2022年06月25日(土) |
ようやっと怒涛の日々が終わった。もうまったく余力がなかった。その感じだけがくっきり残っている。 というのも、終わった途端すべてがすっ飛んで、予定表を見なければここ数日何があったのかを思い出せないという具合。予定表を見て辛うじて、これとこれの用事があったらしい、ということだけは把握できるのだけれども。 解離性健忘って怖いなって、改めて思う。いやそもそも、そんなに私解離し続けてるのか、と呆れる。でも確かに微かに残る映像はすべて、俯瞰図だったりする。もう被害から何十年経ているのにまだここか? それがどうにもこうにも受け容れられなかったりする。もういい加減、もうちょっとマシなところにいけないものなのか? と。 複雑に絡み合った被害があなたに与えたものは計り知れない、とカウンセラーが口酸っぱくして言うけれど。計り知れなさすぎるだろ、と時々唾棄したくなる。
24日、大学での講義。今度こそ原稿を見ないで喋ろう、と思っていたのだけれど、とてもじゃないが無理だった。喋ってるうちに自分の背後に私の眼は移動し、私を含めた映像を脳に映し出す具合で。ああもう無理だと思って必死に手元の原稿を読んだ。 居眠りしている子、あらぬ方向をぼんやり眺めて頬杖してる子、俯いてこちらをまったく見ていない子、そういった子たちの合間合間に、まっすぐにこちらを見て来る子らの視線も。そういうもんだよな、私が学生の時もたしか、そんな感じだったよな、とそんなことを思ってみたりして何とか自分を保つ。 講義後、Kさんの紹介でSさんと会う。ああこの方がSさんか、と思ったのを微かに覚えている。でもあまりに講義の直後すぎて、そう思えたのはだいぶ時間が経ってからだったのだけれども。 Kさんの紹介で、家族から被害を受けているという子の話をうかがう。それが終わってから、Kさんと少し打ち合わせした。
最近息子を寝かしつけていると家人が隣にやってくる。足を絡めて来たりするのだけれど、それがどうにもこうにも嫌で受け容れられない。たかが足を絡めただけじゃないか、腕を乗せただけじゃないか、確かにそうだ。たかがそれだけ。でも嫌なのだ。猛烈に嫌なのだ。同時に、猛烈な嫌悪感を感じてしまう自分に、猛烈に腹が立つ。 家人は私のパートナーだ。分かってる。一緒に暮らしているし籍もいれたし子もいる。分かってる。子ども作れたやんか、と思うのだけれど、その時は何とか必死に頑張れた。でも。それが終わってしまい、PEの治療が進むにつれて、無理さ加減が増大していった。 分かってる、大事なひとだ。セックスできるものならしたい。でも。 無理なのだ、受け容れ難いのだ、肌がくっつく、というだけで、無理だ、と心が拒絶する。家人をそんなに嫌っているのか? いや違う、そうじゃない、そうじゃなくて。 肌が触れる、というそのことが、嫌悪、なのだ。 思い出してしまうのだ、加害者の、繰り返された彼の加害行為が。思い出されてしまうのだ。もう何十年も前のことなのに、今ここで繰り広げられているかのような錯覚を起こしてしまう。とてもじゃないが受け容れられない。無理。 何をやってるんだろう、と思う。家人が私に触れるのは当たり前だろう、夫婦なのだし、家族なのだし、一緒に暮らしているのだし。当たり前のはずだ。でも。でも。でも! 肌がぺたり触れ合う、さらり触れ合う、それだけで戦慄するのだ、私の身体が。勝手にそうなってしまうのだ。 そういう自分に同時に、ぞっとする。 この時期電車の中バスの中でも、肌が触れる時が時々あるのだが。あの時私は全力で戦闘態勢に入ってしまう。隣に座った人間の肌が私の肌にくっついた瞬間、隣人は全力で私の敵になる。攻撃対象になる。何やってんだ自分、と思う隙間もなく、とにかく何かちょっと向こうが動けば、攻撃してやる、というその一心で、私の気持ちは集中してしまう。いつかそうして私は他人を実際に攻撃し怪我をさせてしまうんじゃないかと怖い。そのくらい見事に戦闘態勢に入ってしまう。
自分が嫌だ。何より自分が嫌だ。そういう自分が嫌だ。 |
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