ささやかな日々

DiaryINDEXpastwill HOME


2022年07月17日(日) 
朝顔が咲かないと、息子と朝顔の蔓の前で腕組して蹲る。何がいけないんだろう、何が去年と違うんだろうと息子とふたり首を傾げる。長雨のせいなのか何なのか、それともそもそも土がいけなかったのか。分からない。「もうちょっと待っていなさいよ、待つのも大事よ」と電話をして訊ねた母が言う。植物を育てるのには待つことも大事なポイントのひとつよ、と言われている気がした。なるほど、私達には「待つ」が足りない。それは確かにそうだ。もうちょっと、待ってみよう。「天気がよくなればまた変わるわよ」。母のこののんびりさ加減。植物以外のことでこんなのんびりさ加減を母の背中から見て取ったことはないのだが。彼女は植物のことになるとこう、なんというか、神がかってくるから不思議だ。

家人の京都行が目前になってきた。ばたばたしている。いや、ばたばたしているのは家人だけのはずなのだが、ばたばたしているひとを見ているとこちらも何となく気ぜわしくなってくる。何かしなくちゃいけない気になってくる。
確かにやらなくちゃいけないことが自分にも山積みなことに改めて気づく。手紙の返事を書かなくちゃならないし、プログラムのための原稿も書かなくちゃいけないし、来週の撮影の用意もしなくちゃいけない。そもそも二か月後に迫った展示の準備もやらなくちゃいけない。うわ、やらなきゃならないことだらけじゃん、といきなりどぎまぎしてくる。
この暑さにやられて何一つ満足にできていない。暑さのせいにしているが、いや、確かにクーラーのない部屋での作業は地獄で、全然捗らないというのも事実なのだけれど、それでも。
思うのだけれど。冬の寒さは着込めば凌げる。でも夏の暑さは。どうしようもない。為す術がない。暑さを前にして為す術がないという、そのことが、さらに私をどんよりさせるのだな、と今思った。抗いようのないことが、私をどん詰まりにさせるのだ、と。ふむ。

最近、文章をしたためる時、たいてい原摩利彦氏の「流浪の月」のサウンドトラックを聴いている。落ち着くのだ。音が始まると、すっと、自分がシャボン玉の中にでも入ったかのような錯覚を覚える。薄い膜がかかった、というような。だから、自分をちゃんと守った状態で自分に降りてゆける。
空の色が変わり始めた。昨夜のうちに日記を書くつもりだったのが、書けずに今になってしまった。夜明けが近い。ああ、今朝の空は静かだ。夜闇が徐々に徐々に消えてゆきながら地平線が暗橙色に膨らみ始めた。小さな雲がちぎれちぎれ、地平線近くに浮かんでいる。ここからがあっという間なのだ、空の変わりようが。じっと、ただじっと見つめていたくなる。
昨夜だったか、以前レース編みして作った小袋をプレゼントしたTから連絡があって、袋の糸がほつれてしまった、と。もう寿命かなあ、と。この春だったかほつれたばかりだったから、ああ、もう糸が限界なのだなと思った。ずいぶん長くつかってもらったから、まさしくその言葉どおり、寿命、なのだろう。
昨夜はそれで終わったのだけれど。何となく心に引っかかっていて。というのも、彼女はものを大事に使うひとで。ひとつのものを長く愛でるひとで。ちょうど12月、約半年後が彼女の誕生日だから、それに向けてまた小袋を作ろうかな、と。そう思いついた。うかがいのメッセージを送る。

ああ、今ちょうど太陽が雲の向こうに現れた。雲の微妙な切れ間から燃え上がる橙色が透けて見える。朝だ。
無事に一日を越えた。そしてここから、新しい一日が始まる。


浅岡忍 HOMEMAIL

My追加