ささやかな日々

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2022年07月16日(土) 
ここ数日日記を書こうにも体力気力が足りず書けなかった。ようやっと今紙に向かって、数日を省みようと試みるのだけれど、ぼんやりしていてほぼ思い出せない。唯一思い出せるのは病院に行ったというそのこと。それは隔週金曜が通院日だから思い出せるだけの話で、もしこれが、一か月に一度とか、たまにしかなかったら、きっと今も思い出せていないに違いない。

通院日。確かいつものように電車に乗って出かけた。カウンセラーと向き合い、時々、あれ、今私何を話してましたっけ、と言った気がする。そのたび先生が、今さっきはこれこれこういう話をしていたのよ、と教えてくれたんだった。身体痛がかなり酷くて、テニスボールを持っていった。背中や腰あたりをテニスボールでごりごりやりながら、カウンセリングを受けた。
診察がいつもより早く回ってきて、診察室に入ると、先生はいつものようににこにこしていてほっとしたんだった。何かの拍子に血管の話になって、歳を取る程血管は浮き出てくるものなのよ、筋肉や脂肪が血管を抑えておけなくなるのよ、みたいなことを先生が言った時、ああ私は一番若くてきれいだったはずの二十代後半、被害のおかげでまるっきり閉じ篭って過ごしたんだったなぁ、私のきれいはどこに消えたんだろう、なんて、柄にもなく思ったんだった。

宿泊学級で息子が夜いないので、家人に誘われ飲みにゆく。といっても私は梅酒くらいしか今飲めなくなっているのだけれども。
お酒を飲むなら煙草が吸えるところがいい、と私が言ったものだから、家人が困ってあれこれスマホで調べていたのだけれど、途中で「ああもう面倒くさい。行って聞くのが早いよ、そうしよう」と。そういう家人も昔は煙草を吸っていた、特に飲んだ時はぱかぱか吸っていたんだけれども。

このくらいは何とか思い出せる。
私の記憶はそのくらいが限界。

「不遇な幼少期を過ごした人は、自分は何をしてもいいと歪んだ特権意識を持つようになりがち。そういう人が生まれやすい社会情勢。孤立する人達をケアする体制が必要」。とある精神科医が吐いたという言葉。会ったこともない人間をそう分析したそうで。
不遇な幼少期を過ごした人間を何人も知ってる。でもそうした人間の誰一人として、歪んだ特権意識なんて持っていやしない。むしろ、不遇な幼少期を過ごしたからこそ、それを繰り返させてはならないと活動するひとたちばかりだ。
私は何でこの言葉が喉元に引っかかってしまったかといえば、これが精神科医の言葉で、なおかつその精神科医が人間を診もしないでこう評したから、だ。
何なんだろう、この無責任さ。一度たりとも診察したことがない相手をこう断罪できてしまう精神科医。私が接したことのある精神科医らとは、まったく異なる人種としか思えない。
むしろ、貴殿のように誰かを断罪する精神科医がいることが社会の害悪にしか私には思えない。ひとを孤立させているのは貴殿のこんな言葉の方だと思うが。

それにしても。よく雨が降る。梅雨明けしてから雨が降る不思議。溜まった洗濯物を一体いつ片付けられるのだろうと途方に暮れている。部屋干しした洗濯物の感触は、いくら消臭剤やら柔軟剤やら使ったからって好きじゃない。ふにゃっとしていてハリがない。せっかく洗濯したのにくてっとしている洗濯物は悲しい。


浅岡忍 HOMEMAIL

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