2022年07月11日(月) |
矯正研究に掲載されている藤岡先生の論文を少しずつ読み始めてみる。活字を追うのがまだしんどいけれども、そうも言ってられない。山積みの本を少しずつでも片づけなければ。論文の中にJさんのお名前が出てきて、ふっと気持ちがJさんの方に向かう。元気でいるだろうか。具合がよくないと聞いたけれど、もう大丈夫になっただろうか。
朝顔がちっとも花が咲かないのには理由があるそうで。肥料があってない、とか、茂り過ぎ、とか。そのどちらも当てはまらない場合はどうなんだろう? 見事に花芽がつかない。母ならこんな時、すぐ原因を見つけられるのだろうけれども、私ではまだまだ、そうはいかない。ああでもないこうでもない、と悪戦苦闘するばかり。 紫陽花の挿し枝は何とか育っている。この暑い中、新葉を拡げ始めてくれており。ありがたいなぁと思う。クリーミーエデンの新苗は、すっかり草臥れてしまっていて、ほとんどの葉が散り落ちてしまった。花を見るのを楽しみにしているのに、今こんな具合では夏を越せないかもしれない。心配だ。 私は植物を育てながら、きっと、心のバランスを保ってるんだと思う。彼らが無事育ってくれていると、私もまだ生き延びていける気がするのだ。もうだめだ、と思う時でも、ベランダで彼ら緑がひらひらと風に揺れ囁いてくれれば、何とかなるかもしれないと思うことができたりする。彼らを育てているのは私かもしれないけれども、彼らに支えられているのもまた、私だ。
月曜午後。アートセラピー講師の日。自分の心の中の暗い部分を形にしようというテーマでフォトコラージュに取り組んでもらう。いつも思うのだが、彼らにはきっと語りたいことがやまほどあって、でも言葉が追いついていかないから語れないだけなんだと思う。だって、フォトコラージュ等してもらうと、彼らは実に饒舌に語り出すからだ。 コラージュの中にクレヨンでメキシコの言葉をちりばめさせた子もいれば、写真と写真を道でつないだひとも。きっちり写真を並べて用紙を埋めたひともいれば、仕掛け絵本のように覗き穴をつけたひとも。どれもこれも、私ではとうてい思いつかない発想で、隣にいるだけでもうどきどきする。彼らに教えられることの、なんとたくさんあることか。 途中で久里浜の病院のスタッフらが見学に来られた。そのスタッフさんも並んだところで、メンバー全員で作品たちをシェア。タイトルの付け方もみなそれぞれ個性的で、読み上げるのが楽しかったりする。 施設までの道、自転車で走る。陽射しがこれでもかというほど照り付ける中走る。マスクなんてしていたら顔中汗だくになってしまうから、早々に外す。外では外してもいいようなことを医者が言っていたけれど、街中を歩いているときすれ違うひとらはみな、マスクをきっちりつけている。外しているのは自分だけだったりするから、すごく居心地が悪い。マスクは一体、いつまで私たちの顔に貼りついているんだろう。
今はっと思い出した。今日は朝一番に映画を観たのだった。「神は見返りを求める」。前から気になっていた。ようやくチャンスを得て見てみた。 なかなかきつい映画だった。今この時代を実によく吸い取って写し取っていた気がする。登場人物たちの醸す雰囲気に怖ささえ覚えた。観る者の心の、不快な部分をざらざらと逆撫でしてくるような映画で。気づいたらじっと見入ってしまっていた。ムロツヨシ氏の演技があまりに絶妙で、こんな演技ができる俳優さんだったんだ、と感心した。ラストの、踊るムロさんの後ろ姿を逆光で映すシーンは、ぎゅっと胸が掴まれた。人間の滑稽さ、切なさが、スクリーンいっぱいにあふれているかのようだった。「空白」を撮った監督さんの作品だと後で知って、ああなるほど、と勝手に納得してしまった。人間の、人間ならではの滑稽さ、残酷さ、情けなさを、存分に映し出す、そんな映画で。その人間の抉り方には、惹かれるものがあった。不愉快なのに、不快なのに気になる。そういう映画。
身体の痛みが酷いので、鎮痛剤をちょっと多めに飲む。これで少しの間だけでも楽になるといい。 |
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