう、こっちがやってしまう、といったこと。よくあると思う。
でもこういう時こそ、「待つ」ことが試されてるんじゃないか、と。思うのだ。
言葉や行為を、奪ってはいけない。言い澱んだり躊躇ったりしている時こそ、「待つ」。こちらがそれを試されているんだと思う。
にしても。昨日はとにかく疲れた。拭き掃除にさんざん使われた後、洗われてぎゅうぎゅうに絞られかちこちになったぼろ雑巾みたいだった。もしあれが、友達との会話だったら、私はきっと先走って、相手から言葉を奪っていたに違いない。何度も何度も。ここは対話の場なんだ、という意識が私をそうさせずに済ませたに過ぎない。たまたまその意識が強くあったから、「待つ」ことができたに過ぎない。
自戒を込めて、思う。待つことができなければ対話は成り立たない、と。

今日は世間で云うところの父の日で。数日前、息子がせっせとアイロンビーズでトラを作って家人にプレゼント済。さて今日はどうしよう、と思っていたら、家人の方から外でご飯食べようとの提案があった。ではそうしようということで夕方関内の方まで出掛ける。
ああ世の中はこんなに賑やかなのだな、と、店に入って改めて気づく。みんなコロナに疲れてるんだろうなぁとも思ったりする。テーブルの中央に立った透明な衝立。家人が苦笑しながら「誰も責任をとりたくないから、こういうものが当たり前に置かれるんだよな」と言う。ああなるほど、と思う。

それにしても、身体が痛む。テニスボールでせっせとケアしてみるのだが、追いつかない。仕方なく鎮痛剤を投入。効いてくれるといいのだけれど。
今夜は本を少し読めるだろうか。読みたいな。一頁でもいいから。


浅岡忍 HOMEMAIL

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